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祖国を否定する人物は日本国を脱出すべし!

kage

2008/06/30 (Mon)

 国旗・国歌を否定するならば、自分勝手な甘えた論理を捨て日本国を脱出すべし。

 独立す る条件はその国の国旗・国歌をもって世界の承認を得るものである。わが国は永らく国旗・国歌に不安定な位置づけをしてきた国である。したがって日本国は独立した国家とはいえないものであった。
 これは日教組・高教教組らが、「二度と教え子を戦場には送るまい」という過去の軍国主義に対する反論とされ児童生徒への教育の指針とされてきたからである。国歌だけでなく、戦後、大方の校歌が抹殺され「新しき校歌制定」のもとに校歌が生まれた。新しきものは良いものだという風潮が教育の場を席巻していったことによる。
 こうした論理でそだってきた児童生徒たちが、君が代は大相撲の千秋楽の歌であり、日の丸の旗はオリンピックで使う旗としか認識していないのだ。

 国際試合では両国国家が演奏されるが、他の国の選手は自国の国歌演奏となると胸に手を添え国歌を口ずさむ光景がみられるが、わが国の選手たちにはそれが見られないのは哀しくも恥かしい思いがするのは老生だけの感傷であろうか。

 本年はオリンピックの年である。日の丸の旗を先頭に堂々と行進する選手団の雄姿は感動ものであり、まして表彰台に立つ選手の姿も美しいが、センターポールに掲揚される日の丸は晴ればれしく国民の感激は最高潮に達する瞬間でもある。
 オリンピックは平和の祭典だとするならば、表彰台にのぼる選手たちと共に理屈を抜いた喜びを噛み締めたいものである。平和の祭典とはいえオリンピックでさえも国家間のメダル争奪戦であることに違いはない。人種差別の国として米国はつとに著名な国であるが、米国にもたらすメダルの多くは黒人の力での取得によるものだが、大国にこだわる国ほどメダルの数が問題になる。オリンピックとは平和の祭典だとはいえ、裏面では国威の強権誇示となっている。

 国歌である「君が代」の君とは、天皇をさしたものと考えるのは、軍国主義的だと反対を唱える日教組関連の仲間たちだが、「古今集」や「和漢朗詠集」に見られる和歌としての「君」であり、「君」が「キミ」であって良いし敬愛する「アナタ」の意で歌われることが民主国家としての国家「君が代」でありたいものだ。
  ちなみに各大国の国歌は総じて戦いの歌詞で歌われていることを忘れてはならない。中立国スイスの国歌は「スイスのために血を命を捧げる」中国は「たて どれいとなるな血も肉もて築かんよき国」と歌われイギリス国歌は「主よ立たれよ 敵をしりぞけたまえ」とありフランスは「いざ 矛を取り進め あだなす敵を葬らん」さてアメリカは「弾丸降る いくさの庭に 頭上高くひるがえる 堂々たる星条旗よ」と、いずれの国歌も戦いを勝ち取る歌詞で埋められている
 その点ではわが国の「君が代」には戦いの詞は見られず「永遠の栄え」を基調として読み込まれていることだ。日の丸にしてもそうだ。白地に赤く日の丸染めた日章旗は太陽を尊ぶ日出づる国の民族の心意気を象徴しているものだ。単純にして世界随一のデザインとしても誇れるものだと老生は思いつづけてきたものだが。
 なにはともあれ、政府そのものに国旗国歌の扱いに問題があるのではあるまいか。 総理の会見場所に国旗がないことや肝心の国会議場に国旗が掲げてない。これは何を意味するものであるか。わが国の国旗国歌を制定した機関がどうしたことか。これでは国旗国歌の制定論議に口を挟むことはできない。国会開会の初頭に国旗を前に国歌斉唱ぐらいすべきが常識というものではあるまいか。

 国際ロータリーやライオンズクラブの例会では国歌を斉唱して会がはじまるのが通例である。民間団体とはいえ国際組織のクラブがそうである。
 イギリスで本当にあった出来事である。日本の商社マンの子供を現地の小学校に入学を求めたとき、日本人の子供テストに「日本の国旗を書けず、日本の国歌を歌えず」入学を断られた事実があった。そこで親は日本大使館に泣き付いて子供に国旗と国歌を覚えさせ他の小学校へ入れることができたという笑い話があるくらい祖国認識を重要視するのが他国家なのである。
 日本でやっている教育とは、まるで世界に通用しないことが多く、日本の常識が今や世界の非常識といわれるゆえんである。

 このような教育を子供に押しつけている教育界とはなんぞや? 世間の常識に無知頑迷で暗愚な教師を教員資格再審査制度を導入して教育の現場から追放することが教育正常化への道であることに依存はない。

 いずれにせよ、日教組らに祖国を論じる資格はない。 祖国を失い流浪の旅を永年つづけているユダヤ民族の場合を考えてほしい。中東の戦火は祖国を求める民族たちの戦いではないのか。幸いわが国は島国であったことから同一民族同士の祖国論であったが、祖国をもたない人達の悲劇を教育者が熱く子供たちに説くべきであり、祖国をもった日本国民としての誇りを植えつけることである。そこから国旗を掲揚する喜びと高らかに国歌を斉唱する国民が生まれてくるのである。

ナンセンス「セクハラ論議」

kage

2008/06/24 (Tue)

 近年セクハラという文言が巾を利かせているようだ。まったくナンセンスな論議だとして老生は「へそで茶をわかすよう」な他愛ない話だと思っている。 この世には男女しか存在しないという現実を改めて認識しておればそのナンセンスさがご理解願えるものだと考えている。

 男性が女体に興味を覚えはじめる思春期には「女性は神聖なもの」として崇高な存在であった。少なくとも老生はそうであった。 毎朝、登校時に道端ですれ違う女学生がいた。セーラー服にお下げ髪が似合う色白の中学生だった。無論、老生は好意どころか感動に震える日々を送ることになる ある時、夏休みでもないのに彼女とすれ違う道端での迎合が途絶えてしまったのだ。すれ違う距離はきまって電柱1本のずれもなかった彼女だった。毎朝、顔を合わせながら「お早よう」と声もかけられずにすれ違うだけの老生だった。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしき白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

 当時の学生ならば-度は口ずさんだ藤村の「初恋」の一節である。繰り返し繰り返し声にあげて読んだものである。女性をあこがれの目で見ていた青春時代を今でも誇れるものだ。

最近よく聞かれる言葉が「セクハラ」である。正常な男性であれば女体に興味をもつのは至極当たり前のことであり、常に女性が被害者とされている。それはおかしいのではあるまいか。
 深窓の女性というものは肌を人前に曝すことをしなかったものである。それでなくとも躾のしっかりした女性は肌を露出することを嫌ったものだ。

 ところがセクハラだと騒ぎ立てる女性ほど肌の露出度が多いようだ。 天下の路面をひた走る女性マラソンランナーに問いたい。「なぜにへソを見せながら走るのであるか?」 男性のマラソンランナーでヘソ出しはいない不思議。
 オリンピックでの各種競技別ユニフォームが報道された。着用する選手たちが困惑するようなものである。とくにビーチバレー選手の競技姿にはあいそがつきる。
  女性たちよ、セクハラを防ぎたいのであれば露出度を遠慮したらどうだろう。この世にストリップが盛んなのは、男性が女体を覗き見したいからだが、大股開帳するに至っては男性客はゲンナリするのをご存じであるか。
  本場のクリスマスイブとはいかなるものであろうかとラスベガスに仕事の友人と飛んだ。期待はずれの静けさに「ストリップでも見よう」と劇場に入ってみて驚いた。客の目の前で丸太棒がドタンバタンと転がっているだけなのである。無論、一糸まとわぬ大柄なストリッパーである。客は酒をロにしながら眺めている。
 老生ら日本人には何もかもが大柄で太く、女性の裸に食指が動くどころの話じゃない。心境はさながらガリバー旅行記の世界に迷いこんだ思いだった。
  裸をあれだけモロに見せつけられたら、どんな好き者でもゲンナリするわけだ。 要するに女性の裸はチラリズムが最高で、肌を人前に曝すこと自体が女性たちのバカさ加減だと考える。女性の肌は無用意に人前に曝すべきではあるまい。もっともっとケチるほうが効果的と思うのだが。

  老生も女性に睨まれたことがある。名古屋から東海道線に乗り換え岐阜市に所用で出掛けた時だった。車内は混雑していてドア近くの手摺りに掴まって立っていたところが岐阜駅近くにきて急ブレーキが掛けられた。車内は将棋倒しとなって気がついてみたら老生の手がご婦人の胸を掴んでいたのだ。これには参った。 老生は逮捕ものかと冷汗三斗だったが、ご婦人は顔を赤らめただけで何事もなかったように電車を降りていった。

  都会で電車に乗るたび避けるのが女子学生グループの溜り場だ。因縁でもつけられようものなら無実の留置場泊りとなってしまうからだ。スカートを手繰り上げ中のパンツ丸見えのスタイルを良しとする女子学生の多いこと。
 彼女らに注意する親はいないのかと疑問に思うことが度々である。戦後は外人相手の街娼が肌を露出して媚を売っていたが、今は女子学生であるかと錯覚する。 セクハラは男性が仕掛けて女性が常に被害者だということになっているが、アホな男性を刺激する行為などはいかがなものであるか。
 女性の過度な服装を取り締まるべきであろうと思われる。だれが考えたかへソ出し競技着。ヘソコンテストでもあるまいし選手たちが希薄に見えて女子マラソンだけは見たくない番組である。 競技の真髄を疎かにしているのではあるまいか。女子にあって男子にはないへソを出して走る競技を何とか是正させる方策はないものであるか。

  理屈をいえば古代ギリシャのオリンピック選手は男性に限られ選手は全裸であったのを思いだす。近代オリンピックに女性が参加するのは肯定するが、女性に門戸を開くことが必ずしもベターな結果とはならないようだ。 世紀のオリンピックが平和のシンボルとするならば、競技者の服装にも品格というものがあるはずだ。

秋葉原無差別殺人犯に寄せる匿名の礼賛文

kage

2008/06/23 (Mon)

 社会を震撼させた秋葉原無差別殺人犯に対する激励とも共感ともつかぬ書込みが予想をうわまる数にのぼり当局を混迷させているという。
  事件を報道で知ったとき、老生はことばを失っていた。「バカ者めがッ!」という感慨とは別に命を粗末にする青年の思慮の浅さに怒りが治まらなかった。

  今では死語となってしまったであろうが、戦時中「国の御盾」と信じ、片道キップの特攻機に搭乗し、南の海に青春を散らして逝った青年たちも彼らと同年代の若者であったことを忘れることはできない。
  「昭和万葉集」を開き目読するだけで国体に殉じた彼らの正義と無念さが心をとらえてならないのだ。

★特攻隊の総出撃を告ぐる朝霧深き海に折鶴流す
★大君の御盾となりて吾は今翼休めん靖国の森
★國民の安きを祈り征く敵艦隊の真っ只中に
★神風を翼にうけて必殺のわが体当たりいかで狂はむ

  死出の旅路を前にして、彼らにも青春との惜別はあったのだ。
★あが熱き息吹まぢかにあるごとくふとおどろきぬ文よみおりて
★わが唇をうつつ欲るがに汝が圧せる唇型のやや開きて紅し

 「生きたくとも生き抜くことを許されなかった若き英才たち」が日本に存在していたのだ。わずか60数年前までのことである。
  木箱の底に秘めた遺書とともに、恩賜のたばこを故郷の父に送り、操縦桿に託した青春に別離する心境は老生らの想像をはるかに絶するものであったに違いない。

  不平不満もあるだろうが、現実の社会は戦中戦後を生き抜いてきた日本人自らが崩落した焼土国家から築きあげて今がある。だからといって「平和と安全」が確約された国家だとはだれもが思っているわけではない。その勢力途上にあることだけは信じたいものだ。
  例えば広島、長崎に米国によって投下された原子爆弾の表向きは「戦争終決のため」と洗脳されたが事実は米ソ連の核開発競争に先んじるため日本が標的にされた事実は知らされていない。
 こうして巨大な権力国家の都合によって地球上が支配されている矛盾を是とする人間はいまいが、矛盾を承知で人間個人は「虐げられまま」それでも必死で「人生き永らえたい」と願うものだ。それは人間の尊厳だけでなく動物の本能といえるだろう。

 「死ぬなら勝手に死ねばいいッ!」自分ひとりの不平不満だけで「だれでもいい、人を殺したかったッ!」甘ったれた根性と、生への未練があの惨状を起こす結果を生み出したものだ。

 「十分社会を混乱させたかったッ!」 望みどおりの結果となって社会は混乱した。目的は達したことだろうが、彼の狂気の餌食となった犠牲者の命は地球上から抹殺されたのである。
 この重大な罪を背負って己れも同じ人間の手になり死刑台の露と消えるのであろうが、故郷に残された両親は呵責に嘖まれる一生を送ることになるのだ。
  親を恨み社会の不条理に激怒する気持ちはわからないではないが無差別に他人に八つあたりする愚挙は人間のすることではない。
 人は親から与えられた「命を生き抜くために」生れてきたものだ。「生き抜くために」は試練と困難と挫折はあるものだ。それに打ち勝ってこそ己れの人生というものだ。 人を恋う心をもたない人間に恋する乙女はいないものだ。 すべてが社会の不条理だとする責任転換はあまりにも虚しい。

止まれッ!
  彼の行為を是とする思慮浅き群像もいると聞く。彼の行為を礼賛するならば匿名の名に隠れた卑怯な振る舞いは止めよ!
堂々と論理的に意見を披瀝せよ。しかし、どんな論理をもってしても彼のとった行動は支持されるものではない。
 不安材料が山積している現実ではある。だからといって己れだけの不平不満を爆発させ無差別に殺戮に走った行為は許されぬ。人間社会の約束事であり掟であるからだ。

  考え方によっては「無差別殺戮」のため敵艦隊に突入していった特攻戦士と行動事態は同じに見えなくもない。根本的な違いは「個人的な不満の爆走であるのに対し、特攻戦士は「祖国の盾」と信じて散っていったことにある。

 日本での自殺件数は年間約3万人と報道されているが、ほとんどが自己の理由によるものだ。たしかに現社会は青年たちには生きにくい構造であるかも知れない。その判断は「自己中心主義」からくる判断ではあるまいか。 その判断には幼児性があり思慮に乏しいものだ。何事においても迷ったならば原点に戻ってみることだ。 人間の原点は「この世に生を受けた以上、終焉を向かえるその時まで艱難辛苦を乗り越えて必死に生き抜くこと」にあると老生は信じて止まないのだが。

「やっぱりなッ」 安部市長の広域合併頓挫宣言!!

kage

2008/06/13 (Fri)

 本会ブログで、再三危険度を警告していた安部米沢市長の広域合併に対峙する姿勢に「問題あり」が現実となった。

 新合併特例法の締切が来年の期末(3月31日)までとなっているのに、未だに事務方に任せっぱなしで、事務方が勉強会として開いたのが5月末の「高山市の合併」勉強会だ。
  高山市の場合「吸収合併」であり、置賜地区の「対等合併方式」とは似ても似つかない合併方式を以て高山市が合併を成し遂げたことを参考にして何になるというのだ。これを称して「合併勉強会」とは何と時間と経費の無駄をするのだ。臍で茶を沸かす事務方の見せ掛けだけの浪費だといえるだろう。
 「合併の旗振りはやめたッ!」とする安部市長には責任の重さも感じられない。
米沢市は置賜地区の中核である。核たる市長がサジを投げたのである。
市長権限を満喫しているだけの安部なる人物の精神状態は異常としか考えられないのだ。

 選挙時には松川河川敷で芋煮会を楽しんでいる各グループの席に顔を出して選挙用チラシを配るなど、コマメさは呆れるばかりだが、市政なかんづく広域合併についてどれだけ汗を流したのであろう? 疑問多々である。

 合併の難しさは首長・議員の個人的な事情が加味されてくる。要するに議員たちの多くは「職と権威」を失うことの危険度。首長については「有権者の多い米沢市に独占」されるという危惧感。それを露骨に表にだすことができず「米沢藩政時代」の過去の歴史に論争を展開する。これが置賜地域の本音である。
 このような考察力しかもってない首長がリーダーとなっている以上、置賜地域の明日は望むべくもないのは天の摂理というものであろう。

「いまこそ出でよッ!」愛郷精神に富んだ人物よ。

 報告を受けた知事は「困難極まる合併問題を事務方に任せておくだけでなるわけでない首長同士が率先して成すべき大事業である」と置賜首長なかんずく中核となる安部市長に喝を入れたことになる。
 「これでおわりではない」という知事の言葉を彼ら首長は何と受けとめたことか。これ以上の「恥の上塗り」は住民としてやめてほしいものだ。

 リーダーによって町の活性度は変わるものだ。能力のあるリーダーは財政問題に職員の給与カットを提唱し、また地産品の徹底した販売に撤しようとしている。それに比べ置賜地域のリーダーの貧しさはどうであるか。

 官制談合に揺れ動くある市では3人目の犠牲者が出た。練炭による覚悟の自殺である。このリーダーは前首長の独断市政からの脱却を計って当選はしたものの「官制談合三昧」の市政に住民からの激しいブーイングが出されている最中の出来事である。
 リーダーの善し悪しはスポーツでは顕著でも市政では判定が見にくいだけに住民たちの不幸が重なつるだけなのである。

 もう-度言う。困難極まる合併問題を事務方に任せ、難局から逃避行するような米沢市長に選んだわけではない。
 「先の見えない市政」を未来永劫、安部の行政手腕に託しつづけるわけにい。「少子化時代」に逆行するように公立保育園を取り止める方針を打ち出すなど、時流を読み取る能力に欠けた為政者として、後のために記憶に止めておくことが必要。

老生はかつてこの様な市政能力に欠けた市長に出食わしたとはない。

「広域合併」断念宣言・安部三十郎米沢市長は公約を破棄!

kage

2008/06/12 (Thu)

 既報、本会は新合併特例法の締め切りを目前に控え、5月末に参考にもならない高山市の合併方式を聞く勉強会を開くなどしている状態から「安部市長の合併問題は公約にして公約にあらず」と懸念していたが「安部市長の広域合併論」というものが他市町長にも見せかけだけのものと感じとられたのであろう。

 昨年秋の市長選挙の折り10月30日「賛O会」の席上、他候補者を前にして「広域合併については2市5町の首長を尋ね合併についてのご意見を伺ってきた。私のように出掛けていって各首長と意見交換をした歴代市長はいない」と大見得を切って悦に入っていたのは安部候補だった。続けて「広域合併は各首長間に温度差があり積極的な推進は行わない」と公言した。

 その舌の根も乾かぬ11月16日、米沢青年会議所主催の市長候補者討論会の席上で「広域合併には強力なリーダーシップを取り、積極的に推進する」とぶったのである。

  この豹変ぶりには斉藤県知事も驚き「真意を質したい」とコメントしたことはマスコミに大きく報じられ、当会は「公約の広域合併は、選挙で市民受けを狙ったパフォーマンスに過ぎない」と報じた。

  仕事(広域合併)を達成させるに手順というものがある。安部には手順どころか合併を推進させる意志も熱意も知恵も欠落していたのであろう。 

 まず、人の意を拝聴するどころか自分の意見に反する意見には耳を貸せない性格の持ち主である。このような性癖の持ち主を米沢市民が選んだところに負の責任がある。

  記者会見で「今後は旗振りをしない。しかし、他の自治体からの呼び掛けがあれば真摯に受けとめたい」と語っている。人の意見に耳を傾けることのできない安部本人が「真撃に受けとめたい」と政治用語を披瀝しているが、真摯の意味がわかっているのかが彼の第一の矛盾点だ。

  新合併特例法の締め切りを目前にして旗振りならぬ、白旗をかかげ無様な敵前投降をみせた恥知らずこそが安部三十郎市長の本質であることを米沢市民は承知すべきことである。

 本日の新聞に折り込まれてきた「公立保育園を考える米沢市民の会」発行のチラシには、安部市長は米沢市に3箇所しかない公立保育園のうち、公立の「東部ひかり保育園」を財政難を理由に「民設民営」にするという意向を示したことで問題が紛糾しているものだ。
 米沢市内には16の保育園がある。その中で3園だけが米沢市の運営になるものだ。理由は財政難だという。 他市に比べてもわかるように3保育園さえ維持できない行政感覚を恥と思えないか。

 参議院では「首相問責」が可決されたではないか。法律的効力はないとしても「首相問責」は歴史に残る首相の恥部である。 安部市長こそが「市長問責」を受けるべきであり、仕事の出来ない優柔不断さには呆れるべきものがある。
 しかし、安部はたしかに有権者の審判を受けて市長の座を得たものだ。選んだのは確かに米沢の有権者であることを肝に命じておくことだ。
  いまさら泣き言でもあるまいが、安部三十郎は「人の意見を聞かない」「違った意見を言う職員は干してやる」という態度に、退職していった職員の数を数えてみるがいい。 これで市政は健全に作用するのであろうか。

 公約の破棄は一般社会では「嘘つき」といい「ペテン野郎」という。

公約を後回し、シャカリキに千代田運動場建設に動く安部の本音とは?!

kage

2008/06/07 (Sat)

 公約の広域合併の停滞をよそに、なぜ急ぐ! 公約なき千代田クリーンセンターの運動施設(水泳場)の起工式の模様をテレビ報道で見た。

 地元高畠町が難色を示している施設である。元をただせば何処の市町でもゴミ焼却場の受け入れを拒否、難渋するうち高畠町の現状地に決まった。受け入れの条件として高畠町にプールを付帯する運動施設をつくるということだった。
  この計画は高橋市政の約束されていた。前市長の約束ごとを安部市長が実行する。一見、麗しき政治の継承かに映る。が、問題を複雑視する人達がいることも事実だ。

  まず、赤字を覚悟での施設である。年間予想赤字額は1800万円、各市町で負担する。赤字予想額は1800万円をはるかに越えるものだと、予想する人物もいる。 立地条件を考えてみよう。どこの市町でもゴミ焼却場・斎場などの設置には人里離れた場所にと願うものである。問題は人の目につかない場所という焼却場である。したがって利用者にとって歓迎される場所ではないはずだ。高畠町民が望むアクセス道路は国任せという筋書きだ。

  考えなければならぬ最大の秩序は置賜全市町が地方交付税に頼らねば成り立たない市町財政である。今時、毎年赤字予想覚悟で地元高畠町が望んでもいない施設をつくる必要がどこにある。こんな無駄使いをする行政感覚に疑問をもつのは老生だけではあるまい。

  ある事情通は老生の疑問に答えてくれた。「これには政治的なドス黒い裏があるのだ。某銀行が絡んでいると睨んでいる。
  某企業が数年前、小野川地区に最終処分場を建設しようとして建設費20億円の融資を銀行に頼んだ。無論、銀行は某企業のメーンバンクだ。「20億円を融資する条件は、企業に強力な株主がほしい」が銀行側の条件だった。そこで高橋前市長は千代田に焼却炉を納入した「タクマ」に条件を提示して株主に入ってもらうことに成功した。その条件とは「余熱を利用した施設の建設を貴社に請け負わせる」これが事実だ。
  ところが産廃最終処分場建設は地区住民らの反対によって難航しているのが現状だ。県の許可は出たとしても肝心の地元住民の反対があってはどうにもならない。そこで安部市長は反対住民の要望も入れた「協定書」を作成し環境に目を光らせることにした。それまでしても施設工事の開始は見られない。
  そこでタクマとの約束である千代田クリーンセンター側の運動場(プール)建設を急ぐ結果となったのが無理のない話だ。まあ、約束を反古にされないためのタクマの要望だと解すべきだが、タクマが表面にたって請け負うわけにもいかない。そこで産廃企業のトップ会社が表面的な請負会社になったというわけだ。出来レースということだな。

  さて、安部市長をシャカリキにしたもうひとつの黒い噂だが、今回の市長選でダントツの大差で安部が当選した理由はどこにあったかということだ。
 安部当選の裏側に前回もそうだが、遠藤衆議院の影があった。 後藤源は市長の伯父の立場から当然だが公明党の幹部が本部から来米し投票を前にし「安部支持」を表明していた。一糸乱れぬ創価学会員は本部の命令に逆らうことがなかった。総じて遠藤武彦衆議の地方における政治力であったとみるのが正しい。
 安部市長は遠藤武彦衆議から二度にわたる市長選の借りがある。 遠藤はご存じのように農水大臣を罷免されると同時に県の農業共済組合長をも罷免され、各地に点在する選挙事務所の閉鎖せざるを得ない状況に追い込まれた。出たとしても有 権者の支持はとれないと考えたからに違いないからだが、さしあたって自民党から出馬する候補者が見つからない。そこで遠藤は再び自民党からの出馬を決め込んだ。
 だが、県農業共済組合からの経済的な支援と票数は望むべきものはなく、仮に比例区から出るにしても順位が低いし遠藤のプライドが許すまい。
  そこで安部が借りを返すために出来ることといえば、千代田クリーン運動場建設事業計画から生み出される汚い資金だろう。いわゆる業者からのリベートだ。発覚すれば増収賄に属する政治的賄賂だと考えればよい。
  南陽市には松田組と塩田市長の癒着が水面下で行なわれていることは南陽市民ならだれもが噂していることだ。「安部と遠藤との結びつきは絶対無いとは言えないだろうよ」と事情通は口を閉じた。

  霞が関での官公庁の無駄使いの仮面が民主党議員によって剥がされようとしている今日である。昔も今も変わることない官吏の悪さである。悪に気づかない官吏たちの習性の恐ろしさが今以て健在であることに国民は怯えなければならなのである。

  近代日本には富国強兵を計るあまり国民に塗炭の苦しみを与えた時期があった。時の政府に2度にわたって軍人による反乱が起きた歴史がある。
 政府官僚議員ともに自己の利益とは何かで動いていることだけは明白な事実である。田舎とはいえ米沢市民もその渦中にいるといえよう。 あの優柔不断な安部市長が千代田運動場施設に、突然シャカリキに動きだした理由には危険な裏が見え隠れするのだ。

以下の図は施設の概要である。

2006071.jpg

「貧しいから、貴方に差し上げるものはさわやかな五月の風と精いっぱい愛する心だけです」

kage

2008/06/03 (Tue)

 ドラマではこんなセリフが五月の空に似合うが、生憎の風雨に五月が暮れた。バスの発車時間を承知しながら、それでもバスに乗り遅れまいとする姿勢だけを住民に示しながら悠然と歩いていく置賜地域の首長たちのトロさを住民たちの目にはどう映るのだろうか。
これら市町長を選んだのは、けだし住民たちの選択によるもので責任の転化は許されない。

 締切りの期日を承知しながら合併問題を後回しにして、肝心の高畠町が不要だとする千代田クリーンセンター側に「過熱利用のプール建設」を急ぐ理由はどこにあるというのだ。
 施設完了後は年間1800万円の赤字を見込みながら建設を急ぐ理由はどこにあるのだ。まして、ゴルフ場を併設するプラン付きの施設である。言っておくが半年は雪に埋もれる置賜は雪国である。呆れた住民無視の施設建設だといわざるをえない。

 問題は建設の裏に隠された密約とは何か?
わが国の政治・官僚に寄せる国民の感覚は「信頼と服従」である。いま一度わが国の歴史を遡ってみよう。
 まだ、141年しか経っていないが、幕末における偉人英雄伝説は、明治以降の政府と御用学者によって捏造し行跡を歪曲して伝承されてきたものである。
戊辰戦争の勝利者たる薩摩・長州などの、たとえば伊藤博文や山形有萌、大久保利通、高杉晋作らがそうである。その虚像の化けの皮が剥がされてきたのは近年のことである。勝者の作った歴史が、如何に欺瞞に満ちていたかが漸く明らかにされてきたのだ。
 伊藤博文は火付け、異人殺しの犯罪人、山形有萌は立場を利用し陸軍省の金50万両を流用し出入り商人山城屋に相場を張らせ、責任を山城屋に被せ腹を切らせた。
 明治政府の功臣たる薩長の好悪な連中には仁も徳もなくただ己れの立身出世と懐を肥やすだけの政治手法に明け暮れた。歪曲された伝説の類が俗耳に伝わり勝者の書いた歴史を信じているだけである。先人の口碑、偉人・英雄伝説は捏造されたものであったと考えるべきであろう。

 斯様に歪曲された政治・官僚の歴史である。「長い物に巻かれろ」的な「ことなかれ主義」の住民ではいつまでも浮かばれまい。
中国を見るがいい。大地震によって未曾有の犠牲者を出した中国である。国民の救済を第一とするならばオリンピック開催国だと言っている場合ではあるまい。
平和の祭典だとするならば開催の延期も選択肢に入れるべきであろう。が、国威を世界に示すチャンスだとする中国政府である。北京オリンピックに参加しようとする各国選手団にも割り切れない感情があるに違いない。
  救援物資を自衛隊機でなく民間機で運べという無礼な中国政府だ。中国政府はオリンピック開催を前にして国内で「言論人や民主化人士」を捕まえ監禁していることを我々は知らない。チベット自治区民の聖火リレーヘの抗議を暴動だとする中国である。
中国のチベット自治区は「地代遅れの植民地政策」であるといえよう。現に中国だけではいまだに「ウイグル・モンゴル・チベット」を植民地支配しているのだ。「民族自決」こそが21世紀に至るまでの歴史の中で「民族自決権」に基づいて、それぞれの民族が独立するというのは世界中で当然の価値観となっている。直近の例では「コソボ」があるではないか。

 テレビを観ていたら住民の反対を押し切って「長崎新幹線」の延線が決まったと報道している。これで沿線の住民が不便になることを承知しての決定である。それによって大量の裏金が彼らの懐を豊かにすることは察してあまりあるものだ。

 さて、論旨を元に戻そう。広域合併をよそに千代田クリーンセンター側に赤字覚悟のプールを作ろうとシャカリキになった牽引者の安部米沢市長とは「精神分裂症」を患っている市長ではあるまいか。
 請われて参与に就任した福島大学教授は「何を考えているかわからない市長」だと安部市長を評価して参与を退任して福島に戻ったが現在、話題の中心である「有機EL発光体」の製造が三菱重工によって研究生産に入る吉報がはいってきた。
 これは長年山形大学工学部城戸教授の功績によるものである。が、当該教授は「米沢市の風土が悪いわけではない。世界的な研究に対する米沢市長の無理解な姿勢が問題だ」と不快な感情を語っている。
 特別賢くもない市長である。ならば建設的な意見に耳を傾けるべきであろう。

 定年を残して早期退職した市の部長を「気骨のある職員だった」と、誉め上げる前に「退職までの日々を後進のための指導に徹するべきであろう」と老生ならば諭す。
 退職部長たちは異口同音に「あだな市長の元で仕事の出来るはずがねえべ。市長に違う意見を述べると、間違いなく怒りだすんだ。ガキの戯言に神経を使っていられねえべや。言うこと聞けねえ職員では退職するほかなかんべも」

 アルカデァ構想になる土地買収の際、最後まで土地売買契約書に印鑑を捺さなかったのが現市長安部三十郎であったと言われている。なぜか安部市長と山形有萌陸軍大臣の遺影が不思議と重なりあってくるのだ。

県の入札制度改善に一言 ---疑惑に満ちた改善になりはしないか?

kage

2008/06/01 (Sun)

 南陽市の100%工事予定価格落札に揺れたことは記憶に新しい。が、以前には県議会を揺るがした韓国産セメント問題がある。
 当時の建設部長が発した「公共の施設には粗悪な韓国産セメントを使用してはならない」として建設業者に韓国産セメントの使用を禁じる県通達であった。
ところが酒田港には膨大な韓国産セメントが陸揚げされ一夜にして埠頭から韓国産セメントが消えてしまったのだ。
ソウルオリンピックが幕を閉じ、韓国々内の建設ラッシュは終了したもののセメントの生産は続いた。
増産されるセメントの引取国として日本が標的にされたことはいうまでもない。国産のセメント相場にして半値の韓国産セメント価格である。ここで悪事が行なわれたことが県議会を揺るがす大問題になったものである。

 さて、県の入札制度発表を前にして、南陽市では独自の入札制度改革を行なっている。南陽市での入札業者選定には新たな方策が組み込まれた。「入札業者」を選定するのに「市の幹部による面接」と「企業の社会奉仕の活動情況」を加点とした選定方式を実施すると発表し、市民からブーイングが流れているのだ。

  土木建設業界はとかく発注元(役所)とは悪しき癒着が取り沙汰されてきた。ここにきて三位一体の政策によって工事予算が激減し業者は苦況に立たされている。
  改革は「赤字を覚悟で金前払い欲しさにダンピング」している自転車操業々者や赤字承知で下請けする業者の救済やに見えるが、果たしてそうであろうか。むしろ、激しい癒着・贈収賄が行なわれ易くなるのではあるまいか。
 業者選定の段階が「幹部面接」であること。しかも「社会奉仕」における加点には市幹部の主観で左右される。と、する疑念が生まれる。 南陽市の場合、市の土木予算の半分以上を占める「公衆浴場の新設」「非難場所の新設」の他にどうかと思われる「公園の拡張工事」の三点だが、いずれも億を越す工事費が議会を通り地元企業松田組一社が独占している有様なのだ。

  南陽市に渦巻く黒い霧はともかく、改革の評価対象となる各社企業の「社会奉仕」とは具体的に示すことが不可欠な条件であろう。
 米沢新聞には写真入りで、ある土木業者の「清掃活動」の実態が乗っている。年一回の「地域社会貢献活動」らしいが今年で三年目になるという。改革では当然加点として評価されるであろうが、早朝から清掃作業に従事する「社員手当」は会社が支給しているのだろうか。

  疲弊にあえぐ土木建設業者に「社会奉仕」の実務を押しつけようとする公務員たちの考えとはいかがなものであろうか。「社会奉仕」とは公務員が率先して自ら汗を流し「住民に範を示す」ことが道理というものではあるまいか。

 公務員の生活基盤となっているのは住民から徴収する税金で成り立っているという観点からすれば、市民の共有財産である市の駐車場を独占して恥ない感覚とはどうしたことだろう。
  疲弊する市の予算であるならば「市職員は給与カット」をもって住民に自らの姿勢を示すべきであろう。「官と民の格差」の広がりは後進国であることの証左であろうか。

  年寄の警察官が老生に言ったことがある。「市庁舎の中に市職員組合の事務所がある。実際には法律違反なのだよ」
 住民共有の建物の中に他団体の組織自体が公務員の団体エゴであることを住民たちは承知しているだろうか。全国各地がそうであろうから既成事実として認めているのであろう。事実は法律違反なのだと老刑事は淋しそうに語ってくれた。
 これも官が発露したエゴのようである。