鬼のひとり言 ⑰ 川野市議の去就?

2007/03/29 (Thu)
先に参議院議員自民党候補者に手をあげた川野裕章現市議。市議戦に出ず今秋の米沢市長選挙に的を絞ったという噂は真実であるか?
川野裕章現市議の去就をめぐって喧々諤々、噂が飛びかっているが今のところ誰にも真実は不明だ。
米沢新聞では「市議再選を狙わずして地方政治の在り方を模索する期間にしたい」との意向のようだが、少し前までは「秋の市長選挙に挑戦する」として記者会見予定日をキャンセルして山形の知事を訪ねていた。
先日、「市議在職20年を記念するパーティ」を開いたばかりであるから、すわッ「立候補の去就はいずこにあるや」と問題視されていたことは当然の成り行きだった。
以前から、県会議員を引退する武田誠議員の後釜として、取引は終了したという真しやかな噂が流れていたが、本人は独断で「自民党県連の参議院候補者選び」に手を挙げたものの参議院候補者選びからは外れた。したがって、武田県議との取引はガセネタだったということになる。「だれにも相談や根回しもしないで、自分一人で決めたことで支援者すらも知らなかった行動だった」と川野氏を取り巻く親族筋は困惑の態のようだ。
川野議員は常に「こんどは県会に出る」というのが口グセだったようだから、支援者は「またか? いつもの癖が出た」と真意は問わないことにしていたという。
支援者たちの大方の意見は「国会を狙った人物が、市会議員に戻るのはおかしい、せめて県会議員を狙うべきが筋ではないか」というものだったらしい。
川野議員にしてみれば「選挙対策・集票活動」は岳父の取り仕切る役目であったというから、川野市議は選挙の苦しみを味わったことのない「坊っちゃん市議」だったという。
若くして「議長経験者」である川野議員の最大の拠り所は岳父にあった。肝心の岳父の死去によって方向性を見失ったものであろうか。
いずれにしても県会の選挙には間に合わないことから、秋の市長選挙に立候補するという噂は信憑性が高いと思わねばなるまい。
市民の注目は一に「秋の市長選挙」に絞られている。安部市長は当然再選を狙って立候補を表明しているが「一期目は勉強、二期目からは実行に移す」と宣っているのだが、一期目の4年間で何もできなかった者が、なぜ?5年目から何ができるんだ」と有識者の怒りは大きい。だとすれば老人の票を集めるより方法がないかと「集会に老人がいれば肩もみをする」という評判はもっぱらだ。中には肩もみを拒否する老人もいて肝心の会合の趣旨が覚束ないものになってしまうと出席者は慨嘆する。
一方では野村研三元県議が手を挙げているが、前回の市長選挙を前にして「健康を害して立候補を断念」した人物だ。 米沢市議から県会議員へ、そして副議長を経験しながら自民党県連の幹事長を勤めた人物だ。心配された健康も回復し順調な選挙活動を展開しているようだ。が、前回は自民党の公認を邪魔された経過から、今回は党組織に拘らない「全員選挙」を標榜しているようだ。加えて未知数だが川野市議の参戦と秋の市長選挙は白熱化する予想だが、有権者の義務は己れの権利を行使することにある。価値ある選挙戦に願いたいものだ。

鬼のひとり言 ⑯ ゴミ袋めぐる千代田CSとJAとの関係に癒着はあるのか。

2007/03/28 (Wed)
千代田クリーンセンターとJAとの間に不穏な癒着構造?ゴミ袋の収益がJAを経由して数千万円が地元衆議院議員の懐に?
主婦には関心の高いゴミ袋の有料負担は疑問だらけのようで、匿名氏からの怪電話があり担当職員にそのいきさつを聞いてみた。
ゴミ袋は見積もりによって製造会社に千代田クリーンセンターが発注し、JAが小売店に配布する。 市民は小売店・スーパー・コンビニなどで購入する。この流れを見ると、いかにも発注者とJAとのもたれ合いを考えるご仁がいるらしく本会への「たれこみ」となったものである。
JAに金が入ると即JAから地元衆議院議員に政治資金が入るものとの考えがあるらしくその金額は年額約2000万円ぐらいだという。
そこでゴミ袋の発注者、千代田クリーンセンターに「疑惑を醸し出すような発注販売方法をとるのか」を問いただしてみた。
○発注者の説明
ゴミ袋には用途別に6種類ある。それぞれ発注単価は違うが見積りによって発注し20~100円までゴミ袋があるうちのなじみの深い1枚40円の袋について。
[40円の袋の内訳]
① 仕入単価=4円弱 ②JAの手数料3%③小売店マージン8%
販売差金の全額が焼却費用となるが、ゴミ袋の販売益で全額焼却料が賄われるものではなく、3市5町がそれぞれ不足分を拠出することで成立しているものだ。
確かにゴミ袋の仕入価格からみると、消費者にわたるゴミ袋の価格はいかにも高いように思われるが、ゴミ袋の差額は公平を期すための受益者負担焼却費用となっている。したがって、発注から消費者にわたるまで矛盾はみられないのだ。
焼却するゴミの量は各自、異なるから所定の袋を使用することによって公平さを維持するための処置としては理解できるものだ。税金の公平な負担金と解釈すべきであろう。
問題は相も変わらぬ「不法投棄」がつづいていることだという。缶ジュースなどの空缶投棄からはじまって、大型電気製品などの不法投棄は後をたたず、不法投棄地区に住む人たちが毎年それの処理に頭を痛めながら地区の美化のために汗を流しているのだとも聞いた。不法投棄の多い箇所は、関根地区の水窪周辺、七渡り方面、大沢地区、赤崩周辺だという。勿論、大型の電化製品もあるから車が通れる山道や山林、崖のある場所となっている。不法投棄撲滅運動は市民こぞって展開すべき義務だろう。

鬼のひとり言 ⑬ 歴史ある城下町づくり

2007/03/24 (Sat)
上杉鷹山公は全国自治体の理想的首長の第1位に選ばれたが、米沢市の町づくりの核と哲学はあるか?歴史と文化を表明する形骸化された市民憲章とは?
米沢市の町づくり構想はいかに?
久しぶりに南原方面に所用があって、興讓館高校につづく道路を車で走った。道路際にあるフェンスには「学園ロード」と記してある。だれが名づけ親かわからないがただ1校だけの道路に「学園ロード」の名称は似合わないものだと思った。
そこで老生なりにふさわしい道路名を考えてみた。ただ1校だけにつづく道ならば、京都に「哲学の道」があるように「勉学の道」としたほうが、城下町らしさを醸しだすのではあるまいか。
通学する生徒たちにしても何のために通学するのか自分の立場を律するためにも有効かとも考えている。
興讓館は鷹山公が開いた米沢市が誇りとする藩校である。ゆえに「藩校の道」も考えてみたが、将来的には何校か連立するやも知れぬ広大な敷地であるから、「勉学の道」が妥当であろうと考えている次第だ。筑波学園都市構想は河野一郎の死で暗礁にのりあげたが、それにならって、現代風に命名したものであろうが、命名にあたっては歴史感があり文化の香りが匂うような命名にしたいものである。まして米沢市は上杉の城下町である。
町づくりに哲学をもった京都市は建築物の高さを規制した。勝手気ままに建造物を造られたのでは京都の町並みに期待を寄せて来日する観光客に「京都らしさ」を提供できなくなるという配慮からである。また、隣市、会津若松市にも城下町としての町づくり哲学があって、観光公社を中心に町並みの保存に懸命である。ご存じのように「武家屋敷」が早くから建造され、藩校「日新館」が復元されている。味噌蔵が「でんがく屋」になり、干物問屋が「女性専用の宿」となって繁盛しているという具合だ。若き頃、野口英世が勉学のために住んでいた建物は「野口記念館」として保存され観光に寄与していることは申すまでもない。
おなじく、喜多方市も肩を並べるように「蔵の街」を提唱し、蔵を使った商店、造り酒屋の蔵座敷など、古い蔵を有効に観光行政が伸張しているようだ。
山ひとつへだてた米沢市の観光行政はいかがなものであろうか。町並みは城下町にふさわしい町だといえるだろうか。観光客の多くは豊臣の五大老上杉の城下町だとあれば、それだけの期待を持って訪れるのであろうが、「米沢の何処に行けば城下町の風情が感じられるのですか?」と問われたときになんと答えればよいのか返答に困るのが実情ではあるまいか。
市全体を城下町風にするのは不可能であろうが、一点だけでもいい城下町の風情を感じさせる場所を創るべきであろう。春の武者行列には威風堂々たる姿勢さえあればよしとするも小野小町などを加えると祭りの趣旨が半減するばかりか滑稽なものだ。川中島の戦場におもむく行列は「たくましさと緊張感」を、合戦の場では「笑い顔のない真剣な形相で」をモットーにしてもらいたいものだ。

鬼のひとり言 ⑫ 魑魅魍魎の俗信

2007/03/23 (Fri)
封建か? 伝統であるか? 皇室の俗信の存在!?大名家や皇室では「双子」は忌み嫌われていた。
三笠宮は双子で妹君がいた。
とてつもない本を読んだ。あるご婦人が貸してくれたものである。書籍名は「昭和天皇の妹君」。著者は河原敏明氏、皇室ものルポライターだ。
万物の霊長である人間は「一回の出産に対して-人であるべきで、二人、三人というのは畜生と同じだ」という俗信が強く「公家、大名家など社会の師表と仰がれる家では、家門の名誉のために、双子が生まれると一方を始末することが多かった」というものだ。意を受けた産婆は、その場で扼殺したり、タライの水に顔を浸けたり、時には路上に遺棄したりした。家来衆に「遣わす」こともあるが、その場合は絶対の内密。子供が長じてのち、なにかで事実を知っても親子の名乗りはおろか、対面させることもまずなかったという。同性の双子まだ「畜生腹」ですんだが、男女の場合は「情死者の生まれ代わり」とされ同じ忌まれるにもその差は次元を異にしている。
「三笠宮さまには、妹さんがいる。双子さん――俗にいう"畜生腹"だった。生まれるなり山本伯爵家に渡されて、いまは奈良で尼さんをしている」という―― ? 庶民には「双子も三つ子」も歓迎されて当り前だが、皇室にはそれなりの俗信が少なくとも戦前までは生きていたということになる。
皇室と仏門の関係は深い。絶対洩らしてはならない秘密は仏門に入る事によって護られるということになるからに他ならないのだが。寺側にすれば高貴なお方が仏門に入られると寺院の格もあがり実入りも多くなるというメリットもあるからだろうが、庶民には想像もつかない大家や皇室のシキタリともいうべき伝統なのであろう。
現代は小子化問題に悩むご時勢であるが、歴史を紐解いてみると「大名家」とともに「皇室」にも「官女」がいたから、必ずしも「皇妃」が産んだ天皇ではないらしい。
これ以上書くと「不敬罪」のそしりを受けそうだから筆を止めるが、いやはや封建とは大家や皇室などに生き永らえていたのかと改めて日本古来の封建に思いをはせている次第。伝統を重んじる英国の王室にも同様なシキタリはあるのだろうか。
妻にことの次第を話したら「そんなことは昔からあったことでしょう」と一笑に伏されてしまったが、人間を万物の霊長だとする人間社会のおこがましさはいつまでも通用するものであろうか。太陽とともに寝起きする原住民たちの生活に「羨ましさ」を感じることがあるのは老生だけであろうか。
現今の異常天候は何を意味するものであろうか。自然現象の恐怖にいまさらのように驚きおののいている現代人である。わが国の第一次産業は申すまでもなく「米穀」である。それを産出する農業従事者が消えようとしている現状に政治は手をこまねいているだけで決定する良案もない。わが国は世界最大の農産物の輸入国である。しかも「1日に10万食を廃棄する国家でもある」奢りはいつまでも続くまい。

鬼のひとり言 ⑪ 首長と議会のもたれあい

2007/03/21 (Wed)
南陽市の市長選挙での争点は、新斎場建設によってドブに捨てたという、
1億円弱の税金を巡る市民感情の爆発だった。
市議会議員のほとんどを固めて再選を図ったはずのアラバンこと現職市長が大方の予想を裏切り、絶対不利だと見られた元議長塩田候補の前に一敗地にまみれるという大番狂わせの南陽市長選挙だった。
本会のインターネットが南陽市内をひとり歩きし利用された結果、多量のビラとして選挙戦中にばら撒かれ南陽市長選挙を決定づけたとされているが至極迷惑なことである。
その結果、警察および関係者からの電話や訪問などで、少々混乱したものの大事にいたらなかったことは申すまでもない。
南陽市長選挙に限らず、選挙には常に不条理がつきものである。まして老生は米沢市民であり南陽市の選挙に行使する何ものももたない市井の人間である。しかし、有権者として他市町村の選挙戦を見聞する必要がある。そしてなお、選ばれた首長がどのように公約を実行し実現しているかによってその市町村の命脈が半断されるからである。
南陽市の場合、首長も定まり一段落かにみえるが「市長の首をすげ替えてはみたものの」という火種が燻りつづけ今にも火の手が上がりそうな気配が濃厚であることが老生の耳に入ってきた。
選挙戦の核は新斎場建設によって、ドブに捨てた1億円弱の税金に対する市民の不満の爆発であったはずだ。しかし、独裁者荒井市長とはいえど、新事業を独断専攻というわけにはいかないはずだ。民主主義の原則から必ず「議会の承認」を得ているはずだった。
不思議なのは「議会の承認」を得て建設した「新斎場」をめぐる選挙戦になったことである。新斎場の建設を承認した議会議長がそれを争点に市長の座につく滑稽さを南陽市民はどのように判断しているのであるか?
塩田新市長は一切その責任を感じていないばかりかその責任の追求を怖れてか、新斎場に関連した説明は口を閉ざしたままなのである。
ところが火の手は、新助役柴田氏就任によって市民の中から一斉に盛り上がってきた。いわゆる南陽高校統合時の行政失態がここにきて爆発しそうな勢いなのである。
当時、宮内地区内の高台にあった宮内高校と赤湯園芸高校が統合し「南陽高校」が誕生したが、宮内高校跡地については山形県が南陽市に無償譲渡した敷地だった。当時、都市計画の職員だった柴田某が助役に専任されたから、宮内高校跡地をめぐる不動産業者と柴田との癒着を知っている市民がいきり立つのも無理からぬことだった。
当該跡地に「看護学校」を建設するという医療法人「東西学園」に当時の大竹市長は柴田職員とともに賛同し、跡地の権利書を東西学園に渡し、2億7千万の根抵当権をつけられたのである。
しかも看護学校の進展どころか当該医療法人が倒産。裁判の裁定によって南陽市が買い戻しするという破廉恥な行政失態を起こした張本人が、塩田市長の助役を努めることになったから不満が続出するのは当然の成り行きだった。助役就任の前に買い戻した税金の額はナント11億3千5百7千万円也、先に1億弱の税金をトブに捨て、再度、新市長によって、1億数千万円の税金拠出という南陽市の行政の不手際が重なっている。
かくいう米沢市も11月は市長選挙が行なわれる。米沢市民の判定は行政能力抜群な元助役を破って「ボタ餅市長」と呼ばれる安部新市長が4年間の市政を担当してきた。が、あまりにも能力に欠ける市長であるだけに、老生ならずとも常識的な市民たちから新たな対抗馬が望まれつづけ野村なる元県会議員が立候補を表明してきた。
現市長は行政能力に欠けるばかりか市庁舎内には掲示する事が禁じられている「自由の風」なる旗を標榜し、実弟に共産党議員をもった市長である。
行政にズブの素人を自認したのであろうか、組織にない「参与」に大学教授をはべらせたまでは良いが肝心の「参与」が「何を考えているかわからない市長だ」と大学に逃げかえられるというお粗末さ。豪腕で鳴らしたアラバン市長には政策が見られた。が、不幸にして米沢市長が果たした公約は市長車を廃したぐらいなもの。南陽市の轍を踏まないためにも子供以下の脳味噌市長を再選するほど米沢市民は愚かではあるまい。
南陽市のゴタゴタは決して対岸の火事とは思えない。近年の選挙は政党選挙を遠ざけた無党派選挙である。いわゆる浮動票選挙だが、同時に無責任選挙の怖れもある。

鬼のひとり言う ⑩ 談合の功罪

2007/03/18 (Sun)
談合は業者間の無駄な叩き合いを防ぎ適正な利益を守るのが主眼だった
行政が業者に課す膨大な資料作成への疑問?
「簡素化」は政府のお題目であった。が、実際は行政が建設業者に要求する資料は呆れ返るほどの量だと嘆く。ある業者は「分厚い資料の提出を課せられるが、こんなに多量な書類に行政は目を通し精査するものであろうか?」と語りさらに「資料作成にかかる時間と費用は工事受注高の2割にもあたるものだ。これは無駄な経費であるばかりでなく、勘繰れば発注者の業者に対する権威を示す行為でしかない」
以前、小生が耳にしたことがある。発注高の多い部課といえば「土木建設」関連の部課だろう。
が、これらの部課長らの態度といえば「業者に対してはまるでチンコロ扱い」だという。部課長らに会うのはいやだが、だからといって仕事を貰わねばならないから、とさつ場にひかれる牛馬のような滅入った気分で出掛けるのだという。
まず、会計は黒字でなければ指名業者になれないから、粉飾した会計簿で指名業者に登録される。指名入札では多量の書類の作成とその準備に追われ肝心の入札となる。入札会場には関係者以外立ち入りはできないことになっているが、時には例外が見逃されることもある。
「六中新校舎」入札でのこと。「置賜建設の落札」が決定し発表後、会場から「異義あり」の声があがった。声の主は「会場に入ってはならない人物」からの声だった。
入札長はいったん決定したのであるから、会場閉鎖すべきものだったが声の主は「置賜建設の入札価格を下回る価格があるはずだ!」
そこで、たかが数枚の入札書を精査した結果、行政に落ち度があり他社が落札したという経過があって、業界が一時騒然となった事件があった。それに後日談が有る。
当該新校舎建設については分離発注であり、そのうちの「電気工事」は山形の業者が受注した。その下請けをしたのが当該工事の入札に参加した米沢市内の2業者だった。
入札に参加した業者はその工事の下請けはできない定めになっている。肝心の建設部は知って見逃していたものか定かでないが本会に匿名で連絡があったので、建設部に問い合せた結果、2業者の下請け行為が露見したのとおなじくして、元受会社が倒産してしまった。そこで再度、入札となり他社の落札するところとなって六中の新校舎がある。
七中の工事では「べらぼうに安価な札を入れた会社の倒産は業界では予想されていた」ことであり事実倒産に追い込まれている。業者たちに健全な経営感覚力が育っていれば、業者間の「健全経営のための懇談会」など勉強会をするべきであろうし、その会合を以て報道関係者が「談合」と決め付けるのは早計であって「正常な業者活動」を阻害することにもなるのではあるまいか。
本論の「簡素化」はどう改正されるものであるか。
「談合」のうち、悪とされるのは政治関連の人物たちであり「価格を知りえた行政首脳部」であることが「談合犯罪」を生産しているのだ。
談合犯罪にもっとも留意すべきは「行政」であり、その厳しさを業者にだけ求めるのは行政の怠慢というべきだ。
業者間が談合したからといって「理不尽な入札」は行なわないものである。なぜなら、業者が前年支払った人件費を始めとする経費類と今年度の原材料等を行政が調査して工事価格を算定し、この価格の2~3%下回った価格を入札価格としている訳であるから、談合により工事予定価格を上回らない限り「理不尽な入札」とは言えないであろう。
競争入札により工事価格が安くなる事は良いことだと言う市民が居るが、過当競争による低価格での落札結果、受注した会社が倒産したり倒産しないまでも市職員の1/3の給料で働かなければならない従業員の待遇は憂慮すべきである。
掲示板書き込みに「市内の古紙回収業界に茨城だったかの業者を参入させようと、市内の古紙業界の「談合体質」やそれをかばう(かのような態度の)市当局を鋭く、執拗に追求していたのは、ほかならない、この御仁だった」というくだりがあるが新着情報を遡れば理解できるであろうが、本会が主張してきたのは、
① 市内で古紙を高く買う業者が有るのに、何故安い原幸グループに売り、市民に損害を与えるのか。
② 市が既存の特定業者に払う廃棄物処理料金は、建設業者のように競争原理の働くシステムを導入せず、過剰な支払いで市民に損害を与えるのか。 と言う点である。
これは官製談合に値するもので、この結果は職員の懐金または市の裏金として悪用されてきた手法であり、業者話し合いとは異なる性質のものである。
書き込み氏よ、もう少し事象を的確に理解すべきであろう。
まず、行政は「業者に異常な負担となっている書類などの簡素化」をはかり地元企業優先の発注を核とした活性化につながるシステムを米沢市再建のために確立すべきである。
これら難問に立ち向かうためには、現状の勤務状態から脱皮し「自己研鑽・達成」のために奮起してもらいたい。

鬼のひとり言 ⑨ 公務員の削減

2007/03/17 (Sat)
格差社会といわれている現代だ!公務員と一般社会との格差は2.1倍?
お上は常に農・工・商の上にいるべきか?
地方選挙の年である。はじめに定数削減された県会議員の選挙が行なわれるがどうも無競争当選の様子を見せているようだ。原因は共産党からの立候補者がいないことによるものだ。現職3議員はホット胸を撫で下ろしている様子だが、無競争当選となる選挙の弊害は、現職議員らに緊張感が薄れることにある。
次いで米沢市議会議員の選挙、この選挙は現職議員と新人立候補者とが入り乱れた激しい選挙選になることは必定だ。しかも4議席定数削減したあとでの選挙だけに当落の予想はマチマチで、言えることは「新人有利 現職不利」の戦いが操り広げられるようだ。
さて、県議、市議ともに定数削減の理由は「財政の貧困」からくるものであって現職議員らが削減によって当選率の不利な削減案を以て議会を通過させた勇気は誉められてよいものだ。役にも立たない議員らによる銭食い虫が地方財政を蝕んでいるからというわけでもあるまいが、議員定数削減は民主主義に反する行為ともとれるが、ローマ時代の全体会議というわけにも行かないのも現実だ。
経済的理由からの定数削減であれば、まず「地方公務員」の削減は当然視野に入れた行政感覚が必要となってくるのであろう。リーダーの資質は行政ならずともスポーツ界では問われるものだ。田舎者ほどリーダーにそぐわない者がリーダーになりたがるものだ。議員立候補者の中にもそれらしき人物はいる。
「議員にものを頼むなら、金か票をもってこい」と宣う元県職議員がいることを聞いて愕然としたのを忘れない。議員の中には現金ならぬハムソーセージを配って投票を頼んでいた元議員は、小生の指摘に「オレは現金なんて配らねえ。配ったのはハムソーセージだッ」と怒り狂った抗議を受け、こんな人物が議員でいたのかと米沢市の疲弊を感じるごとに慨嘆するのだ。
さて、疲弊した地方財政を建て直すためには、議員ならずとも公務員の年収削減が実施されるべきだろう。小泉元首相は「三位一体」で痛みを分け合うと言ったが痛みは国民側に一方的に多く、政治家による不明朗な支出には比較的寛大な処置をとっているように国民には映るのだ。ナントカ還元水とか1本5千円也の飲料水だとか、答えにならないような税金の無駄使いの現実をみるにつけ、こんな奴が大臣だと聞けば精神衛生上よろしくない政界模様だ。加えて新議員会館問題である。政治家はいくらでも税金の無駄使いが免除される中央政界であるか。
地方の財政が逼迫し、財源の建直しが叫ばれている現況の中にあって「公務員の年収と一般給与所得者の格差は2.1倍にも広がった現在、議員の歳費とともに公務員の給料削減をされて当然だと考える。給料削減が不可能であれば、公務員定数の削減は回避できない地方自治体のなすべきノルマであろう。
事業体を苦しめているのは一に人件費の支出であることを考えてみると、公務員なみの給料を払って成り立つ企業は地方には存在しないだろうと患われる。
さらに年度末を向かえて、余った予算の使いきりのため無駄使いのあることだ。これについては余りにもひどい実例が多すぎるのだ。

鬼のひとり言 ⑧ 活性化と談合

2007/03/16 (Fri)
立候補者諸君 !活性化の「秘策」はあるのか?!
限りなく疲弊する米沢市の建設業界
必ずしも行政だけの問題ではあるまいが、建設土木関連業界の疲弊状態はすざましいものだ。
せめて除雪作業に頼って息をつきたいと期待してする業界だが天候異変によって肝心の雪が降らないのだ。したがって除雪収入が無い有様だ。個人といわず屋根の雪おろし作業が今年に限ってはゼロ。これでは日銭も入らず毎日が日曜日。パチンコ屋の駐車場だけは満パイの盛況ぶりだ。
ヤケのヤンパチが米沢市をとどまることのない疲弊に追い込んでいる情況なのだ。
さて、例えは失礼のそしりを招くおそれはあるが、養豚業者は「豚を肥らせて販売する生業」である。痩せて市場価格の落ちる豚を飼育はしないものだ。
ところで近年の行政が発注する物件に群がる業者に一言。「行政が積算した物件」を指名業者が「競争入札」によって、しのぎを削って落札をめざすが、ここに業者たちの「話し合い」による適正な利益確保の方策があるべきところ、面子や前渡金ほしさに「出来もしない破格な値段」で競争入札に臨む態度は下の下といわざるを得ないものだ。その結果は累積赤字によって倒産という社会的な悲劇を起こすのだ。痩せた豚も市場価格はないが、死んだ豚は廃棄処分となるだけだ。
死に体の業者から税金はあがらない。まして死んだ豚から税金どころか処理のために経費が加算されるだけだ。
行政は地元業者を育成し所定の税金を期待するのであれば、業者への指導は競争入札にあたって「適正な利益が含まれているかどうか」をチェックしてみる必要があると考える。したがって行政は「談合」を敵視するのではなく「業者同志の話し合い」に違法行為だとして目くじら立てることもおかしい。
「談合」の違法性とは、いわゆる「天の声」だとか、ブローカーの暗躍によって「懐を肥やす行為」を国民は憎んでいるのだ。県知事が相次いで失脚した原因はいわゆる「談合」で、自分の懐加減を肥やした犯罪性の高い「談合」を繰り返してきたからにすぎない。ここでいう「談合」とは適正な利益をえて行政の発注する物件に対処する「話し合い」が必要ではないかと思うのである。小生の経験から、行政が購入する場合には細かい商品でも「競争入札」という手法をとる。
その内容は「原価から幾ら値引きできるか」が落札の原因となっているようだ。したがって小生は「入札」による納入は断ってきた。安ければ市民は歓迎するだろうが、それでは手前の業が成立しないのである。
豚に粗末な餌を与えて市場価格を維持できるなら意見の焦点は別だ。
行政の姿勢とは「あくまでも市場の活性化にある」が、「競争入札」と手法によって「落札者」が適量の利益を含んだ落札価格であるかどうかをチェックするのが当然であろう。街の疲弊は業者が適性価格を維持できないところに要因があるのだ。安価であることはだれしもが、望むことではある。だからといって街の小売店が立ち行かなくなって閉店を余儀なくされている現状である。
高齢化社会の到来によって、近所から小売店が消えてゆく現象は高齢化社会にふさわしいものではないだろう。だからといって、ボランテアだけで商売はできない事情もある。
米沢市を経済的疲弊から救済する「秘策」はあるか?
立候補者諸君! お題目だけでなく「具体的な草案」をもって、市民に向かって「雄弁」に説明できるかどうかだ。

鬼のひとり言 ⑦ 理想のリーダー

2007/03/09 (Fri)
全国自治体の首長が理想とした政治家とは?[住民のことを考えた改革に共感!]江戸時代の藩主上杉鷹山公を改革者のトップに!
今朝の読売朝刊全国版で「江戸時代の米沢藩主上杉鷹山公を改革者」をトップに掲げて報道している。
徳川家康や坂本竜馬、松下幸之介、織田信長らを抜き、圧倒的な比率でトップを飾っている。その改革の理由は「住民のことを考えた改革」だったからだとされている。
全自治体の首長を対象にしたアンケート(回収率・91.3%)で[理想のリーダー]として挙げた899人中、鷹山と答えたのは146人で徳川家康を大きく上まった。しかも鷹山と回答した首長は43の都道府県にわたっているという。
〈1〉 上杉鷹山146人 〈2〉徳川家康66人 〈3〉坂本竜馬55人
〈4〉吉田 茂44人 〈5〉西郷隆盛35人〈6〉小泉純一郎28人
〈7〉田中角栄26人 〈8〉松下幸之介25人 〈9〉吉田松陰25人
以下、10位には織田信長(23人)がつづいている。
その理由は、リンカーンがゲデスパーグの戦場で演説した有名な「人民の人民による人民のための政治」すなわち民主主義の根幹を示した日より、約二百年以前に、公は「伝国の辞」によって、民は国の基であると説いているのだから、いうなれば「民」主役の政治を実践された藩主(リーダー)であったことになる。
8年前のアンケートでは、吉田茂、田中角栄、後藤田正晴に次いで4位だった上杉鷹山が一気にトップに出たわけとはなんだろうか。地方財政の疲弊によって地方財政の再建への苦慮が大方を示しているのであろうか。
いずれにせよ、米沢市の現在の首長と比較するのは酷な気がしないでもないが、自ら木綿の着物を着て治世に臨んだ鷹山公と、市長が許可すれば許されるのだと議会で得意気に答弁し、選挙時に使用した自己のスローガンである「自由の風」なる幟りを、市長室入口に飾っている自己本位の首長の感覚とは大なるへだたりがある。
鷹山公治世時にも家臣による騒動は起きた。現市長のもとでは仕事が出来ないとして定年を前にして4人の部長が退職した。本年もそのような部長級退職が増える勢いだ。異質な人事とされた[参与]の-人は「本市の市長は変わった人間だ。何を考えているかわからない」と言って「やってらんないよ」とケツを捲って福島大学に帰っていった事情を市民は知っているのだろうか。
しかも[参与]は市役所の組織図にはない役職なのである。それを市長の職権で実現したものだ。
由来、行政とは組織で動くものである。それを市長になったからといって自己本位の感覚で行政の組織を無視することは許されるものではない。
南陽市の[佐藤病院の米沢進出]を阻んだのも安部三十郎である。「アルカデア構想による敷地であるから、病院の設置は趣旨に合わない」また「祖先の土地を市に売渡した者として趣旨にあわない」と述べているが、事実は土地売渡しの最後の最後まで承諾印を押さず、周辺の土地売渡し者に迷惑をかけてきたのは、誰であろう現米沢市長安部三十郎その人である。
当該病院の進出には「諮問委員会をつくって諮問する」という市長の態度、「前市長からの検討事項だ」という院長に「私は聞いていない」と惚けた返事を繰り返していた。結果、業を煮やした院長は「悠長でわけのわかんない市長では事業が遅滞するばかりだ!」と、南陽市に完成させた。建設費何十億、期待される付帯事業、ならびに米沢市における経済効果を簡単に否定した事実は鷹山公の治世とは雲泥の違いだ。これでは全国、ワースト首長のトップを飾るのではあるまいか。
多くの有権者は「市長になって一期だけでは何も出来ないべ。もう一期くらいさせてから判断してもええんでねえべか」とする同情論もある。 「冗談じゃねえ、奴に、あと4年も市長の椅子に座られたら米沢市は破滅してしまうッ!」という怒り狂う人たちもいる。
「公約の芝生を敷き詰めたサッカー場の建設は?」「由緒ある刀剣であっても無駄な支出だ。その費用を書籍購入費にあて、町中に図書館をつくる」という約束はどちらも今になって「お金がかかるから出来ない」とは、市長の言うことではあるまい。
こんな政治・行政ともに能力の欠けた人物は晩秋の「市長選挙」で有権者の手によって淘汰せねばなるまい。それでこそ、改革者上杉鷹山公も浮かばれるというものであろう。
先の見えない過剰な投資で再建団体におちた「夕張市」の前に米沢市は「再建団体」を経験した市でもある。喉元過ぎたでは済む問題ではあるまい。先を読めないリーダーや、人の意見に耳をかせない自己中心で[唯我独尊]的な感覚のリーダーには10万市民の暮らしを任せるわけには行くまい。
平等の悪癖は有権者の良識の是非を無視した選挙にあることだ。平等を決して否定するものではないが「米沢市百年の計」を考えた時に、リーダーの資質をもう一度注視して投票してほしいと願うのだ。
オリンピックに勝利するには、それぞれの種目選手に与えられたハードルというものがある。市長に立候補するのは各自の自由だが「立候補する前に超えなければならないハードルがある」そのハードルとは「市民のために自我を減した行政が出来るか否か」だ。鷹山公は実践したが、現市長は自我が先導して人の識見に見向きもしない人物だ。今では首長の資格はないとみるが如何に?

鬼のひとり言 ⑥ 雄弁な議論を

2007/03/06 (Tue)
議員に求められる資質と条件とは !?力強く、よどみなく、明確に 自分の意志を 議会に響かせる議論をすることだ!
時として人は[雄弁]と[冗舌]の区別さえつかなくなることがある。話術の面白さにつられて、つい[冗舌]を、さも[雄弁家]と錯覚することが住々にしてあるものだ。
講談師・落語家、漫談家などにみられる話術には、よどみがなく、たしかに人を引きつける力をもっている。それは才能にもよるだろうが、なんといっても長年の修業によるところが多い。
彼らの話術をもって[雄弁]とはいわない。
[雄弁]と[話術]は区別すべきものだ。[雄弁]とは常に内容に責任をもったもので[政界や学会]などで、明確に相手に伝える技術として発揮すべきものである。
米沢市の議会を傍聴する度に感じることは、質問する議員も答弁に立つ市の職員ともに[雄弁]にはほど遠いものだ。まず、小学生でもあるまいに原稿の棒読みに必死の形相なのだ。まず、議会を見回し議会の反応を確かめる余裕などはサラサラ見受けられないのだ。そこに「明確に自分の意志を相手に伝えようとする話術に欠けている」からだ。
雄弁家といわれる人物は「伝えるべき内容を頭の中に叩き込んである」から、目線は常に相手の反応を探っている…原稿に目を落として一字一句読み違えまえと必死になっているのは解しても、オドオドして自信なげに映るのは得策だとは思えないのだ。
議場での態度は、胸を張り、力強い声で、議場を睨みつけるようにして聴衆の反応を確かめながら「主張」すべきが議員の能力であり品格というものであろう。
かつて米沢市にも[雄弁家]と称された政治家がおった。議論によって国事を動かすという伝統は、西洋ではローマ帝国以来のものである。シーザーが暗殺された直後に、アントニウスがローマ市民の前で演説して政局の混乱を一気に鎮めた話はシェイクスピアの戯曲にもなっている。
弁論術を徹底的に尊重したことはローマ文明の特徴というべきだろう。近年のアメリカ大統領の中で弁論の巧みさではレーガンであろう。彼は野党からの批判に対して鮮やかに切り返した演説がある。「大統領に立候補した時、わたしは4つの公約をした。インフレを止める・失業を無くすこと・ソ連に勝つこと・国家財政の赤字をなくすこと。公約どおり、わたしはインフレを止めた。貿易を自由化した結果、アメリカに安い品物がどんどん流れインフレは収束したのです。
税金を安くし、国内産業を活性化させ失業も減らしました。そして今やソ連の負けは明らかです。国家財政の赤字こそ今でも残っているが、わたしは4つの公約のうち3つを果たした。7割5分の打率は大リーガーのバッターでも、なかなか出せない成績だとおもいませんか」拍手は止まなかったと聞く。

鬼のひとり言 ⑤ 雄弁と議論

2007/03/04 (Sun)
某国会議員のTVでの発言「勝つことが民主主義を護り抜くことである」この発言を有権者は傲慢な発言とするか立候補者の理念とするか。議員のもっとも重要な責務は[議論]することにある。かつて日本には演説の輝く伝統があった。
現在の日本はどうであるか、[弁論]の稚拙な首相を輩出することによって、就任早々、言葉尻をつかまれている首相がいる。日本の国会は弁論の場でなく、言葉尻を捕らえ、それを反政府的マスコミに利用させる場になっている観がある。官僚の作文を棒読みする風景が延々とつづくのがわが国会中継であり、政府と野党との論戦など望むべくもない。だからといって「日本人には最初から演説は不向きである」と決めつけるのは、即断すぎるのではあるまいか。
過去には、尾崎行雄翁は桂首相を蒼白とさせる弾劾演説を国会で行い、民間でも憲政養護大会が開かれ、そこでも桂内閣を弾劾する演説を行なっている。
さすがの超権力者桂太郎も、演説による攻撃の矢面に立たされて辞職に追い込まれざるをえなかったのである。
後年、明治政府に清々しい印象を感じるのは、明治の指導者たちが何事においても弁論を戦わせて政治上の方針を決めていったことが大きく関係しているといえるであろう。彼らは決して[寝業]や[談合]を中心とした陰湿な政治を行なわなかったからだ。政府内の議論は本物の議論を戦わせる場であった。議論によって根本政策が決められていったのである。これは日本人にとって誇るべきことであった。弁論を尊んだのは明治の指導者ばかりではない。現在の講談社はかつて[大日本雄弁会講談社]という名称であり創始者野間清治が最初に成功したのは「雄弁」という雑誌だった。創刊にあたり野間は「雄弁衰えて正義衰ふ。雄弁は世の光である。雄弁に導かざる社会の世論は必ず腐れている。雄弁を崇拝する事を知らぬ国民は必ず為すなき国民である。文化燦然たる社会にはつねに雄弁を要する。また、雄弁を貴ぶ気風がなくてはならぬ」
考えてみれば、雑誌[雄弁]が発刊されていた時代が、日本が本当に栄え、国際的に重きをなしていた時代だったといえる。雄弁の習慣が次第に消えていき、雑誌[雄弁]が廃刊になった二ケ月後に日本は亡国の戦争に突入するのだ。議論が栄えなくなれば必然的に倫理構築の能力も衰え明晰さがなくなる。[雄弁]の終刊は老成小学二年の年であった。政治を志す者は[辻説法]を基本に、感動ある雄弁をなすことだ。

鬼のひとり言 ④ 政治理念の追求

2007/03/02 (Fri)
立候補者に望むこと期待することマニフェストとは――候補者が有権者に振り出す約束手形である!
いつの選挙でも規模の別なく、立候補者側が出す[リフレット]や政見演説に触れると「明日からでも日本国・山形県・米沢市が伸張し、国民の暮らしが豊かなになる」ものだと錯覚に陥ち期待を深めるものだ。
実際には、候補者たちが国民や市民に約束した通りにならないのが常だ。
これは候補者が[当選するための美辞麗句]に過ぎないものだとして、有権者は期待もしていない。極端な言い方をすれば「候補者は平気で嘘をつく人物群だ」ということになって、有権者は選挙制度を嘲笑い、むしろ迷惑な制度だと思いはじめている。だから、候補者の[嘘つきくらべ]を楽しんで来たようだ。候補者は[いかに巧く嘘をならべるか]が当選の鍵となってくる。これでは相互の信頼感が生まれてくる道理がない。
■マニフェスト
直訳すれば(宣言・声明書・檄文・宣言文)である。
都合によっては反古にすることがある、といった意味は含まれていない。宣言した以上、守ることが原則。
どうもマニフェストなるものが、候補者のご都合主義で守られないのが常識になっているようだ。例えば米沢市の場合「芝生を敷き詰めたサッカー場をつくる」と市長選時のマニフェストで市民に宣言し当選した安部市長は、議会の追求への答弁が奮っている。「お金がかかるからできない」
「馬鹿いってんじゃないよ、施設を造るのに金が要るのは当たり前じゃねえか!」シャッター通りの活性化の策として市長は「だれもが親しめる図書館を造る」と宣言したが、図書館新設には建設資金は不要であったのか、または再度、図書館新設にお金がかかることを認識したものであるか。
こんな社会通念からはずれた[宣言]をし、宣言した後で取り消すような首長では米沢市の将来はどうなる!というような懸念だけでは済まされないのではあるまいか。嘘をつく為政者の排除は有権者の責務だ。
男子の宣言は厳守せねばならないのである。手形(約束)を不渡りにした場合、振り出し人が受ける社会的な制裁は厳粛なものである。約束とは守るためにするものである。市の首長ならずとも立候補者は有権者に提示する[マニフェスト]なるものの責任の重さを改めて認識してほしいものだ。
どこの選挙事務所でも「見栄えのするマニフェスト」作りしているようだが、これは「有権者を騙すテクニック」だと無責任な甘い考えでいるならば大違いなのだ。[出来もしない][やろうともしない]を宣言するのは男子のやることではないのだ。
卑劣な行為として老生は言及する。

鬼のひとり言 ③ だらしない共産党の言い訳 緊張失われた選挙は県政を堕落させる!

2007/03/01 (Thu)
統一選挙戦のトップを飾るのが[山形県県会議員]選挙だ。今年から定数削減によって、米沢定数4から定数3に削減されての選挙となる。ところが武田誠議員の引退によって、現職3議員による無競争当選になりそうな雰囲気になっている。
常に立候補が話題になっている[川野裕章][佐藤俊弘]現市会議員2氏の不出馬と共産党からの立候補が望めないことから、無競争当選という選挙年初っ端から有権者の緊張と期待を欠く、米沢市の県議選となる。
■ 擁立候補を断念した[共産党]の事情と言い訳。
議員確保のために当選が望める[山形市の県議選に全力を投入する]
言い分を返せば[米沢市での立候補は無駄]で形だけの祭りは無駄だということであろう。共産党の魅力はブレない政治主張にあったし、存在そのものが保守政権の暴走を食い止める役割を果たしてきたことにある。これではインテリ層の支持まで失ってしまう危険性がある。
前回当選議員の動向を探ってみたかぎり[共産党の出方]いわゆる候補者を擁立できるかどうかが目下の焦点となっていた。
対立候補が出れば選挙になるし、[無競争当選]ともなれば手間も資金も不要となる。それで現職議員でいられる。申し分なしだ。
選挙が意味する目的は[候補者の政治理念に対する緊張と確認にある]したがって、緊張と政治理念の確認もなしに現職維持ともなれば[棚からボタ餅]というもので、政治は腐敗の一途をたどる危険性が大になる
運転免許制度が健在であるように、教員・医師・弁護士・公務員なども適性であるかどうかの資格確認制度があるべきだと考えている。
出でよ! 革新陣営! 勇気ある若者よ! 米沢市を無風状態にしてよいわけはないのだ。現職議員の緊張を高めるためにも!

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