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kage

2006/02/20 (Mon)

家康の参謀「本田正信」の政治哲学に学ぶもの。


 日本が世界に誇る制度として、交番と官僚組織があげられる。いずれも明治以降に制度化されたものであるが、そのルーツは徳川政権の確立と深い関係をもっている。徳川幕府は人と物資の出入りを監視する関所を設け江戸市中においても治安を維持するため番所なるものをおいた。
 また、大名諸藩もおなじように領内に番所をおいて出入りのチェックと治安の維持をはかった。それが明治政府にも引き継がれ、現在のような交番、あるいは派出所になる。
 一方、官僚制度は明治政府の行政システムの確立にともない、各省庁とも国家のためと正当化して、予算権益を守るために結束し、高級官吏の一群が政治に影響力を持つようになった。これが昂じて民意で選ばれた政治家や閣僚よりも政策・行政に精通し、官僚が交替してもなんら国家の運営に支障をきたさないという牢固たるシステムとなって現在におよんでいる。
こうした官僚の組織は、徳川時代に幕閣といわれた高級行政官の出現に端を発する。その組織風土は、上位に対してきわめて腰が低く、下位や外部の者に対しては権力をバックに尊大、独善的、画一的にして責任の所在をつねにあいまいにするという特性をもつ。それがそのまま今日の官僚風土に引き継がれている。
 状況と時代が切り換わる局面で、つぎつぎと参謀を取りかえる家康にあって、ただ一人その位置を保った人物が家康より四歳年上の本田正信だ。もっとも正信は三河の一向一揆では家康に刃を向け、制圧されるや三河を去り、十九年にわたって諸国を流浪するという経歴を持つ人物である。
本能寺の変のとき、堺で遊ぶ家康を無事に伊賀越えさせた功労を家康が認めて帰参を許したものである。秀吉と対峙した小牧の役では、ねばりにねばって家康を天下ナンバー2として世間に印象をあたえてから秀吉の臣下になったのも戦略眼であり、朝鮮出兵にさいしても家康の渡航を諫めて押し止めたのも本田正信であった。 正信は「禄多き者には、権を与えず」が彼の真情であった。「政権の周辺にいる者は、決して高い禄を食んではならない」行政者が実権を握ると必ず人心の反感をかう。権力者の信任あつきを良いことに、高給を当然のようにもらっていては、人心は政権の正当性に疑いを持つようになる。

 これが正信の政治哲学だった。ために武功派たちは正信に反感をいだいたものの、公然と批判することはできなかった。「禄多き者には権を与えず、権多き者には禄を与えず」以来、幕府の指針となってきた。すなわち財力のある者は政治を動かしてはいけないというものだ。これは権力の暴走を抑制する効果があり日本の官僚制度の根底を形成するものとなる。この抑制システムがないがしろにされたとき、官僚組織の腐敗が始まり、官僚による統制政治が出現してくる。正信は実権を握る者の強さと脆さを十分に知っていたのである。
 現在の政治家および官僚の行為を見ていると、本田正信の政治哲学にいかにも逆行しつづけているように思えてならない。「市民」の上に「米沢市職員」があるような錯覚さえ覚える最近の市の行政感覚である。