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どうも気が滅入ってしょうがない

kage

2006/11/29 (Wed)

 高畠高校の場合、「いじめ」が要因とされた校舎内における女子生徒の投身自殺の当夜、県教育委員長ならびに県教育長を交えた歓送迎会と称する酒宴を開いていたという。
老生の感覚から「まさかッ?そこまで非常識ではあるまい」という疑問が連日の報道によって真実であることが知らされた。
 教育関係者にとっては、県教育委員長や県教育長を迎えての歓送迎会であり用意万端準備しての会であったろうから会合の中止が出来なかったのであろう。当該学校長同様現場の教員たちにとっては晴天の霹靂的な出来事であったに違いない。が、事情を説明し即刻会合を中止すべきであった。中止できなかった本音の理由は定かでないが、県のおエライさんの機嫌を損ねてはとの配慮が優先したのであれば、彼らはもはや教育者でもなければ社会人とも呼べない人種に属する半端者たちである。
 結果は出席した県教育委員長・県教育長らの辞職につながったではないか。学校長も辞職すべきものであり出席した教職員たちも雁首を揃えて辞職すべきが筋。そんな心ない人間たちに、どうして「人間教育が出来ようぞ!」 彼らに反省を求めるというには、あまりにも幼稚過ぎる言動が多く滅入るばかりだ。ああ、腹が立つ!!
 自殺した生徒にも家族を含む周囲の環境にも思いを致すべきだろう。「いじめ」は昔からあったもので、いうならば社会全体が「いじめの構造」に満ちあふれた現実を直視すべきだろう。
 学校での「いじめ」にも耐えきれないような気弱な人間が、どうして矛盾に満々した現社会を生き抜くことが出来ようぞ。一度死んだ人間が瞬時に生き返ってくるテレビゲームじゃないのだ。
人間は一度死んでしまったら「いじめ」の被害から逃れることはできても仲の良かった友達や、父母兄弟にも二度とまみえることは出来ないのだ。
 人生には楽しいこともあるが、苦しいことや悲しみがその何倍も多いのが常なのだ。

[富士秋空 墓は小さく 死は易し]
 自殺願望の生徒諸君に、近代俳人・中村草田男の句を送る。 澄み切った紺碧の秋空のその広さと、富士山の雄大さとに比べて、人の終焉を象徴する墓のなんと小っちゃなことよ。そして生あるものが命を断つという行為は、生を全うしようとするみんなの勇気に比して、なんともひ弱な決断であることよ。 今の苦しみから逃れるために「人間は自ら生命を断ってはならないッ!」苦しみや悲しみから逃避してはならない。「これが人生の試練というものかッ」として楽しむ器量を養うことにしようではないか。
 老生わずか73歳だが、どうしても100歳までは生き長らえねばならぬ。果たさねばならぬ責任と青年時代に志した戯曲作家として「雲井龍雄伝」を完成させたい思いからだ。
 郷土が生んだ最大の英傑「雲井龍雄」は、天下の不実を糺すために生命を賭して日本国中に大号令を発した人物である。が、米沢藩は彼の動向に眉をひそめ以来英傑の名は禁句とされてきた。
 いかに米沢藩が時代の英傑を守れなかったか。そこに時代に媚びながら連綿として生き長らえてきた米沢市の排他的精神が根強く残っているのだ。「出る杭は打たねばならぬ」のである。
 男子ならずとも世の不条理には意を決して立ち向かわねばならぬ。老生の近衛兵だった父はそう教えて一冊の本を呉れた。老生がはじめて手にした書籍こそ雲井龍雄伝だった。
 以来、60数年間彼にまつわる文献書籍を読みあさってきた。
男子であるかぎりにおいて世の中の不条理に立ち向かわねばならぬ。不条理な大河であれば流れを変えねばならぬ。それが男子の男子たるゆえんだ。 惜しむかな、わが郷里には望むべくもない御身優先の土地柄に成り下がっている。今更のごとく「いじめ」や「生徒の自殺」に眉をしかめるだけでは解決に結びつくものではない。

「いじめに対する生徒の対応」と「聖職者の隠蔽体質」に怒り狂え!

kage

2006/11/16 (Thu)

 「いじめ」は今にはじまったことではない。生徒間のいじめには生徒同士による解決策があった。「いじめられたから」といって「死」に逃避的な解決を求めるとはあまりにも短絡的でひ弱な行動ではあるまいか。
 老生の少年時代は、生徒同士も教員たちも「鉄拳による制裁」が日常の学校での生活であった。育ち盛りの少年たちにとって「鉄拳教育によって」はじめて行動の善し悪しを教え込まれたようなところがある。それでいて登校を拒否するようなことはしなかった。人間も動物である以上社会性を身につけるためには「鉄拳教育」が不可欠であり、いたずらにエセ愛情的教育は不要である。
 人間として社会性を学びとらねばならぬ時期というものがある。先人のいう「三つ児の魂」がそれである。それまでの時期に脳細胞が完成するものであるからで、それを実証するのが「鈴木ヴァイオリン教室の英才教育」である。ソニーの創始者井深会長の発案からであるが「3才児からの教育」の必要性が立証されているのだ。教育とは4才児からでは遅すぎるのだ! 家庭教育の重要さが求められるゆえんがそこにあるのだ。家庭教育には「教育」というよりは「躾の大切さ」が問われるものだ。3才児とは目に入れても痛くない程の可愛い盛りの子供だ。可愛いさの反面、子供には「反発心」が育ちつつあるのも同時期だ。
 そこで「躾の時期」を見過ごしては親にも児童にとっても将来まで禍根を引きずることになる。
 学校に入る前までの教育こそが親達による家庭での教育なのである。家庭教育での大事なポイントは「家族一緒に朝の食卓を囲む」ことにある。各々の理由はあるだろうが「家族全員が揃って食卓を囲む」ことが実行されている家庭から児童たちの大それた行動が生まれるわけがない。「食欲がない」「元気に陰りがある」などの子供たちの生活指導は家庭がすべき人間教育というものであろう。この大事な時期に的確な躾もしないで、学校に「子供の躾」を要求し責任を押しつけるのは人の親として恥ずべき行為だと言えよう。まず。学校行事に率先して男性が出席することによって教職員の緊張も高まるであろうし、授業中をもわきまえずご婦人の無用なお喋りにも終止符が打たれることにもなるであろう。
 家庭生活における父権の復活こそが「いじめ問題」に対する第一の解決策だと思える。また、文科省を頂点とする教育委員会の存在が問題であろう。教育者として功労はあったとしても、定年退職後のいわば名誉職に違いない。第一線を離脱した人物が現場を監督するのだから経験の有無は別としてもエネルギーの枯渇した名誉職はひたすら役人同様「事なかれ主義」に安住して、怖れるのは名誉に傷がつくことだけであろう。したがって、責任の追求を嫌い隠蔽体質をこよなく構築するのであろう。教育フォーラムのやらせは酷いが、教育界の体質を如実に物語るものとして国民は怒り狂うべきではないだろうか。

逃げを打った!? 吉田一明部長と鈴木善夫課長の無責任逃避行?

kage

2006/11/11 (Sat)

 10日2時から開かれた「住民監査請求」陳述の場に、問題の環境生活部の吉田一明部長と鈴木善夫課長の2名とも「ほかの会議のため」と称して陳述の場に出席しなかった。
 監査請求の主たる趣旨が環境生活部の行政疑惑であるだけに、2名の欠席に傍聴者には余計疑惑の念が強まる結果となった。
 陳述の骨子は「業者に支払った明細書を8ケ月もの間なぜ出せなかったのか? 市民の税金を業者に支払いながら、なぜ?市民の要請にもかかわらず開示できないのか? 開示出来ない理由の裏に隠されているのは業者からのキックバックであるか? それとも行政得意の裏金造りであったのではなかったか?
 陳述の内容は激しく両者の疑惑を糾弾する内容であった。傍聴席には米沢市議会須藤議長をはじめ数名の議員が陳述に聞き入っていた。
 ある議員は「議会選出の監査委員は不要だ。議会は行政のチェック機関に撤するべきだ」と述べ「陳述会を傍聴して勉強になった。他の議員たちも積極的に傍聴すべきであった」

 さて、「会議だから」として出席しなかった二名の職員はいずれも環境生活部課の主要職員である。陳述の日程は前もって「委員会が設定したもの」である。日程を承知していながら同日同時間に会議を設定すること自体が「逃げを打ったナ!」という評判になる。
 無理もない陳述は行政の恥部を激しく追求するものだったから、被告人の立場で傍聴者の前に顔を曝すことをよしとしなかったものであろう。
 環境生活部は業種がら市民の目の届きにくい部である。だから監視の目が緩むその中で業者との癒着が出来やすい部課である。したがって、各地では不祥事の多い部課だとされている。だからこそ職員全員が「公僕たる立場から、市民側に立った行政を行なうべきであった」が米沢市の場合は違っていた。市民の要請どころか、議会が承認した業を願う人たちの誓願さえも無視した不遜極まる部課であった。
市民の声を無視するだけでなく最高裁判所の判例さえも饒舌な課長は特異な解釈をもって否定するのだ。こんな職員を抱えている米沢市役所もご難だが第一市民が困惑するのだ。
 安部市長にも行政才覚に乏しい面がある。が、安部市長率いる米沢市行政一般に言えることは「進取の精神」に欠けていることだ。周囲の市や町には「やる気が見える」が米沢市には「やる気が見えない」のだ。
 米沢市の再生には「再生する哲学」が生まれなければならない。米沢市の再生のためには「誇り高い田舎町」と位置づける開発哲学が合っていると思われる。いたずらに中都市指向の時期はもはや逸した。
 雪国を逆手に生かした横手市には「かまくら」祭りがあり、十日町や札幌市には観光客をいざなう雪祭りがあるではないか。綱木ダムと小野川温泉は隣接していることから観光施設の造成策、ダムを巨大な釣り堀化する思考などはどうだ。努力もしないうちから不可能だとする思考と、ダメ元で実行方に動く人では最初からパワーが違うものだ。
 市の中央部の伸張が停滞したのは他の市長村も例外ではなかろう。だとすれば、ダメを承知で市民からの「町起こしプラン」の応募を考えてみたらいい。行政や商工会議所に知恵とやる気がない以上、市民の知恵を借りるより仕方があるまい。
 安部市長にそのような度量がなければ所詮言っても無駄というもの。

ある教頭の歪んだ行動から

kage

2006/11/10 (Fri)

 その教職員は後に学校長を歴任し退職後は米沢市の要職に名を連ねた著名な人だけに人物の名は伏せる。
 老生の家に7人の女子短大生が寄宿していた時のことだから40年も前のことになるが、彼女たちは各学校に配置され「教育実習」に通い帰宅するとすぐに学校での出来事などを和気藹々と語り合っていたものだった。が、どうしたことか、普段は快活な学生がうかぬ顔して沈みかえり学生同士の楽しかるべき談笑の輪から外れて部屋に籠もっているのだ。
 見かねた老生が事情を尋ねたら「明日から教育実習に行きたくない」と言い出した。以下女子学生の告白である。
 「教師になる希望だったから、生徒と交わる時間は楽しかった。が、当該学校の教頭の執拗な誘いが嫌だった」と嘆く。低俗な教員の実態に触れ教員になる夢を捨てるのだという。
 その教頭は老生が中学生当時から教員だった。美貌な女子中学生に対して異常とも思える性癖をもって接していた。思春期真っ盛りの老生たちにとってはその行動があまりにも強烈に映り過ぎた。見かねた老生はクラスを代表して行動の是正を要求した。おかげで老生は廊下に立たされる常連とされ通知表は惨憺たるものになり下るばかりだった。
 たしかに感心しない教員はいる。父兄の発言で「先生方と父兄とで放課後を利用して懇親のソフトボールでもやってみたらどうだろうか」と提案がなされた。ところが間髪をいれず某教員から「時間外手当てはだれが出すんだ?」の声が飛んだ。父兄会は教員の発言でシュンと白んだがたまりかねた老生はその教員を睨み付けて「オマエは出ることないッ!」と一喝そしてソフトボールの開始となったが、気がついて見たら某教員の顔が父兄の後越しに見え隠れしているではないか。
 出たがり屋のご婦人がいる学級は不幸だ。某中学校では通知表の日には5000円の学級会費を徴収することがわかった。通知表をもらった後は学級懇談会と称して、駅前の食堂で教師を交えた飲み会を開くのが通例とされていた。したがって会費を払えないご婦人は翌日になって通知表を貰いにくるのだ。「先生は独身野郎でアレの経験もなかんべ。オレたちが教えてやんべず」などの会話に爆笑しながらの懇談会なのだ。老生は故北目教育長に事情を告げ、以来、学級懇親会は消えた。
 出たがり屋はご婦人にかぎらず男性にも多く見られる。常日頃調子だけは良くて人の受けだけを気にしている。そのくせ口だけ軽やかで役につくと目的達成とばかりに満足して、行動する気は露ほどもない。田舎ほどその傾向が強く、ゆえに地域の発展は遅れるだけの結果となる。
 男女を問わず「有言」のみで「実行」を欠く人間たちを評して「之れ無事名馬」と揶揄した言葉がわが国にはある。侮蔑されているのにも気がつかず「名篤」と言われて税に入っているご仁もいて世の中様々である。

連日の「宮内中教師問題」書込み続出に思うこと

kage

2006/11/09 (Thu)

 この問題については「開いた口が塞がらない」というのが老生の正直な感慨だ。学校教育も堕ちるところまできたか! 慨嘆の一語に尽きる。「滅びにも美学というものがある」が、現代の教育界の崩落ぶりは「滅びるべく堕落街道一直線」の感がある。
 終戦前までは、教師は世間から聖職者として尊厳を集めていたものだ。そして教師は薄給に甘んじながらも「先生・教師」と尊敬の眼差しで迎え入れる社会に支えられてきたものである。
 現代の教職者にとって「聖職」の意味が正しく理解され受けとめられていないようだ。
 宮内中学校教師の行為は第一に「教え子たちを舐め切った上」「他校の女子中学生徒も同じようなものサ」と錯覚に陥った結果の行為であろう。
 だから、教え子たる宮内中学校の女子生徒の行動にも広がりが出てくることにもなってくる。
当該の教師は生徒間で一番を誇る人気教師だと聞くそこに落とし穴があったと考えることが出来る。「俺は大抵のことは許される」という不遜な思い上りである。妻子ある教師が出会い系サイトで相手になる女性を求める不条理さ、まだ年端もゆかぬガキが同じように交際相手を物色する破廉恥さは言語に絶する社会の恥部である。
 世の中は男女の世界であるから、男性と女性が互いに求め合うことは正常な行為ではある。が、宮中教師と女子中学生との求め合いは畜生道を感じさせる不快な結末でドラマにもならない不潔極まる印象だけが残る。
 裸の写真を送りつけ、そして相手に裸写真を送らせたあげく「逢わなければお前の裸写真を学校でバラ撒くぞ」とはなんという言い草だ。
 この行為が露見した結果どうなるか? に思い至らなかったバカで軽薄な自惚れ教師を社会は徹底的に弾劾する以外に救いようがない。一方で裸写真を送った女子中学生の家庭はどうなっているのであるか?
 老生の想定では「正常な家庭で育った娘」ではあるまい。大人であれば美人局という犯罪も考えられるが両親の愛に飢えていた娘なのではあるまいか。精神的に未熟な中学生でも女性としての肉体は完成しているのであろう。その情景を終日見続けてきた当該教師の歪んだ性に、自分自身で歯止めをかけられなかった精神的未熟さがこの度の不祥事を起こしてしまう結果だといえよう。「男女の情愛は永遠に美しいものである」が「偏愛・邪恋のはては失望と憎愛」となる。
 この問題に限らず教育界の堕落からすればおそらく氷山の一角であろう。したがって、事件の発覚は置賜地方の教育界にとっては警告であり眠りからさめて緊張感を高めるであろうから一概に責めることは自粛して「家庭教育の責務を認識して、子供たちの日常行動に心配り」に精出すことが肝要なことだと思われるのだが。

「いじめ」の実態を隠蔽する教育界現場。家庭教育は万全か?

kage

2006/11/08 (Wed)

 連日、いじめによる学童の自殺が報じられ、当該学校長らによる隠蔽体質が白日に曝されようとしている。一方、政治においては県知事らの犯罪的な辞任劇と、国民に実感の無い「いざなぎ景気」を超える好景気に浮かれている。

 申すまでもなく「いじめ」は社会の縮図というもので古今東西を通じて消滅するものではない。
人間社会も動物社会同様、弱肉強食の世界に暮らしている。その世界は国家の利益を最優先とする外交によって成立しているのが実情だ。だから強者と弱者がいるかぎり「国家間のいじめ」が絶えないのが常識でありこれを「悪の論理」という。
 人類と動物との違いは唯一「宗教の存在」にある。肝心な宗教も多種を極め神同士の対立が国家間の紛争を巻き起こしている元凶となっているから誠に厄介な人類社会だといえよう。
 そこで国際的な「いじめ社会」をどう是正するかに観点を膨らますことの前に「日本国家が滅びない方策」に視点を絞りこむことが急務であろう。
 故事に「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。現在はどうであろうか。「衣食は十二分に足りている」が、「礼節を忘れた社会」に成り下がってしまったわが国である。子育てに必要な条件は無論「衣食」であろう。が、子育ての中で肝心の「礼節」を教えてこなかった大人全員に責任があると老生は考える。礼節を学んでこなかった人間に正常な社会性が育つわけがない。まして遠大な世界観に寄せる哲学がである。
 明治にはそれがあった。大正のデモクラシイーは頓挫し、昭和には悪の論理から武力による派遣があり大戦を起した末に崩落した。そして崩落した国家の再建は経済至上主義であり、結果として学歴偏重主義国家となった。その主義遂行のために差し当たって入試に必要のない履修科目を疎外し、入試合格数を増やすことが学校の名誉と狂奔してきた。高校教育は予備校化していたのだ。このように場当たり主義が氾濫する教育界である。この現状を無視して「学童のいじめ」対策が正常化するはずがない。
 最近の報道では学校全体の隠蔽策と、文科省の「いじめの原因は家庭教育にあり」とする責任のすり替えが発覚するなど、教育界は原因の盥回しの形相だ。教員といえども立身出世を望まない人間はおるまい。したがって責任逃れのための老獪な隠蔽策を繰り返しながら、それでも「鉄面皮な聖職者」でありたいと願う愚かな教職者に社会は鉄槌を加えなければなるまい。「学童のいじめ問題」がこれだけ表社会に出されたからには親権者も己れの「家庭教育の実態」を振り返ってみる必要がある。まず、家族全員で「食卓」を囲む食事風景がわが家にあるか否や。この食事風景を取り戻すことによって家族の健康状態や会話によって子供の心底が読み取れることにもなろう。
学校行事には父親が率先して参加することが望ましく、母親によるPTA参加は意味をなさないものであると老生は断言できる。これらの弊害を直し男性権の復活によって教職員らの緊張を高め「学校教育」と「家庭教育」との間に「責任の擦り付け」を排除し、互いの責任分担を理解し履行することが「いじめ」解決への初期段階だと思われる。わが国の敗戦によって失われてきた「恥辱」という文言の深さに大人たちはもう一度思いをいたすことが肝要。

住民監査請求、受理される!

kage

2006/11/01 (Wed)

 公務員の不祥事が毎日報道される昨今だが、本市行政においても不当と疑われる公金の支出が行われていることから、今月24日監査委員宛に「住民監査請求」を行ったところ、27日付けで受理したとの通知が小生宅に届いた。
 市民が納めた税金の使途が適正か否かを審査するのは、本来は市会議員や監査委員の職務であろうが必ずしも満足にその機能が働かない場合がある。そんな時、監査委員に精査を求めることが出来る市民の権利が「住民監査請求」である。

 本会は過去2回の「住民監査請求」を行い、一億円を超える収入を本市にもたらしたが、まだまだ無駄な出費が存在する現況にある。来年から始まる「団塊の世代への退職金の支払い」は市財政を圧迫し住民への行政サービスが低下するのは必然である。
 市民が行政に無関心でいられる時代は終わり、職員による税の無駄遣いには厳しい監視の目を向けなければならない。

 下記は市会議員宛に出された「住民監査請求」陳述の知らせであるが、一般市民の傍聴に関しての制約は無いので多くの方の列席を期待するものである。

米沢市議会議員各位
         よねざわ鬼の会
          代表 鈴木富夫

住民監査請求による陳述のご案内

日時  11月10日(金)午後2:00より
場所  教育委員会(会議室)

 本会は長期間にわたって米沢市が行なってきた「再生資源物の無償譲渡」を不服として、業者による見積り入札制度を実施すべきであると提唱してきた。以来、入札制度が実施され現在までに概算で一億円を超す米沢市の歳入となったことはご承知のことと思います。

 本会は以上の成果を踏まえながら、3回目の住民監査請求を行なうに至った経過は下記の理由によるものであります。

 本年3月14日、本会は情報公開法に基づき、「17度の決算承認済」後のうち環境生活部が米沢再生資源協同組合に支払った「支払い明細」の開示請求したところ当該環境生活部が出してきた明細書は各項目の数字を黒色で塗り潰したもので「判読不能な明細書」でありました。

 本会は数回に渡り明確な「当該明細書の開示」を要求したが、環境生活部は頑として提出を拒みつづけてきた。それを不服とした本会は「米沢市情報公開・個人情報保護委員会」に本年6月1日付けで諮問を求めた。

 当該委員会は本年8月29日付けで、米沢市長に「情報を公開すべし」との答申を行なった。

 以来、米沢市長から「答申に基づく情報公開に関する件」については無視されたものと解し、決算を承認した議会側にも責任はあるとして、須藤議長に相談した。
議長は当該部長に折衝、吉田部長は「開示する。その準備中である」と約束。
本会に議長からその旨通知があった。

 議長との約束の日から1ケ月以上が経過。そこで議長に開示されない事実を報告再度、議長は吉田部長に開示するよう要請したが開示の実行方はなかった。

 そこで本会は3度目の「住民監査請求」を行なったのであり、10月27日に受理されたものであり、同時に当該支払い明細書の開示する旨の通知が到着したのであります。

 全国的に公務員の悪しき行為が取り沙汰されていますが、大方の職員は環境生活関連部課から出ている現状から、3月に開示要求を受けた部課が8ケ月もの間、頑なに拒みつづけてきた明細書の中身とは?  市職員として正当な行為を疑われるような疑義を感じるものとしての「住民監査請求の陳述」の場であります。多数出席の上、傍聴いただき聡明なるご判断を仰ぎたいものと思うものです。