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歴史に残る「忌み嫌われた君主ジョンの名前」

kage

2008/08/31 (Sun)

 ヘンリー2世の末っ子として生まれたジョン王は、その失政ぶりからイギリス史上最悪の君主とされてきた。
 対立していた教皇インノケンティウス3世から破門されたのちは、イギリス全土を教皇庁に明け渡したから、失地王のあだ名がつけられた。兄たちに領土をすべて分配してしまっていた父ヘンリー2世が、ひとつも領土をもたないジョン王につけたあだ名だといわれている。
 イギリスでは、そんなジョン王の名前は縁起が悪いとされ、彼の死後、現在に至るもジョンという名をつける王は出ていないという。

  さて、選挙後は「広域合併」に背を向け、国策に消極的な態度を見せている安部米沢市長の評判が良くないが、けだし置賜地域の市町長だけではいようだ。

  積極的に安部支援にまわったエンタケ大臣の後任「太田農水相」が「政治と金」にかかわる疑惑が発生し連続して「農水相疑獄」に巻き込まれている。
 隣人の話によれば「政治活動がおこなわれた形跡がなく、問題の事務所に家族以外の出入りした人を見たことがない」という。
 また大臣就任後に出演したテレビで「いまでは日本は安心だけれど、消費者や国民がやかましいから、さらに徹底していこう」と発言、いまだに撤回もしないノータリンな大臣である。
 中国ギョーザ問題で揺れて「中国うなぎ擬装問題」で日本中が揺れ動いている最中の発言であるからおそれいった大臣が出現したものだ。 エンタケ元大臣とともに太田農水大臣も思い上りだけが先行して、なした事の重大さをいまもって認識していないのである。

 これら大臣の名前は国政にいて「忌み嫌われた」名前として残されるであろうし、安部の名も度重なる失政から排除される名となるのであろうか。  あるだけの知恵と勇気を奮って老生の諌言を見返してほしいものだ。

 南原地区から流れてくる「悪臭」と「苦情」は少なくとも10年以前から問題になっていたものだ。老生が犬と散歩に出掛ける早朝から悪臭に悩まされてきたものである。が、一向に悪臭の途絶えることがない。
  行政には苦情の電話が殺到していると聞くが行政の対応は一向にかんばしくないようだ。一業者の手で悪臭を処理できるものではないであろう。豚7000頭を飼育している糞尿の処理方に関しては政治的介入のほかはないであろうに、行政は「悪臭」は「悪臭防止法」によって規制されているが、堆肥製造事業は都市計画用途地区の工業用地区であるため悪臭防止法による規制は受けていない」として行政は法律論を持ち出して対応するだけのようだ。

 なんの知恵も出さない行政が山形大学を表に出して責任逃れをしているとしか思えない節がある。こんな知恵とやる気のない行政であれば、市民が選んだ市長とはなにが取り柄であるか。悪臭に悩む市民であれば行政権力の長、安部が直接談判すべきが筋というものである。

「過ぎたるは及ばざるが如し」北京オリンピック観戦記

kage

2008/08/29 (Fri)

 クソ暑い日々が過ぎ、秋が足早にやってきたかのように肌寒く曇天の季節到来だ。

 いつもならば競技観戦に寝不足気味になる老生だが、オリンピック開幕のエキズビジョンの「これでもか、これでもか」の演出にはいささか食傷気味になって、早々にスイッチを切って眠りについた。
  一党独裁国家中国ならではの過度な演出には呆れたのだ。が一方、千年の歴史を刻む中国が国家の威信をかけたオリンピック開催国だとあれば過度の演出もむべなるかなと納得もできようが、老生らの少年時代のオリンピックの記憶は、一党独裁ナチスが国威を世界に示そうとして開催したベルリン大会であった。
  ベルリン大会後は第二次世界大戦を起こし、平和の祭典であるはずのオリンピックが全世界を阿鼻叫喚の殺戮の世界にひきずりこむ結果を生むにいたった。

 さて、北京大会が終わって世界に何が起こるのであろうか。不吉なニュースが巷を飛びかっているようだ。まず、中国の内外では破綻が起こるのであろうか。無論、オリンピック開催後はバブルの崩壊がはじまるであろうし、チベット問題がクローズアップされてくるだろう。と、同時にわが国の食料事情に問題が生じてくるのであろうか。
  国内では競技に成果をあげた選手に国民栄誉賞が配られ、期待にそぐわなかった選手たちのバッシングがすでにはじまっているという具合だ。

 「参加することに意義がある」とのオリンピック憲章はどこ吹く風といったところだ。
  オリンピックとは「より速く、より高く、より強く」が不滅の憲章であったはずだ。「参加することに意義がある」として競技種目を無尽蔵に増やしたことに反省はないのか。
  東京大会から採用された「柔道競技」は今ではレスリングとの区別もつかない競技内容に成り下がっているではないか。日本文字「柔道」とローマ字の「JUDO」とはかくも内容が違うものであるか。女子柔道もだがあれでは柔道競技の本質を失った「雌猫同士の引っ掻き合い」さながらの組手争いだけである。
 日本古来の柔道は両者ともに組手をガッシリ掴んだところから「はじめ!」の声が掛かったものであろう。「目黒のさんま」じゃあるまいし競技本来から骨抜きした西洋風柔道競技には辟易するばかりだ。

 競技から野球やソフトボールがはずれることは決まっているらしいが、ビーチバレーなどのリクレーション的競技はオリンピックに不要な種目といえるだろう。
  週刊誌は「待ってました!」とばかりに結果のバッシング記事を書き出す構えだ。金メダルの数は常連の米ソが争っていたが、そこに割って入った中国の底力は何を意味するものか。オリンピックは平和の祭典でなく、国威高揚を示す絶好の場になりつつある。

 2012年は騎士の国、ロンドンが開催地である。いかなる改革が行なわれる大会となるであろうか。競技者も全世界のテレビ観戦者もわかり易く熱狂できる競技内容とジャッジの公平さが不可欠となろう。競技を前にして脱落するなどが生じないように選手もこころすべきであろうし、過度な練習だけが記録を延ばすことではないであろう。
  いずれにしても北京大会は終了した。我々は大会終了後に起きるであろう不景気風と暗雲に包まれたチベット自治区の問題に鋭い関心をもち続ける必要があるのではあるまいか。

広域合併は「米沢市」を入れないで-----南陽市・長井市・川西町の米沢市観

kage

2008/08/28 (Thu)

 広域合併については安部三十郎市政の「米沢市」を抜いたところでまとめあげようとしている噂が本会に入ってきた。

  安部三十郎米沢市長が各地区からの不信を受け米沢市を中心とする広域合併は文字通り暗礁に乗り上げた。
米沢市以外の合併対象市町長に電話で聞き取りした報道関係者から伝わってきた一大ニュースである。

  安部市長は広域合併問題について「私から各地域を訪れて合併問題を推進することはしない。向こうから訪ねてこられたら応対はする」と殿様発言を繰り返している。

  各市町長は安部米沢市長のこうした高所からの発言を知って更なる反発と不信感を感じた結果のようだ。

 安部市長は今回の市長選に臨み当初は「広域合併に反対」の態度をとっていた。が、市長選挙を戦うためには「広域合併賛成」論を唱えた方が票になると判断するや、公示日直前に「合併推進論者」に鞍替えした経緯がある。

  道州制の前段ともいうべき国の政策にこのような態度で対応するのはいかがなものであろう。 トップの意志や考え方の狭さが、ここで米沢市民にわかったことであろう。
  「勝てば官軍」だからといって「何をしてもよい」というわけではないだろう。地方自治を福島大学院生として極めてきたという市長である。とても食えた知識とはいい憎い地方自治長感覚である。

  オリンピック観戦で市政に対する関心は-時的に離れたとしても、市政の舵取りには問題が山積しているようだ。
  市職員のボーナス支給時に「ボーナスの支給額は市民に決して洩らすなよ」と職員の口留めを図った上司がいたと巷が騒いでいる。どうも支給金額が上積みされていたような口ぶりが巷に流れている。市民に気取られないようなボーナスの支給額とはいかなるものであるか。
  本会は秘書課に聞いてみた。返事は「金額が上積みされていたとの認識はないが、調査してみますか」という返事だった。確かに公務員と一般会社員との賃金格差は大きい。まして、市民の目は公務員志向だ。 ひと昔は優秀な人間ほど公務員志向はなかったものである。ここにきて不景気のあおりを受けて倒産の少ない「親方日の丸」に一身を寄せた経過がある。だから市職員は優秀な人物だけではないとはいわないが、中には不埒な職員もいて勤務中に町の床屋にいたりパチンコの台と格闘している姿がないとはいいきれないのだ。

  不埒のついでに町の酒場で観光客を相手にゴロまく職員の姿も目につくものだった。市職員は米沢市の玄関番的存在である。来年は大河ドラマの主要な町である。観光客を迎え入れるのに「応対が下手な市民である」その点では隣県福島に学ぶ必要があるだろう。

  安部市長が殿様的市政を敷いて他市町から反発をかこっている以上、市民は安部市長を真似てはならない。観光客の増加は観光客の居心地のよさと、市民の暖かさによって観光客が米沢市を宣伝する行為から生まれるものだから。

広島・長崎に投下された原爆は「戦争終決」のためでなかった?

kage

2008/08/07 (Thu)

 申すまでもなく、今朝は広島に原爆が投下された忌まわしい朝である。
原爆の投下を米国政府はこれ以上「戦争による犠牲者を出さないための戦争終決」を目的とした原爆投下である。と米国政府は説明した。が、舌の根も乾かないうちに長崎市に第2弾の原爆を投下した。
 戦争終決が投下の目的であったならば長崎への投下は殺戮以外に説明のしょうがないはずだった。非戦闘市民の真っ只中への原爆投下である。ために34万人が犠牲となり、今以て原爆症に苦しむ人たちもいる。

 当時小6年生であった老生は米国を激しく憎み、英国を罵りつづけていたものである。後年になって広島・長崎への原爆投下は米国のご都合主義による原爆投下であることを知ることになった。
  米国政府の声明の通り、原爆の投下は戦争終決のために行なったとするヒューマンな発露からではない。ヤルタ会談で日本に提示した無条件降伏を黙殺した事情はある。無条件降伏を拒否した理由は「天皇制の存続」がうたわれてなかったことが原因だが、すでに日本は理屈を超越した「死に体」であったことはいなめない。

 当時の米国大統領トルーマンはヤルタ会談の席上、スターリンに「われわれは異常な破壊力を持った新兵器を手にした」と告げたのが原因となったものだ。
  米ソを核とした核兵器開発競争に各国はシャカリキになっていた事情の裏には、米国政府側には、ソ連の核開発の脅威に曝されていた事情があったのだ。
そこで核兵器開発に先んじている実情を示すためにも核兵器の都市投下を実現する必要があったのだ。
すべて米国の事情による原爆投下であることが明らかにされているのだ。

 広島に投下された原子爆弾は「ウラニウム型原爆・リトルボーイ」、長崎市に投下した原子爆弾は「プルトニウム型原子爆弾・ファットマン」と2種の原子爆弾の投下実験に成功したのである。
  後日、米国が投じた「2発の原爆投下の理由」は戦争終決のためだけでなく、ソ連との核兵器開発競争に先制パンチを食らわせるのが目的であることが判明したのだ。
  なぜご丁寧に2種の原子爆弾を投下する必要があったのか。広島の実験で原爆投下の使命は十分達しられたはずだ。
  史上初の実験に成功、その威力を目のあたりにしたオッペンハイマー所長は「われは死神なり、世界の破壊者なり」と語り、米国が進めようとした「水爆計画」に反対した彼を「オッペンハイマ-は共産国のスパイ」であると宣伝し、当時赤狩り旋風が吹き荒れていたこともあり、彼を核兵器開発競争の第一線から追放したのである。

 すべての出来事は米国政府の事情から醸し出され`ているもので、表面上は綺麗だけの文言で事実は閉じられているのだ。
  わが国の憲法はいかなる事態であっても戦争に参戦することを禁じているはずだ。が朝鮮戦争時に米国の命令で自衛隊の参戦があったことが判明してきた。海上の機雷を除去する任務につき犠牲者を出している事実が隠されていたのだ。
  政府の絶対的秘密事項として隠されていたのだが、半世紀を過ぎたことから関係者が公表しはじめたようだ。いずれは白日のもとに露呈されるであろうが、不都合な事項は闇の中ということのようだ。

米沢混声合唱団・難曲「フォーレの鎮魂ミサ曲」に挑戦

kage

2008/08/05 (Tue)

 昨日(8月4日)米沢文化会館に荘厳な鎮魂ミサ曲が流れた。
米沢混声合唱団を中心とした各地の「フォーレを歌う」愛好者総勢100名による熱唱によるものであった。しかも、難曲といわれるレクイエム全曲を3年間の月日を投入しての成果であったことを知り改めてフォーレに寄せた熱意と勇気は賞賛されるべきであろう。

 文化不毛の地と市民自ら卑下してきた米沢市の誇りとは皆無なのであるか。少なくとも昔から地道な活動をつづけている団体やサークルが生き残っていることの証左だ。
残念なことだが、米沢市民には文化に対する理解と造詣とに欠けてきた歴史がある。上杉の城下町で存続してきた米沢市である。いわば武人優先の風土に染まりきった町であるからだ。したがって、戦時下にあって軍人の高官を輩出した町であり、軍人教育に熱意をこめた町であったことから、町の体質は文化芸術の類を「歌舞伎者」として番外の扱いをしていたのだ。だが、隠れキ リシタンの如く文化芸術に思いを寄せる人たちも存在していたことは申すまでもないことだ。

 いまをときめく画家の存在もあるが、極貧の生活に甘んじながらも己れの芸術文化を、後世に残し語りつごうとした人たちもいたのだ。
聴衆で埋めつくされた会場で淋しく思うのは、若い人の顔が少ないことだ。観客だけのことではない演奏者のメンバーにも見当らないことだ。これには「陽のあたる場所」だけを求めて地道な活動をよしとしない風潮が若者たちの間に充満しているからに違いない。が、それは錯覚というものであることを知らない若者が多いのだ。地道な研鑽活動をつづけた本合唱団は、今回結成10周年記念コンサートを開くに至った。
  団員40名という小さな混声合唱団だが、10周年記念コンサートのために難曲中の曲・フォーレのレクイエムに挑戦した勇気と熱情には脱帽以外にことばはない。3年の間燃やしつづけた不屈の精神は合唱団の歴史を飾ることになろう。

  蛇足だが、老生にとってこの曲は忘れることのできない-曲である。40年ほど前になるが、親友の音楽マニアが一枚のLPをもって、興奮気味に「君ッ!これが音楽の真髄というものだ!鑑賞したまえッ」といって置いていったのがフォーレのレクイエムだった。後年、彼の葬儀に阿弥陀如来の前で「フォーレの鎮魂ミサ曲」を彼の意志にそったことを思いだす。彼が老生に強要した曲がフォーレのそれであり彼の魂の拠り所でありえたことは見事なことであったと思いつづけている。

 老生は舞台人だから、それなりの見識を積んできたと自負している。アマリズムに欠けているのが公演時のステージマナーであろう。
  幕が上がり幕が閉じるまでの時間には一切の妥協も言い訳も通用しない厳しさに欠けていることだろう。観客はアマの公演に上手さだけを期待して席につくのではない。
  アマには旨さだけを期待するのではない、キラリと輝くものがあればいい、老生はそれを求めて聴衆になろうとする。いまさら申し上げるのは酷だとおもうが、リクイエムの真髄はブロック建築様式の教会に吸い込まれるように流れるソプラノの澄んだ歌声ではなかったろうか。
  帰宅して早速聴いてみた。老生の聴覚に錯覚はなかったようだ。研鑽することに限界はない。コンサートが終わりではない。中間地点に到達しただけでのことである。さらなる研鑽を熱望するものである。舞台マナーについて摘出したいこともあるが、難曲に挑戦された怖いもの知らずのアマ精神に賛辞を送る。

「蟹工船」が読まれる理由とは?

kage

2008/08/02 (Sat)

 「おい、地獄さ行くんだで!」の書き出しではじまる蟹工船はプロレタリア作家小林多喜二の代表作品だ。各国語に訳され世界の蟹工船として読まれ続けてきた作品である。

  その蟹工船が都会の若者に読まれていると聞く。増版に続く増版で80年前に脱稿した作品が、今になって若者たちのブームになっているのは何故か?
  たしかに「蟹工船」という特殊な労働形態を取り扱い、殖民地、未開地における原始的な搾取の典型を、未組織労働者の問題をふくめて描き、その国際関係、軍事関係、経済関係を全体的明らかにしたものである。
  小説であり、戯曲ではない「蟹工船」が舞台劇として脚色され易い作品であったから後年になって映画や舞台劇として庶民の喝采を浴びてきた作品ともいえよう。

  米沢市では「演劇を観る会」の招致によって文化会館で上演されているから500人程度の人たちは舞台劇として「蟹工船」との接点がある。
  「蟹工船」が発表された直後、小林は小樽警察に召喚され、翌年の六月下旬、治安維持法で逮捕投獄された時、以下のセリフが問題となり不敬罪の追起訴を受けることになる。 献上品の缶詰に向けて「石ころでも入れておけッ!」と吐いたセリフが咎められたためだ。


  当時、北洋漁業は、国際的漁業権をめぐってソ連と対立し、国際的な注目を集めながら「国家的産業」として規模を年ごとに拡大していった。
蟹工船とは北氷洋の国際漁業戦に巨利を漁る「海に浮かべる移動カニ缶詰工場」でオーナーは海の中から金塊でも引き上げるようなものであったらしい。
 日露漁業の交渉が進まない現場ではソ連監視船による権益による拿捕または曳航が続き本国から巡洋艦を出動させるなどして蟹工船の作業現場を護衛させるなどして強大な国益産業としての地位を固めていたが、一方、作業現場は強制労働と搾取や暴力とでさながら北洋のタコ部屋あった。
 強制労働によって死んだ雑夫は袋詰めにされて厳寒の海に投げ込まれていった。正当な診断書も書かれずにだ。だからといって北洋の海上で脱走するすべもなく苛酷な労働条件下で雑夫たちは地獄さながらの労働に耐えるほかに生きのびる道はなかったのである。
  現代の若者たちにタコ部屋の存在を想像できるのであろうか。先程まで蟹に目もくれなかったソ連の監視船の高官らは蟹が生み出す巨額な利益に目を剥出しワイロを要求することになる。いずこの高官もゼニのことになると別世界になるようだ。

  都会の若者たちが蟹工船に寄せるものとはなんであろうか。たんなる興味本位からであるか。苛酷な労働現場と非道な生活空間であろうか。現代にみる派遣労働者の実態に重ね合わせているのであろうか。一昔前の「口入れ屋」よろしく派遣労働の賃金をピンハネする企業が成立する社会構造に批判の牙を磨ぎ出すことである。

 格差社会の不条理は官僚・政府によって生み出されたものである。著者小林多喜二は国家権力により獄中死を遂げた。なぜか。若者に読み取ってほしいものだ。