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東京の友人の友人氏へ[面としての観光]

kage

2017/08/31 (Thu)

東京の友人の友人氏へ[面としての観光]

 度重なる投稿に感謝申し上げる。観光事業を面として捉え、訪問者を「まちなか回遊」に導くのが重要である事は貴殿と同じ考えである。
 
 小生は数十年前、米織会館の「織り元直販の店 織陣」に関わっていたことは以前掲載したが、当時から「面による観光」が重要であると考えパンフレット制作を計画していた。しかし城史苑が出来たことで業績が悪化し、閉店に追い込まれたことから実現出来ず現在に至る。

 当時計画したコースの一つを紹介したい。
 何と言っても上杉神社を訪れる訪問者を第1のターゲットとする。そこを起点として東に進むと「ウコギロード」が有り、そこでは「ウコギと鷹山公の物語」を紹介し、米織会館の米沢織物歴史資料館では「米織と鷹山公の物語」がある。(当時「織陣」では手織り織機を展示して手織り体験が出来た)

 大門交番(現在は移転)を南に進むと「刺し子の遠藤清子氏」・「出羽の織り座」と続く。そのまま南進し交差点を左折して東進すれば「中華そば」・「東光の酒蔵」・「醤油の平山」があり、更に東進すれば「東寺町」に至る。
(この場所に「寺町」が存在する理由は遠藤英氏著「直江兼続がつくったまち米沢」に説明されているので、多くの方のまちなか回遊を望み、一昨年荘内銀行の補助金を利用し、この冊子を米沢市内の中学校へ160冊、市内の旅館・ホテルに40冊を贈呈した。)

 寺町には鷹山公忠臣の墓が複数あるが、極楽寺にはとりわけ密度の濃い物語があり、やがて竜泉寺に至る。竜泉寺には戊辰戦争の悲話があり、左折して西進すれば前述の義経物語と続き、「札の辻」を経て上杉神社に戻る。
 簡単に説明したが、詳細は又の機会にしたい。

 以上は小生が考える「まちなか回遊素材」のほんの一部で、米沢市全体では膨大な量となる。これらを具現化するべく観光振興委員に応募したが「誤字脱字が多い」との理由で採用されなかった。
 しからば小生より優秀として採用された公募案の情報公開を求めると「応募者の利権を侵害する」との理由で非開示となった。米沢市の観光に寄与すべく公募した観光振興案であるから「個人の利権は存在しない」と抗議したが聞く耳持たずの観光課であった。

 如何に米沢市観光に寄与するアイデアであっても、それを具現化するには経費が必要であり、個人で負担するには限界がある。そこで、公金の投入を期待したいところだが、本市の職員は「無駄な事業には公金を注ぎ、市に役立つ事業には出金を惜しむ」を本懐としている。
 こう述べると「思い過ごしだろう」との弁を賜るが、小生と一緒に当局と面談すれば「なるほど」と合点されるはず。
   
 8/29には副市長と観光行政の話で面談し、9/1には市長と面談するが、両氏とも安部元市長よりは聞く耳を持っているので小生は期待している。
(安部元市長は「市民との対話」を公約に掲げながら、当選当初より、何故か小生との対話はかたくなに拒むのであった)

極楽寺の紅葉(ワンクリックで拡大)
極楽寺3 極楽寺2

どうなるポポロビル跡

kage

2017/08/30 (Wed)

どうなるポポロビル跡

 ポポロビルに現在入居中のモンテローザ(居酒屋)が、今年5月頃に文書にて11月末迄に退去する旨の申し出があったとポポロビル側が公表した。

ポポロビルは安部三十郎元市長が図書館建設を計画した所だが、モンテローザが退去しないことから「まちの広場」に変更された。
 その時、市民へは「ポポロビル跡地に再びまちの広場を造成する」と説明し、ポポロビル側と本市は売買に関する覚書きを交わしている。

 その後、議会で「ポポロビル跡地にひろ場を造成するのか?」との議員質問に、安部元市長は「夢を語っただけ」と嘯(うそぶ)いたという経緯がある。
 
 当時、図書館建設説明会では「大金をつぎ込んで財政面は大丈夫か?」と心配する市民に「建設債はこの通り激減の傾向にあり、心配ない」と説明していたが、実際には預金を取り崩す赤字財政であった。
 中川市長になって安部市政地代の赤字財政が続いたので金銭的に厳しいことが判明した上に、市立病院建替・新みちの駅建設・市庁舎建替問題などが浮上した。

 非公式ではあるが行政側の考えとして「金の掛かる事業が目白押しだ。ポポロビルに関しては当面まちの広場建設と言うことには繋がらない」」との話が耳に入る。

 安部元市長の「図書館で中心市街地の活性化を図る」とした事業は、青森の 6階~8階青森市民図書館の複合施設「アウガ」が倒産したことでも明らかなように、商業ベースの活性化は無理である。

 商才に長けるポポロビルの実質オーナーのS氏だが、図書館が出来てもポポロビル跡地の活用話が市井に伝わらないのは、この場所に魅力を感じないからではなかろうか。

 ポポロビル跡地については、広く市民の意見を聞き、安部施政の計画をもう一度見直す事が肝要と思う。

東京の友人の友人氏へ[義経と日蓮]

kage

2017/08/27 (Sun)

東京の友人の友人氏へ[義経と日蓮]

 当ブログ8/22掲載の[歴史四方山話②]に、東京の友人の友人氏より「日蓮生誕は義経没後である」とのことから、内容の齟齬を指摘いただいた。
 義経が亡くなったのは1189年6月15日、日蓮が生まれたのは1222年2月16日と伝えられているので確かにご指摘の通りである。そこで、歴史や伝承に詳しい方に伺ったところ、次のような見解が寄せられた。

『八幡神社の由来書では、創建時期は。源義家が後三年の頃京都の岩清水八幡から請来。
 妙圓寺創建は日蓮没後二十四年目の嘉元四年に開山、同年八月「正八幡大善薩開眼供養」と伝承。
 「柳町八幡堂」は先に建立されており、鎌倉後期に八幡堂別当寺として妙圓寺が開山され、八幡堂伝承を継承したのではないか。妙圓寺の住職による夢を重ねて日蓮大聖人として現在に伝わったものか、又は、前代の法相宗当寺本尊薬師如来像を後の別当寺が日蓮像にすり替えて伝承されたのではないか』

 昔話や伝承であるので、年代に齟齬があるのは致し方ないが、もしこの伝承を公に本市の観光素材に取り上げるのであれば、一考を要するものと考える。

 以上の話は伝承の類いであり、史実と違っても許される話だが、国史蹟指定の「舘山城」に関しては、6,000万円の公金を投入した発掘調査なので「舘山城は現在の舘山発電所に存在し、伊達政宗が築城(改築)した。政宗が岩出山に移封されるとき、破城した」とする手塚孝職員の捏造話は容認できない。
 
 以下は情報公開条例にて、教育委員会から得たものである。
政宗関係2

 以上から分かるように、舘山発電所に伊達政宗の築城を証明する資料は無く、先人による調査の結果は何十年も前に、吹屋敷入り口に写真のように看板で表記している。
吹屋敷入り口 政宗築城看板

 
 伊達政宗生誕450年を機に、この看板を目立つ物に変えたいと観光課に提言しているが ・・・

驚愕の対応!! 市民環境部 ②

kage

2017/08/25 (Fri)

驚愕の対応!! 市民環境部 ②

 「臭いは元から絶たなきゃダメ!!」というコマーシャルが有り、臭いに限らず、元(原因)を取り除かなければやがて重大なリスクが生じることは一般社会の常識である。しかるに、後藤利明市民環境部長の原因調査をかたくなに拒む理由に疑義を感ぜざるを得ない。
 前述したが、その理由は「原因場所が特定出来ないから」・「汚染は健康被害を起こさない程度」とのことだ。

 これを病気に例えると、咳が止まらない患者に「咳だけでは死に至らないから咳止めの薬を出しておきましょう」と原因を検査しない、様子を見るだけの医者の為に、やがて手遅れの肺がんで死に至らしむようなものだ。

 上記のような場合、医者に対する損害賠償裁判のケースが見られるが、当会にも現在「油汚染の対策を怠る市職員に損害賠償請求が出来ないものか」との相談が来ているので調べている。

 国家賠償法の解説には「厳密な法規違反だけでなく、裁量権の逸脱や濫用、健全な社会通念や信義則違反のような、客観的に見て正当性を欠いているような場合も含まれます。また、不作為(やるべきことをやらないこと)も違法なのです。」との解説がある。

 油流出は発生から9ヶ月経過した現在でも続いており、今日8/25は「川から異臭がする」と住民の騒ぎがあったという。
 このような原因を取り除かない行為(やるべきことをやらない不作為行為)に損害賠償を請求できる可能性はある。

 写真を見てほしい。これが市民への安全と安心を提供する責務のある「米沢市職員」の河川油汚染への対策である。これで万全の対策を施したと思っている担当者に驚愕してしまう。
 そして汚染の薄まった川下の水を採取して「健康に影響が無い」と嘯(うそぶ)く勤務ぶりに納得できない小生である。
油汚染1

驚愕の対応!! 市民環境部 ①

kage

2017/08/24 (Thu)

驚愕の対応!! 市民環境部 ①

 去る8/10、鍛治川の油汚染に対して中川市長宛に要望書が提出された。要望書の要旨は、『河川への油流出があった。市は対策として、河川への油流出口を塞ぐ・オイルフェンスの設置の措置を行い、「環境基準値を下回る汚染度なので健康に害を及ぼさない」との態度で放置しているが、現在でも河川汚染は続いている。
 もし、地下タンクに多量の油が残存した場合、地下水を利用している住民・企業に多大な影響を与えるし、その不安を持ち続けなければならない。
 原因は、廃業した丸山染色の地下タンクからの流出の可能性が高いので、調査を依頼する。』というものであった。

 それに対して当局は「検討する」と答えている。そこで過日、後藤市民環境部長に「どのように検討したか」と質したところ、次のような答えが返ってきた。
①油が廃業した丸山染色の地下タンクから流出していると言うのは想定である。想定である以上予算執行は出来ない。
②差し当たっては地下水の水質検査をする。

 多くの住民が不安視しているのは、「本市は消雪に地下水を使用しているので揚水が始まると40m以上も水位が下がり、夏場には元の水位に戻る。この現象を繰り返した場合、将来地下水に油臭が入り飲料水として使用できなくなるのではないか」ということである。

 小生の質問に、後藤部長は「先ず地下水を調査する」と言うが、油は水より軽い為、簡単に地下水の層までには浸透しない。住民は、40m以上も上下する水位変化によって、何年か後にその影響が出る事を懸念しているのである。 要望書を眺めても、「現在の地下水が汚染されていないか調査してくれ」とはどこにも書かれていない。書かれているのは「発生源の特定」と「残留油が将来地下水に影響を与えないか」である。

 何故後藤部長は要望をしていない「地下水の水質検査」を実行し、要望の「発生源の特定」をやらないのか?
 要望書では「廃業した丸山染色の地下タンク」が発生源の疑いと言っているのに、「想定だから調査しない」とは何事だ!! 疑いが想定されるからこそ「調査してくれ」と要望しているのであって、確定しているのであれば原因調査など必要なく、残留油への対策であろう。
【続く】

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話③]

kage

2017/08/23 (Wed)

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話③]
前述より続く、

◆ 義経と佐藤兄弟
 源頼朝が伊豆で兵を挙げた話が、義経のいる平泉まで伝わり、義経は兄・頼朝のもとへ行く決心をします。藤原秀衡はその義経のために米沢に住む佐藤継信(兄)、忠信(弟)の二人を義経の家来としてつけてくれます。義経の家来というと武蔵坊弁慶が非常に有名ですが、弁慶は実在せず物騒の中で創作された架空の人物です。
 それゆえ義経が真に頼りにした忠臣は佐藤兄弟のみといえます。藤原秀衡は佐藤兄弟が誠実、勇敢なところから特に選んで義経につけたものと考えられます。

兄/継信の最後
 佐藤兄弟は、義経と共に各地で勇敢に戦い歴史に残る合戦での名場面を残しています。その戦いのひとつに四国の屋島の合戦があります。義経は少数の兵で平家の陣営を奇襲攻撃します。激戦の中、平家方随一の勇将、平教経は義経を見つけ、強弓から矢を放ちます。矢は一直線に義経に向いもはや義経の命もこれまでと思われたとき、脇にいた兄・継信がとっさに義経の前に立ちふさがり、身代わりとなって矢を受けて討ち死にします。

弟/忠信の最後
 弟である忠信は後に義経が頼朝の軍勢に追われ、吉野の山中で囲まれたとき、「われこそは義経なりと名乗りをあげ、敵の注意を自分に引きつけ、その間に義経を逃しています。忠信は奮戦のあと吉野を逃れ、京都に潜んでいましたが、後に、討手と戦い討ち死にします。

義経の米沢行き
 弟・忠信のおかげで危うく難をのがれた義経は、安宅の関を経て、平泉へ向かう途中、米沢へ立ち寄り、佐藤兄弟の母に会い、兄弟の最後の様子を詳しく伝え、自分のために命を投げ出してくれた行為に対して深く礼を述べました。 老母は気丈に義経にお答えし、佐藤兄弟の子供たちを義経に引き合わせたと言われます。さらに、義経は兄弟の菩提を米沢の常信庵で弔いました。この義経の米沢行きはほとんど知られていませんが根拠のある話であり、また、人々の感動をさそう名場面として、ぜひとも世にだすべきと思われます。

 米沢駅のアスクにも「義経の米沢・忠臣佐藤兄弟との物語」の説明パネルが掲示されているので一見願いたい。

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話②]

kage

2017/08/22 (Tue)

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話②]
前述より続く、

◆ 妙円寺目洗い池伝説。
 豪族どもを蹴散らし、目に傷を負った鈴木三郎重家を気遣いながら一行は町中の妙円寺(旧柳町)へと辿り着いた。
 時の妙円寺は奥羽での日蓮宗拠点の大寺の一つであり、境内には綺麗に澄んだ霊泉が湧きだしており、鈴木三郎重家はここで傷ついた目の治療をしようと、この霊泉で目を洗ったところ、またたく間に痛みが取れたのであった。
 その後、寺の住職から、真っ白な絹の布をもらい受け、傷を負った目をこの布で縛り、お礼を言って妙円寺を後に、義経の忠臣であった今は亡き佐藤嗣信・忠信兄弟の母の待つ花沢舘へと向かったのでありました。
 そして花沢舘に到着し、再度三郎重家の傷の手当てをしようと、絹の布を解いたところ、あらあら摩訶不思議、あの重傷の傷跡がまったく跡かたも無く直っていたのでした。
 この事に驚きはしたものの、取敢えずは妙円寺の和尚にお礼を言いに戻ったところ、妙円寺の和尚は、「その時、私は檀家の法要に出かけていて留守にしていた」との事、不思議に思い霊泉の湧きだす池のたもとに行ってみると、前まで立派に両目が開いていた金魚の片方の目が潰れているのでした。
 これは金魚が身代わりとなって目の傷を負ったのではないか、そして先ほどの住職は誰なのかと話していると、本堂を見た本当の住職が、本堂に安置されてある日蓮大聖人の両手に、先ほど頂いた真っ白な絹の布の片方がのっているのでした。
 さては、先ほどの住職の姿をした和尚は日蓮大聖人であったかと、みな驚き、有りがたく御礼を申し上げたのでした。
 それから後、この霊泉湧く池に魚を放すと、全て片目となるのでありました。
 其れから後の世に、この池で目を洗うと目の病がいつのまにか良くなっているとの伝説が生まれ、今につづいているのであります。

【続く】
 今、その泉は写真の状態であるが、小生は補修してまちなか回遊観光に利用したいと考えている。
片目の泉

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話①]

kage

2017/08/21 (Mon)

東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話①]

 投稿氏は観光行政にも関心がお有りのようなので触れてみたい。

 観光客が主の「織陣」という店の経営に携わってきたことから、観光行政には強い関心があり、観光と文化は金になる事を肌で感じる小生は、本市の観光行政に対して不甲斐なさを感じ、何年も前から提言しているが聞く耳持たずの観光課長であった。
 しかし、今年度になって観光課長が替わったことから会見を申し込んだところ、過日、快く課長以下3名の職員と会見する事が出来、約三時間にも及ぶ話し合いから、新課長の今後の活躍に期待が膨らんだ。

 観光事業の取り組みと言えば「風光明媚」や「由緒(歴史)有る建造物」等が思い浮かぶが、米沢市はそのどちらも多くの観光客を呼ぶ程のパワーは無い。特に「由緒(歴史)有る建造物」は大正時代の二度の大火で、その殆どを失っている。
 しかし、視覚に訴える物が無くても、歴史は生き続け、上杉や伊達の縁を訪ねる観光客の存在は貴重である。

 近年の観光に「歴女」なる言葉が取り上げられるように、眺める観光から、もっと深く歴史を訪ねる観光へ移行しつつある。そこで小生は「歴史を元に物語を膨らました、まちなか回遊観光」を提唱したい。

 「またなか回遊観光」のアイデアは多数有るが、今回は歴史四方山話として源義経を取り上げたい。

【義経の奥州平泉への経路】
 兄の源頼朝が義経討伐を決めたことにより、義経は追討を避けながら藤原秀衡を頼って奥州平泉へ赴くわけであるが、その経路については諸説あり、米沢には以下の言い伝えがある。

◆ 文治二年初冬、鎌倉幕府の圧力で京の都から逃れて来た源義経主従一行が、船坂峠を越えて来た時、突然地元の豪族らが行く手を阻み、「我が領地に断りも無く入る者は何者ぞ、通過するならそれなりの通行料を支払え」との不当な金品を要求するのであった。
 これに弁慶は「何を何を、我らは検非違使源義経殿一行でござる、無礼であるぞ」と口上を切ったが、豪族共らは、世の中の事には全く疎い輩であるゆえ、義経の事など知る由も無く、「金を出さぬなら、こやつら痛い目に合わせてくれん」と先具えの家臣・鈴木三郎重家にいきなり切りつけてきたのである。

 その時不覚にも鈴木三郎重家は片方の目に傷を負うこととなったが、これを見た弁慶は大いに怒り、豪族共らに激しく襲いかかった。その迫力に怖気づいた豪族らは「これでは敵わん」と仲間を呼び集めるために親分の屋敷へと退散した。

 弁慶は途中まで追いかけたが、子分等が逃げ込んだ親分の屋敷を確認したので、傍らの石に足を踏ん張り、強弓をキリリと引き絞り、親分の屋敷めがけて、これ又大きな鏑矢を放ったのであった。
鏑矢は大きな唸りと共にブスリと親分屋敷に突き刺さった。
刺さった矢の大きさに驚いた豪族どもは「この様な武者が居るのでは敵わない」と戦気を失い「どうぞ、どうぞ」と義経一行の通行を認めたのであった。

 この矢を放ったとき、弁慶が踏ん張った石に足がのめり込み、そのまま残った足跡を『弁慶の踏ん張り石』として、又、一帯の林を「弁慶林」として今に伝承されているのであります。[下写真 弁慶林と弁慶の踏ん張り石]

【続く】
弁慶林 踏ん張り石

團十郎

kage

2017/08/18 (Fri)

團十郎團十郎
 團十郎と言えば通常は歌舞伎界の市川團十郎を指すが、鉢植えの朝顔團十郎を友人から頂いた。
 草花にはとんと疎い小生だが、「茶色の花の朝顔が咲くよ」との説明に興味を持って開花を待ちわびていたが、漸く一輪開花した。
 花は写真のように海老茶色で、二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色にちなんで命名され、黄緑色の明るい葉色と相まって美しいコントラストをなす。
 この種は江戸時代に固定化されたのだそうで、江戸時代の花を愛でる文化が継承されて現在に至るが、はっきりと團十郎の特長を持つものは珍しく「幻の朝顔」とも言われている。

 朝に開花し、昼には萎んでしまう儚(はかな)い花の命だが、早めに花を摘み取らないと種子を作るために次の花が咲かないと聞き、10時に花を摘み取った。これからも何輪か咲いてくれるものと期待している。


油汚染、市対応に疑問!! ②

kage

2017/08/16 (Wed)

油汚染、市対応に疑問!! ②

 今般、住民の願いとして「要望書」が市長宛に提出された。これに対して「県とも相談して対応する」とのことだが、米新によると「時期が示されない」と書かれている。

 行政マンが「善処する」「前向きに検討する」等の語彙を耳にする住民は、「やってくれるだろう」と期待するが、実行する期日を明示しない場合には「やる振りをして、何もやらない」と言うのが実態である。

 そもそも「遅れず、休まず、働かず」「何もやらないのが最大の美徳」を金科玉条とする市職員(議員を含む)であるから、今回の要望書に対してもそのような結果になると思われる。
 このような場合、市長が担当部長に「○○迄やるように」等の指示を出せば話は別だが、中川市長の就任後を観察しても「○○に任せてある」として、強い指導力は感じられない。

 改めて今回の「要望書」を眺めると、河川への油流出があった。市は対策として、河川への油流出口を塞ぐ・オイルフェンスの設置の措置を行い、「環境基準値を下回る汚染度なので健康に害を及ぼさない」との態度で放置しているが、現在でも河川汚染は続いている。
 もし、地下タンクに多量の油が残存した場合、地下水を利用している住民・企業に多大な影響を与えるし、その不安を持ち続けなければならない。
原因は、廃業した丸山染色の地下タンクからの流出の可能性が高いので、調査を依頼する。との内容だ。

 小生は「要望書」が提出される前に、担当部課長と面談したが、「現在は健康被害や、実害の届け出が無い」ことを理由に「静観する」との考えだ。

この考えこそが「行政マンは鬼のようだ」と当会が主張する要因だ。一般企業なら、後々の水質汚染による補償金や賠償金の事を考え、早急の対策を講じるところ、市の担当職員は「実害が無い事に対応しろとの決まりは無い」と嘯(うそぶ)き、実害が出たときは「想定外でした」と釈明し、「どうせ市民の税金で賄われる」「自分の懐は痛まない」と、市民のために奉仕する気などさらさら無い。そして手にするのは年収約800万円と退職金の約3千万円である。
 
 「市民のために奉仕する気などさらさら無い」の証明は「県と相談する」との文言にある。即ち、今般は米沢市の問題であり、油流出の源を特定し、今後の危険を調査するのに、県に何を相談しようとするのであるか?

 

油汚染、市対応に疑問!! ①

kage

2017/08/15 (Tue)

油汚染、市対応に疑問!! ①

鍛治川油

 昨年11/22に震度4の地震の後、鍛治川(東高北側から商工会議所-四中方面に流れる)へ油の流出があり、県・市・消防が調査を行い、オイルフェンスの設置や、川への油流出口を塞ぐ工事を行った。
 しかし9ヶ月経過した現在でも油の流出が止まらないことから、地元住民を始めに20数名の署名を添えて、対策を講じるよう8/10中川市長宛に「要望書」の提出が行われた。
 その全文を入手したので以下に掲載する。


【要望書】
 昨年11月22日早朝の福島県沖地震後、城北一丁目地内の鍛治川に重油の流出が確認され、県・市に対策を求めたところ、それなりの措置は施されましたが、未だに川面への流出が確認できる状況にあります。
 市当局の見解は、流出は健康被害を及ぼす程のものでは無い事を理由に静観するとのことですが、汚染被害は河川だけに限らず地下への浸透も想定されます。
 吾妻硫黄鉱山は廃坑後何十年経過した現在でも害を及ぼし、ユニオン電機がテトラクロロエチレンを地下へ廃棄したことから、地下水に害を及ぼすなどの例があるように、地下汚染は何年も市民生活に害を及ぼすことが懸念され、決して看過できるものではありません。
 さて、今般の油流出は、元丸山染色の地下タンクに重油が残留していて、地震によるタンク破損が原因と考えられます。その場合には河川への流出よりも地下への浸透の方が深刻な被害を起こす可能性が大であり、地下水を利用している市民・企業への影響は計り知れないものが有ります。
 よって、元丸山染色地下タンク脇の市道をボーリングを行い、地下汚染の程度が将来に影響を及ぼすものか否かの判断を求めたく、ここに住民の署名を添えて要望致します。
平成二九年八月吉日

【続く】

東京の友人の友人氏へ④

kage

2017/08/14 (Mon)

東京の友人の友人氏へ④

 度重なるご意見に感謝申し上げる。

 地元の偉人や象徴を、フィギア・モニュメントとして設置することは何処の地域でも見られることである。その場合に頭を悩ますのが何処に置くかだが、小生は前田慶次に限らず設置場所選定に関わったので述べたい。

◆上杉神社参道に上杉鷹山公座像のとき。
 今から30年程前のことになるが、所属していた松が岬ライオンズクラブの周年記念事業として上杉鷹山公座像を米沢市に贈呈する事と決まった。
 市にそのことを申し出ると受け入れに難色を示したので、米沢駅前広場が候補地に上がり交渉したが、場所が無いとのことで断られた。

 再度米沢市に「上杉神社参道(現在の場所)」への設置を申し出ると、「あの場所は県の補助金を得て作った公園で、それを象徴するのが噴水だ。そのモニュメントに尻を向けることは罷り成らん。噴水と正対する向きなら良い」とのことで設置する事と相成ったが、訪れる方から「何故、上杉神社参拝客に尻を向けているのか」との苦言が多く寄せられた。

 苦肉の策として「鷹山公は今でも市政を心配し、市役所のある方向を向いて目配りしているのです」と説明したが、何とか参道に向きを変えたいとするのがクラブの願いであった。
 そこで小生が会長の時、高橋幸翁市長に「要望書」をもって願い出ると、「予算が無いので直ぐには出来ないが善処する」との回答を得た。数年後、県から補助金が出たので現在の向きとなり、安堵した。

 かように、如何に良かれと思われるモニュメントでも設置場所には苦労するが、送る側とすれば、ゆかりの地(生誕地や住居地)に拘る場合と、ゆかりの場所ではないが、モニュメントをもって、ゆかりの地に多くの人を誘導するを目的とし、駅前等の人の集まる場所に設置する場合が有る。

 慶次の館の場合、本市で一番観光客が訪れる地に隣接していることから、開館時には多くの観光客から「堂森の善光寺に行くには?」と質問を受け、用意した案内図があっという間に無くなった経緯がある。しかし観光は点として展開するのでは無く、面として展開すべきと考える小生なので、中川市長が道路の復元に応じた場合は慶次の館を起点とした「まちなか回遊観光」を仕掛けたいと思っている。

東京の友人の友人氏へ③

kage

2017/08/11 (Fri)

東京の友人の友人氏へ③

 前田慶次のフィギュアを何処に設置するかを検討して「慶次の館」を建てたのでは無く、観光に寄与することの出来る土地利用が、行政の市民いじめにより倉庫しか建築できない状況下での有効利用から、この館が出来た経緯はお分かり願えたと思う。

 当会が数年に亘り市当局と対峙してきたのは、市民の利益を考慮せず、低能市長を後ろ盾に、副市長の権力を笠に着ての越権行為に対してである。

 そもそも、接道の許認可は建設部の管轄であり、副市長にその権限は無い。当時の渡部建設部長は、近隣住民の承諾無しに道路を止めたことに「道路を復元する」と言明したのをぶち壊したのが町田副市長で、理由が「道路の復元は市の利益にならない」であった。

 小生は、「市の利益にならないからでは無く、副市長個人の利益にならないから」で、暗に「私に金を積まなければ接道は認めないぞ」と言うことだなと思った根拠は、十数年前に遡る。

 米沢市立第六中学校の建て替えに伴う入札が行われた。町田職員は当時総務部長として入札の責任者であり、彼の他に2名の職員が立ち会った。
 応札したのは5JVであり、入札の結果、5億円台・6億円台・7億円台の5枚の札から低価格の札を入れた置賜建設JVが落札者であると発表された。
 すると、金子建設JVから「もっと低価格の札があるはず」との発言に、町田職員は「間違いました。落札者は最低額の入札者、金子建設JVです」と訂正したのである。

 このことは「金子建設は、高額と定額の2枚の札を入れ、金子建設が落札するように町田係官と予め示し合わせていたが、町田係官がチョンボしたのさ」との噂が広まった。

 たった5枚の札を3人の係官が検査して、果たして間違うものであろうか?これが噂のような不正によるのであれば問題だし、不正が無いとしてもこの程度の作業を間違う職員の能力も問題だ、との市井の声があり、「市民が行政を監視しなければ」との思いから立ち上げたのが当会である。


 立ち上げたばかりの鬼の会は、「今回の間違いをどう思っているか」と町田係官に電話すると、「間違いは良く有る。この場合マニュアルに従って適正に処理したので問題はない」との回答であった。

 この回答に、町田職員への不信感と、行政に対する不信感から、その後当会は活動を継続している。

 「慶次の館」が何故今の場所にあるのかの貴殿の疑問に、相当膨らませて説明したが、観光行政の貧困の事例はこればかりでは無いので、今後も貴殿の投稿を期待申し上げる。

東京の友人の友人氏へ②

kage

2017/08/10 (Thu)

東京の友人の友人氏へ②

 観光に対するご意見を頂いたことに感謝申し上げる。観光は産業であるとの考えを持つ自治体は多く、その手腕により優劣が出るが、本市の観光行政は「お粗末」の一言に尽きると思っているので、貴殿が慶次の館に関心を寄せてくれたことに鑑み、もう少し述べたい。

 小生が若かりし頃、織物の産地である米沢に、特産品である「米織」を販売するところが無いのは残念であるとの思いから、観光客への販売を主とする、「織陣」と称する小売店を立ち上げ、その経営に深く関与していた。
 業績は順調に推移したが、平成三年に「城史苑」が開店したことから売り上げが激減して廃業に追い込まれた経緯があり、観光行政に対する思い入れには強いものがある。

 行政が関与する「城史苑」であれば、単なる利益追求に非ずして市民の利益を考慮すべきところ、「城史苑」は一部の利権者の懐を肥やし、市への利益還元が無いばかりか、既存の小売店が廃業に追い込まれる状態を招いていることは、三セクの本来の姿ではないとの考えを持ち続けている。
 しかしながら、現在は観光客の多くが「城史苑」を訪れ、言わば「観光米沢のメッカ」となったことは、それなりに市観光に寄与していることは認めざるを得ないが、多くの観光客が訪れる城史苑に隣接する土地が「死に土地」として草ボウボウの荒れ地で放置される事は小生にとって耐えがたいものであった。

 行政は、市民が観光に関連する事業を行うのであれば、便宜を図るのが当然と思っているので、慶次の館が建つ土地を「死に土地」にした行政に「道路を、近隣住民の承諾無しに廃したことは違法である。よって道路を復元すべし」と安部三十郎に会見を求めたが「今後とも会う意思は無い」と公文書で回答したのである。

 そこで、当時の町田副市長を窓口に道路復元の交渉を行ったところ、驚いた返事が返ってきた。
「行政の利益にならなければ、市民に利益を与えることは行わない」と言うのである。そこで小生は、「市民の利益を考えるのが行政ではないか。O氏は飲食店を営む計画であるので、雇用が増え、建物の固定資産税が市に入る行政の利益ではないか」と迫ったが、「聞く耳持たず」の町田副市長であった。
 この時、町田副市長が発した「行政の利益にならなければ・・・」の行政とは「自分の利益」を言っているのだなと感じ、噂通り、金を掴ませなければ動かない男だなと思った。
 
 町田元副市長が「金を掴ませなければ動かない男」との噂については、次回述べる。【続く】
 
 

東京の友人の友人氏へ

kage

2017/08/08 (Tue)

東京の友人の友人氏へ

 「前田慶次の館はなぜにあんな場所にあるのでしょう?」との質問を頂いたので以下に述べる。

 数年前にO氏は、現在慶次の館の有る土地を求めた。そこには建築確認申請に必要な4m道路(接道)の条件を満たすアパートが建っていた。
 O氏はアパートを取り壊して別物件を新築しようとしたところ、「これまでの道路は駐車場にしたので接道は無くなった。よって一切建築を認めない」との当局対応から、当該地は利用することが出来ず荒れ放題の状態が続いた。

 困り果てたO氏から当会に相談があったので、「近隣住民の承諾無しに道路を無くすことは違法である。元の状態に戻すべし」と安部前市長と談判したが応じなかった。
 担当職員に「一切建築を認めないというのは職権乱用罪に当たる。現状の接道でも倉庫は建築可能である」と県の通達を示して慶次の館を建設した経緯がある。

 説明の順序が逆になったが、ちょうどその頃、前田慶次の会(堂森)から、「博多から山笠の山車で作成した前田慶次像を贈呈するとの話がきているが、土地は借りるとしても、運賃その他の経費が約70万円に、収容する建物の建築費を考えると到底無理なので何とかならないか」との相談を受けた。

 そこで小生はO氏に「観光のメッカの土地を、草ボウボウにしておくのでは観光米沢の名が廃る。倉庫の建築は可能なので館を建て、そこに前田慶次の像を飾らせてくれ」と願ったところ、O氏が応じて前田慶次の館を建ててくれたことが、館がここに存在する理由である。

 安部市長から中川市長に代わり、交渉が可能となったことから、「住民の承諾無しに道路を止めたのは違法であるから、接道に必要な部分を元に戻してくれ」と話し合い中である。接道4m認可後の利用については、観光米沢に寄与する計画を練っている。

 来年は直江兼続の400回忌の節目でもあり、兼続の住まいから2~300mのこの場所に、盟友の前田慶次が居ることは、何らの不自然も無い。


おまつり広場のこと②

kage

2017/08/07 (Mon)

おまつり広場のこと②

 城史苑と、お祭り広場の駐車場に付いては、数年前より当局と掛け合ってきた。城史苑は、当駐車場をさも自分の駐車場の如く宣伝していることに「城史苑は駐車場の賃貸料を支払っていない。市は相当額を請求すべし」と進言したが、お祭り広場の管理者である「市観光課」にその気は無い。

 過日、城史苑と本市との賃貸契約書を情報公開条例に則り入手したが、契約内容に気になる部分があるので述べてみたい。(契約書の名称は「地上権設定契約証書」となっている)

1.地上権の存続期間は、平成3年12月12日から平成33年12月11日迄の30年間となっており、地上権の期間が満了したときは、城史苑の費用負担で更地として市に返還するとある。
 となると、あと4年で城史苑の建物は壊すことになるが、その間に県道米沢猪苗代線の拡幅工事が絡んでくるので、次にどうするかボチボチ議論の対象とすべきではないか。

2.契約時の地代については5年間据え置くとあるが、25年経過した今までに、適正価格であるか審議されたことは事は無い。当会は一般市民の支払う固定資産税なみに改定すべしと提言しているが、当時のままの格安が続いている。

3.城史苑が市から借りた土地には、鉄骨造堅固建物しか建築できない条件があるが、城史苑西側の建物は木造であり、完全に契約違反である。このことを指摘しても当局は馬耳東風である。 

 第三セクターによる事業は「公共目的」となっているので、城史苑を運営することで市民へ利益が還元されれば良いが、城史苑が開業したために閉鎖を強いられた商店があったり、一部の出資者だけが利権を貪って、市に還元されないなどの批判があったが、今でも継続していることに危惧を感ずる。

 来年度は「道の駅よねざわ」が開業するが、10数億円の市民の税金が投入されることなので、城史苑のような「一部の出資者の利益」ではなく、市民全体の利益を優先する経営を望むものだ。

おまつり広場のこと①

kage

2017/08/06 (Sun)

おまつり広場のこと①

 当広場の使用に関して、多くの投稿が有ったことに感謝申し上げる。条例や規則については、行政側の都合で市民無視の理不尽な運用が多々行われているので、住民は当局に糾すべきであるが、市議に相談という手も有る。
 さすれば彼らの無能力ぶりが分かるので、それはそれとして価値あることと思う。

 さて、「米沢市松が岬おまつり広場の設置及び管理に関する条例」の小生なりの解釈を述べてみたい。

 条例の第2条2項には『松が岬おまつり広場(以下「おまつり広場」という。)は、多目的広場及び駐車場により構成する。』と明記している。
 又、第8条には『駐車場は、・・・一時的に駐車すること以外に使用してはならない。』と明記されている。

 ビアパーティーを行うことは第8条に抵触するようにも見えるが、「おまつり広場」を構成する「多目的広場及び駐車場」の区割りは明記されていないので、当局側の抗弁を想定すれば、「おまつり広場の内、通常は駐車場として使用している部分を、三日間は多目的広場として貸し出したものである。条文には駐車場として使用している部分を多目的広場に変更できない等の制約は記載されていない事から、条例違反には当たらない」との文言が返ってくるのではないか。
 確かに、「駐車場を多目的広場に変更してはいけない」との制約は記されていないので、問い詰めることは難しいと思われる。

 又、「米沢市公有財産の取得、管理及び処分に関する規則」との整合性についても、第21条2)の「住民の福祉を増進するような行事又は事業の用に供するとき。」に合致する。と抗せられると、崩すことは難しい。

 かように、条例や規則の条文は不確かな部分が多く、行政側に都合の良いように運用されるのが常であり、本来、住民の利益にならない法の運用なら議会で審議すべきだが、現職市議にその能力は無いので、小生等は「住民訴訟」で争っている。
【続く】

長岡市[米百俵]

kage

2017/08/04 (Fri)

長岡市[米百俵]

米百俵群像 長岡藩の「米百俵」の話はつとに有名である。左写真の群像の説明によると、
『北越戊辰戦争で焦土と化した長岡に、支藩の三根山藩から見舞いの米が百俵送られてきました。食べるものにもこと欠く長岡藩士にとっては、喉から手が出るほどほしい米でした。しかし時の長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」と米を売り払い、その代金を国漢学校にそそぎこみました。
 この故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神風土を長岡に根づかせ、未来を担う新しい世代を育む思想の原点となりました。』
(群像は「米を分けろ」と迫る人々に虎三郎が切々と説いている場面)

 長岡市界隈は戊辰戦争の激戦地であり、長岡城の争奪戦等により、米沢藩の死者も120名を超えたとの記録が有る。この時、長岡城下は戦火に見舞われ焦土と化したが復興するも、昭和20年のアメリカ軍長岡空襲により焼夷弾が大量に投下され、これにより中心部市街地の約8割が焼失した。何故、長岡が空爆の対象となったかは「山本五十六」の出身地であると言われ、原爆の投下も検討されたとの説もある。

 かように長岡は戦災にもめげなかったことから、市の紋章は不死鳥をイメージして、「長」の文字を図案化したものになっている。

長岡市[大花火]

kage

2017/08/04 (Fri)

長岡市[大花火]

 長岡花火2 8/2日本三大花火と称される長岡市の大花火を見物した。この花火大会は昭和20年8月1日の長岡空襲の後、長岡市民が復興に立ち上がり、昭和22年に花火大会を開催し、先人たちの「慰霊」、「復興」、「平和への祈り」の想いをつなぎ、今年で70年になるという。

 この催しの人出は102万人(2日間)と言うだけに、その混雑ぶりには驚いたが、それにも増して打ち上げられた花火の規模・内容に圧倒された。

 伝統の祭りが地元住民パワーにより継承され、年ごとに規模を拡大するには何と言っても企業の協力が必要である。長岡には一流企業の存在があり、この行事を支える一因となっているが、一流企業の存在は総合的に市の経済力を高めるものだ。

 その点、我が米沢市はどうであろうか。関ヶ原合戦後の上杉藩は減封されて疲弊の一途を辿り、上杉鷹山公の質素倹約令で持ち直したという歴史を持つだけに、派手な行事は抑制され、祭りの規模が小さいことは否めないが、ガチャマン(織機がガチャッと言う度に万と儲かる)と米沢織業界が好景気に沸いたとき、当地の祭りもパワーが有ったように記憶している。

 米沢牛がGI(地理的表示保護制度)を得たことは喜ばしいが、米沢牛の経済波及効果は商・工業の規模に比すれば小さいので、地方都市が力を付けるのには企業誘致と共に、山大との連携による起業に努力すべきと考える。

米沢市松が岬おまつり広場のこと

kage

2017/08/01 (Tue)

米沢市松が岬おまつり広場のこと

 この広場に多くの投稿が有ったことに感謝する。
 我が国が法治国家であることは紛れもなく、最上位に憲法が有り、その下位に、○○法、条例、規則、通達、運用、申し合わせ、等の条文で、円滑なる住民の生活が営まれることを目的としている。

 ところが、法は得てして権力者の都合で解釈・運用され、住民が不利益を被ることが多々あるので、今般のように多くの市民が施政に関心を持ち、意見を述べることが肝要と思う。

 市長がビアパーティーを開催したのは問題ないと思うが、城史苑が駐車場で行うことには投稿者の疑問のように、若干問題があるので、ここを管轄する観光課と話し合ってみる予定だ。

又、城史苑の賃貸契約は情報公開で求めているので、間もなく入手できると思う。その時もう一度米沢市松が岬おまつり広場のことを述べる予定なので、更なる関心を期待申し上げる。