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鬼のひとり言 45 大河ドラマ「天地人」の放映に寄せて

kage

2007/06/29 (Fri)

 米沢の名が全国に知られるようになったキッカケはNHKの電波による「天と地」であり「独眼竜政宗」であった。そして三度、米沢市が舞台となるNHKの大河ドラマが放映される。

 三作品ともに戦国時代の物語であり、訪れるであろう大量の観光客は今も上杉米沢藩の城下町の風情を残した街並を想像して裏切られながら帰省することだろう。
 老生は全国町並み保存会の会員として、会津若松市の会員と行動を共にして全国各地の町並みを観て歩いた。いまでも鮮烈に思いだすのは栃木市で行なわれた「全国大会」のことだ。
米沢から来たという老生に「栃木市の雲井会」と称する会員から「米沢市といえば雲井先生の故郷ですね。当然ながら雲井龍雄の研究はさかんでしょうな」。 恥ずかしながら老生には返す言葉がなかった。雲井龍雄は米沢藩の異端者扱いされ市民の口端にのぼることはなかったからである。  
郷土の英傑の名を栃木市で聞くとも思えず、なかんずく研究会が発足しているなどは晴天の霹靂だった。 以来、老生の雲井龍雄研究がはじまるのだ。間もなく「戯曲・雲井龍雄伝」が出版される。
 また、八重山群島の竹富島の大会には東京大学と京都大学の研究生が各々30名ずつ参加する大きな大会となったが、山形県から参加したのは老生がただ一人だった。全国から参加した会員は市町村からの援助金を受けての参加のようだったが、いまさらの如く米沢市が町並みの整備に目ざめるには遅すぎた感がある 隣県の会津地方は早くから古い建造物をまもる運動が地味ながら立ち上げてきた。米沢市のように都会化に力点をおいた町並み構想とは正反対の立場を貫いてきたのが会津若松市であり蔵の街喜多方市なのである。少なくとも大正時代の建物は保存され街のあちこちに点在されて現役を維持しているのだ。 当市のように古い建物を無差別に壊すことはなかったのだ。
 会津の建造物群で知られ「大内宿」は会津復古会の肝煎りになるもので、年間一人の観光客もない地にいまでは年間数十万人が訪れる場所になった。理由は観光客の多くは「江戸時代」に郷愁を求めているからである。木曽の馬籠・妻籠も同様に村の家並みを「江戸」に変えたことで奇跡を生んだものだ。 だから米沢市の家並みを江戸に変えることを勧めているわけではない。いまさら出来る問題ではあるまいから。ならば駅前に江戸を作ることだろう。駅を降りた観光客のだれもが米沢藩の域下町のただ住まいがないことに裏切られて帰る。 これでは観光行政は成立するものではない。まず、上杉神社周辺を江戸に整備することであろうし、駅から神社までの距離をスムーズにする準備が必要であろう。 あくまでも上杉の亡霊にすがりつくことなく、直江兼継を主役とした演出を試みるべきものであろう。
直江兼継は上杉謙信・上杉景勝の臣下であり影の人物であっただけに観光客を納得させるトークが必要となるだろう。俄か仕込みの人物論を事細かに説明することは止めたい。観光客のハートに残る端的なエピソードに止めておくべきだ。「愛」の兜印などは絶好のトークになるだろう。残念ながら越後の出生であることが悔やまれるものである。説明者用のトーク台本は是非とも統一しておきたいものである。
さて、押し寄せる観光客に販売する産物があるかどうかだが。

鬼のひとり言 44 ドロボーは泥棒と書く

kage

2007/06/27 (Wed)

金を返せば「ドロボーの汚名」は消えるのか? 有史以来お役人に寛大な「公金ドロボー」と「責任回避」

 いやはやお役人の公金意識の希薄さと勤労意欲の低さに呆れて庶民の口は開いたまま塞がらないのだが。怒りを忘れた国民こそが率先して改革されるべきものであろう。
 保険庁の5000万件もの国民の年金が処理されないまま宙に浮いている。安部総理はボーナスを返上して責任の一端を果たすのだという。参議院の選挙を前にして大慌ての自民党内部にもパフォーマンスだという声が上っている。「そんならどうしたらいいのだ」。批判するだけで代案のないわれらが加藤議員。「総理大臣はそんなに軽いものではない」と宣いながら、いったい「加藤の乱」とはなんだったのだ。庶民の頭は混乱するばかりだ。

 知事の精査によって県職員「400万円強の裏金」が発覚した。公金を誤魔化して私用に消費する行為を一般社会では「ドロボー」と定義する。
 「発覚したからには返せばいい」のでは「泥棒の定義」にあてはまらない。わが国は法事国家である。お役人といえども罪状は「ドロボーは泥棒」であると庶民感覚では思うのだが、お役人の場合、ボーナスの一部を以て返金することで罪状は免れるのであるか?
庶民には納得できない「お役人優遇的処置」は法律上存在するのであるか?
 国民を取り締まる警察にも「捜査協力金」として、すでに亡くなった人の名前まで使って裏金を作っていたという事例もある。国民の尊厳を一身に集めている官憲にしてそのザマだ。日頃、慇懃な公務員たちが、裏側でやっていることは裏金づくりであったか。庶民には想像のつかない手口で公金横領をやっていたということになる。あきらかに罪である。
 お役人というものは責任逃れから「前例主義が全科玉条とされている。したがって裏金づくりも前例に習っての行為であろうから、公金横領による裏金づくりは有史以来、面々とつづいてきたお役人たちの犯罪だといえるだろう。「遊興費ぐらい手めえたちの金を使ってやれッ!」。税金をくすねて飲む酒は甘いのか辛いのかお役人に聞いてみたいものだ。
 老生の感覚ではボーナスとは特別賞与金だから、公務員が一律に貰うというのはおかしいと思ってきた。一般の事業所では「特別利益があった」からとして、経営者から感謝の印として受け取るものだと解釈していた。
ところが、公務員の場合はボーナスに要する資金を歳入からあらかじめ差し引いた上、残りの税収で政治を行なうのだ。そして国民の要望には「予算がないから」と応じようとはしないのだ。
だれが決めたか公務員は「公僕」であり「主権在民」国家だという。民が主の国家だというならば「疲弊した社会でボーナスどころか月給すらもあてにできない」国民を前にしてのほほんとボーナスにうつつを抜かしている場合ではあるまい。年金処理も適確にできもしない公務員にボーナスの支給とはどのような感覚を政府はもっているというのだ。
責任あるお役人どもはわれ関せず、頭の上を突風が吹き去るのを待っているだけだ。その点では地方自治体の役人たちも議員たちも似たりよったりの感覚でしかないのだ。女性上位の時代である。世にいう「越中の女一揆」は起こるのであろうか。
とどまることのないお役人さまたちの恥部である。これを社会では慇懃無礼な奴らだという。


鬼のひとり言 43 南陽市民からの意見

kage

2007/06/26 (Tue)

 本サイトのアクセス数が増え続けている。おそらく南陽市民のアクセスであろう。
つい最近になって南陽市民からと思える書込みが2通入っている。
 その2通ともに南陽市政批判と議会の無能さを怒るものである。老生は南陽市に特別関心をもった者ではないが、南陽市長選挙時に「絶対再選だ」という選挙通に絶対ということはない。「時代の流れは党派に左右されている時代ではないよ。各地で当選しているのは無党派候補だ。いわゆる党に左右される選挙に有権者はあきあきしている証拠だよ」こう言って失笑を買ったが、結果は老生の見方を実証して見せたではなかったか。支援する議員の数が多い方ほど選挙で破れるご時世なのだ。
 議員にはそれぞれ支援者がいるものだ。ただし選挙で選出されてきた議員ならばだが、南陽市の市会議員は「無競争議員」であることを知ってナントも呆れた街だナと改めて見方を変えなければならないと考えた次第だ。 その点では選挙が施行されるだけ米沢市はマシな街だなと変に納得した。

 南陽市民からの書込みを披露すれば、いずれも文章は確かで的を射た投稿だと歓迎して読ませてもらった。「3議員削減の意見書」が地区長から提出されたと山形新聞が報じているが、その意見書が議会に反映されていないことに愕然とした」とある。市民の声を反映できない議会は必要ないといえるのでは--南陽市民よ怒れ!と結んである。
 もう1通は「鬼の会の南陽支部を是非とも作ってほしい」とのご意見だった。が、南陽市の市政を憂う人たちが結束して南陽市民の手で結成すべきものだと思われます。行政・議会を精査する意味で是非実行されたらよいと考えております。
しかし、勇気のいる仕事ですよ。まず誉められることばなく不真面目な村雀たちの攻撃に耐えることが第一の仕事になるものです。
書込み氏はつづけて「のほほんとしている南陽市役所の役人、市民ともに絶対的な改革が必要です。会合がただの談合と化している今の南陽市政に我慢がなりません。死ぬ気でやれば絶対に改革は市民の手で出来るはずです」というものでした。
 是非、南陽市民の手で発会できることを祈っています。ただし、紐つきの会では無意味です。
資金を人に頼らず自分の懐でやることが大原則であり、強靭なまでの度量と正常な思想感覚を欠かないことです。これを以てすれば向かうところ敵なしということでしょうか。陰口は相手にせず無視すること。人数は少ないほうがベターでしょう。途中で堕落するメンバーのためにも人数は絞りこむことが必定。
 南陽市民に動きが出てきたことは嬉しいことです。米沢市は今初冬に市長選挙が行なわれます。そのために本会は「無能な現市長を廃し有能な市長を市民のために生むための精査活動に全力を傾注しなければならない使命があるのです」
 南陽市政に接して呆れるばかりの場面に遭遇しておりますが、南陽警察署の優柔不断さには驚くほかはありません。官製談合の事実を書いてもなんのことやら。「カエルのツラにションベン」とはこのことであるか。これでも行動しない署であれば、肝っ玉が冷えるような官製談合を報じてみることにしようか。南陽市はもはや特定議員に植民地化されようとしている。
議員と名のつく群像には裏街道という利権にまつわる街道があるようだ。それを官製談合というが、あまねく議員諸侯の常識とされているもので罪悪感は「バレなきゃええべ」では国民が浮かばれない。

鬼のひとり言 41 一般廃不許可

kage

2007/06/15 (Fri)

 永年にわたって一般廃棄物収集運搬の許可を求めてきた希望業者に対し、本年もまた「不許可」の裁定が安部三十郎から出された。
 この業者は北関東一帯にシェアをもつわが国有数の企業だ。多くの市に支社を持つこの会社で当該許可が出ないのは当市だけとなっている。米沢市にある現場の責任者は米沢市の特異な不許可処置に頭を抱えている。
 全国的に不法投棄が問題視されている現在、米沢市もその例外ではない。不法投棄の理由の一つに「廃棄物処理業者」の高価な手数料がある。
高値安定に甘んじていたカラープリン卜や花屋がその高値安定ゆえに他の異業界の参入を受け高値は脆くも崩れたことは市民の知るところである。
一般廃の業界も首長よる許可裁定に守られている以上、安穏とした業界として続くのだ。したがって、許認可権をもつ首長に多少の袖の下を払っても十分に採算がとれるという仕掛けなのだ。
「袖の下」に甘んじていないのであれば、市民に許可を与え自由競争とし、街の清潔に寄与させることが政治というものであろう。
 許可性のない「建設業者」が自由競争の元、熾烈な営業を展開していることこそ正常な自由社会というものであろう。
安部市長の標榜する「自由の風」とはなんぞや? 市庁舎に掲示することを禁止されている「自由の風」とした己れののぼりを恥ずかしげもなく堂々と市長室前に飾り、議会では不適切を指摘された議員の質問に対して「市長が許可すればよい」と平然と応酬するふてぶてしさはどうしたことであろうか。
 話を一般廃にもどす。昨年春の議会で一般廃の許可を求める請願書が議会を通過しているにもかかわらず安部市長は首を縦に振らなかった。自由の風は市民に等しく吹く風ではなく、安部市長個人的に吹かせる風なのである。
 市立病院の受け付けに「ニチイ学館」と称する人物を見かけるのだが、その理由を総務部長に聞いたところ市職員より派遣社員の方が人件費が安くあがるからだという。そこで老生は「正規の職員の給与が高いからということになるのだが」と聞いてみた。「まあ、そういうことになりますかなあ」と苦笑いした答弁だった。
格差社会の一面をみた思いと同時に公務員制度の矛盾を垣間みた思いがした。弱肉強食の時代到来が平然と地方自治体の中で息づいているのを知って愕然とさせられたものだ。
国民は平等ではないということだ。うがった見方をするならば「奴隷時代」の到来と「派遣会社」による江戸時代さながらの「口入れ屋」が横行する時代になってきたことに歴史の逆行を感じて憂いもひとしおである。
 本年秋の市長選挙には、どんなことをしても「安部市政」にストップをかけなければならないと老生は考えている。
心あるひとたちは安部市長を評し「人の意見には耳を傾けず、自分の考えと違う職員を排除する」といった行政では米沢市役所は「暗黒の役所」と憂うのである。
 再度いう、安部三十郎は「世紀合成」の総務部に在籍していた8年間、係長にもなれなかった能力しかもち合わせていない人物である。と、彼の先輩は語る。そんな人物を市民が市長に選んだ理由は高橋政権を継承する対抗馬に対する批判票からであった。だが、今年の市長選には「野村」「松田」という真打ち登場である。選択肢は「米沢再生の道」か「夕張り路線」であるか。

鬼のひとり言 本命立候補か

kage

2007/06/13 (Wed)

 本年、晩秋に行なわれる米沢市長選挙は本格的な形相を見せてきた。安部市政がこのまま続行されるならば米沢市はどうなると危機感を深めて立候補を表明したのは元自民党県連幹事長を勤めた若きエース野村研三氏が現職安部三十郎氏に挑戦する。が、数年前から安部市長の無策「市長ゴッコ」に批判的だった松田俊春医師が立候補の意志を固めたようだ。

 松田俊春氏の立候補の意志は固く、本月17曰(日)午後7時30分より西部コミニティセンターに於いて「どうする日本・どうする米沢」をテーマに渾身の演説会が開かれる。主催は「市民と考える会」。
 福島県生まれの医師が舟山病院の外科医長として赴任。以後、松田外科医院を開業し特に老人福祉に貢献されているご仁だ。
さしたる見識をもたない市会議員諸侯らと違って米沢市の伸張のために必要だとされる意見を具申してきた方である。が、米沢市民の他所者だとする偏見が強く、行政が氏の具申に耳を貸すだけの度量はなかった。まして、安部市政になってからは、氏の具申は更に遠ざけられたようだ。
 松田氏は「みなさんに米沢の将来や市政に関心をもっていただくキッカケにしたい。場合によっては出馬を検討する」と、コメントされているが出馬の可能性は高いと本会は見ている。
 こうなってくると米沢市長選挙はますます面白くなってくるというものだ。片や「自民党県連幹事長の野村研三」「現職だが、政治・行政いずれの能力にも欠け、ただ市長ゴッコを楽しむだけの安部三十郎」に、実力者が加わっての三つ巴選挙となる。
 情報通は「まだ、三人とは決まったものではない。立候補者はもっと出てくるのではないだろうか。そんな予感がする」は語る。
松田氏の立候補は二年ほど前から一部では噂されていたものだ。米沢市民の中に未だに「よそ者を排斥する」封建思想が息づいていれば別だが、17日の催しにはぜひとも出掛けて拝聴するぐらいの心意気が市民になければ、米沢市の未来を語る資格はあるまいと本会は極論するものだ。

 米沢市に本命登場である。安部市政の稚拙さは言語に絶するものがある。この現実を米沢市民は見逃してはならない。老人会で市長に「肩もんでもらった」とか「一期では何もできまい。せめて二期はさせてやらないと」という同情論だけでは、明日にでも「米沢市は夕張市にならない保証はないのだ」これを打開し、こよなく伸張する米沢市であるために時代のリーダーの出現を望まなければならないのだ。 松田氏の米沢市長選に立候補されんことを切に望む次第である。
 前回の市長選挙は「大久保本人の責任ではないが、高橋元市長の院政を阻もうとする市民の声」と公明党が投票数日前に本部からの指令によって大久保候補を避けたとするいきさつもある。わけて高橋元市長と遠藤武彦衆議員とは「犬猿の仲」であったことも安部市長実現となったイキサツがあった。賢明な米沢市民であるならば、必ずや賢明な選択をすることだろう。再び、市長の座に着いてはならない人物を選ぶことはないだろうが、そのためにも松田氏の意見陳述の場を訪れてみることだろう。

鬼のひとり言 42 三前科者が支配する街、南陽市

kage

2007/06/08 (Fri)

 赤湯町と宮内町の合併によって南陽市が誕生したものの、異質な性格をもった両町の合併によって南陽市の行政は乱れに乱れてきた過去があったという。南陽市の行政を称して「前科者3人が支配する町政」だという声が流布する始末だ。
 三人の前科者が支配するといわれる南陽市とは一体どのような町政なのでろうか。その三人の前科者と称されている人物名を挙げてみよう。
■ 「小野健一郎氏」現議長。選挙違反によって逮捕5年間公民権停止処分。
■ 「渡部 敬氏」古参議員。通称:いろは屋。土地宅地取引法違反。
■ 「松田 庄治」松田組、現会長。土地改良事業(収賄)で逮捕。
揃いもそろって南陽市の顔役である。

 町民から寄せられる情報には、信じられないような噂や、常識を逸脱した人物らの行動が寄せられてくる。それも毎日のようにだ。まず、上記3前科者の前に現助役(副市長)の柴田誠に関する黒い噂が寄せられてくる。東西学園の失態をものともせず、助役を選任する議会もだらしないが、引き受けた柴田氏の厚顔ぶりには市民は呆れて物も言いたくという態度のようだ。
 市民が報告を受けたいのは「東西学園」が宮内高校跡地を活用するという触れ込みで南陽市の所有地につけた「担保額」は幾らで、その担保を消すのに市が担保所有銀行に支払った金額はどれほどの額であったのか?
 前市長でさえも「わからない」と本会の取材に答えている。このように南陽市民の税金を投入しながら肝心の前市長も「わからない」という南陽市政である。にもかかわらず柴田氏は職員時代から陽のあたる場所を歩いてきた経過から、桁違いの手腕をかわれてきた職員なのであろう。が、おなじ置賜地方の米沢市政では考えられない人事である。疑惑はさらに募り現南陽高校前の宅地造成には地権者であった山田伊助氏と組んで相当の金を握ったであろうという市民もいる。
 噂の根源は柴田氏がその地域に居を構えていることにあるのだが、当時柴田氏は宅地転換を任された立場にあったからのようだ。

 さて、南陽市政の官製談合は、南陽警察署の署員が執拗に聞き取り捜査に動いたようだが、上部県警に捜査を止められ、市民の期待をよそに捜査は打ち切られたようだ。
 市政の不浄さに立ち上がろうとした市民の声は抹殺されようとしている。南陽市民から寄せられた官製談合の次第を精査した結論は「まぎれもなく官製談合であり、まずもって市自体が調査すべき問題である」と本会は結論づけ、同時に南陽市政の「恥部」を露呈することになった。
 なにしろ、予定価格を100%で落札できる南陽市の水道工事である。しかも、工事の下請け業者は2社ともに「入札業者」であったこと。
3路線に区別されていた水道本管を、1路線にまとめた荒業発注は専任技術者の手持ちが落札者になかったことによるものだった。
 本工事の3路線を1路線にまとめ、選任技術者を1人ですませるという荒業を行使した件や予定価格を100%で落札した凄腕業者に疑惑はないか
さらに、合入札業者の2社が下請け業者となった件については、南陽市としても言い訳は立たないであろう。が、いまもってお咎めなしとは腐れ切った市政だと断言できるものだ。
 また、既報の西工業団地の疑惑は市と松田組の悪意による造成以外には考えがつかないことだ。
産業廃棄物が埋没されている土地と知りながら、松田組は埋没されている廃棄物を掘り起こしもせずに、10センチ程度の盛り土をして造成した土地だった。造成地に工場を建て操業をはじめた某社の駐車場が陥没し車が埋まった事件から、同社が慌てて掘削した結果、産業廃棄物が埋没されたままの造成地であることが明らかにされたものである。
 現在、土地開発公社を相手どり仙台高裁で抗争中である。一審では某社の勝訴となったものの、南陽市の通称「ダニ」とよばれている議会の最古参議員で開発公社の理事でもある渡部啓議員、通称いろは屋の一喝によって「示談金など払うことないッ!」と柴田理事長を一喝、そこで某社は公社が申し出た示談金を「支払手形」の引当金として金策に動かなかったために不渡りを出す結果となってしまった。
 一般社会の通念として「約束を守る」のは人間の常識であり倫理というものであろう。こともあろうに土地開発公社理事長が約束を反古にしたのである。
事業界に生きる人間にとって「約束手形」は企業の生命であり生き死にの問題なのだ。このことは当座を開いている事業家だけに課せられた社会的責務というもので、当座を開設してない人達に理解できるものではない責務なのだ。これを承知の上、いくら街のダニと称される理事の一喝でも某社にいわれのない不渡りを出させた理事長の責任は重いものだ。
もし、そのような理不尽の通る南陽市政ならば、南陽市との約束を結ぶ市町村があるとすけば無知か「おなじ穴のムジナ」同志であろう。

 南陽市の市長選挙にからんで、南陽市の動きにはじめて注目したが、酷い市政だとすぐに思った。議員の大半が前市長派に集結し安泰な構えをみせていた。そこで小生は対抗馬が勝利する技を吐露した。それを実行した対抗馬が勝利しただけで、市民にアッピールした。
「給食の実施」公約が勝利したと塩田陣営は信じているようだが、有権者の考えは他のところにあったのだ。それもわからない塩田陣営は選挙に無知であり、長期政権は望めそうもない。
 人は臆病なものだから、開票時には姿を見せないものだ。勝利が確定した時点から、態度が豹変するものである。塩田市長に会ったことはないが、市政の優柔不断さで人柄が見えるようである。
市長が勇断に欠ける原因は、長期政権の態勢を望むことから、議会対策に仲間議員を集めることに神経を使うからで、よほどの権力者でなければ「主権在民」の考え方はしないものだ。
 議会のおだやかさはどうだ? 南陽市がこんなに乱れた市政なのに、全員「怪文書」などに惑わされるな、噂も75日だと頭をすくめて風が吹き抜けていくのをひたすら待っているだけの議会だ。
問題を精査せよッ!

鬼のひとり言 米沢市長選に医院長出馬?

kage

2007/06/08 (Fri)

 今秋行なわれる米沢市長選挙に激震が走っている。
すでに立候補を表明している現職の安部氏に挑戦するのは元自民党県連幹事長野村研三氏が名乗りをあげ一騎打ちの形相をみせていたが、ここにきて新たに立候補を噂される人物があらわれてきた。
松田外科医院長がその人である。立候補の可否をめぐって17日に行なわれる西部地区の会合による「意見徴取の結果」によって決定することになっている。

 野村研三氏については、今春すでに立候補を表明、後援会を中心に実現に向けて大車輪で運動を展開中だが「健康問題を懸念する噂」がネックになっているようだ。
 健康問題とは、前回の市長選挙を前にして「肝臓病の悪化」を理由に東京虎の門病院に入院したことが理由のようだ。肝臓病についてはいろいろ理由がありそうだ。
 野村氏は現職自民党県連幹事長と立場から当然「自民党公認」で出馬する予定だった。ところが、米沢市選出の後藤源・武田誠両自民党議員は高橋幸翁市長の後任として擁立した大久保氏(無所属)の応援を画策していたために、あろうことか「自民党公認」を阻止して両候補ともに「自民党推薦」とするという政治倫理を否定する策に出たのである。
 安部候補は後藤源の姉の子供だから甥にあたる。表面顔は「出るなと説得中だ」としながらも「血は水よりも濃し」だったのであろう。あらゆる策を弄して「野村研三氏」の市長実現を阻止してきたことは明白な事実とされている。
 元をただせば後藤源氏は高橋幸翁氏の市長立候補に際して高橋氏の後釜として県会議員に歩を進めたというイキサツがある。したがって、高橋幸翁陣営の切り込み隊長的存在だったといえよう。以上の理由から政治倫理を曲げても「野村自民党公認を阻止」しなければならない後藤、武田には策謀が展開されてきたのは容易に理解される田舎的な政治論理であった。
 一説には米沢市長の座を狙う後藤源の野望説もある。大久保氏は若いだけに市長在職となれば長期にわたるであろうから大久保擁立も真意ではない。だとすれば甥の安部をいったんワンポイントに担いで自分は時機を待とうという魂胆であったようにも見える。
 「政治とは一寸は闇の世界」だとはいうものの、自分の立場を擁護するためには手段を選ばないというのが古今を通じて展開されてきた政治である。
 晩秋の米沢市長選に向けて「野村研三は体調に問題がある」という噂が町中を駆け抜けているようだが、考えられることは「野村落とし」に使える「卑怯だとはいえ唯一の効果的な作戦」であろうから。
 以上述べたように野村氏が立候補時に受けた同僚地元県議、高橋市長らの「政治倫理を逸脱した裏切り行為に心労から肝機能障害を一時的に起こした」と考えるのが常識というものであろう。やはり混迷する政治の世界である。
 現職安部市長を、「行政感覚は公人とは思えないほど稚拙」「歴代市長に仕えてきたが、常識というものがない市長だ」と多くの元職員たちは言う。
「市民の最大の不幸は、行政職として優秀な人材を県から引き抜いてきたにもかかわらず肝心の助役と市長との間に大きな亀裂が生じていて正常な行政が行なわれていない」というのだ。
「人事一切に市長が目を光らせ、昇格人事は地元優先で職員たちの不公平は募るばかり」という声の通り依怙贔屓の異常さには驚くばかりのようだ。
米沢藩の家老が殿のご乱行に付き合えないとして「定年を待たずして部長職々員の大量退職」は何を意味するのか? 市民は真剣に考えてみる必要があるだろう。
 本会は市長選に向けてできるだけの真実の資料を伝えることにするが、異常と思われる米沢市の立て直しに新らたに第三の候補とおぼしき「松田外科医院長」の出馬が実現するか否や?侍たるるは本月17日である。