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米沢市職員による「個人情報漏洩」につ いて

kage

2005/09/30 (Fri)

米沢市職員による「個人情報漏洩」につ いて

 本会のホーページに書込みがはいってきた。
漏洩したと思われる職員名を名指しで書いたことによる反論で「名誉棄損になるぞ」との趣旨である。
なんとも幼稚なご意見のようだ。無論、個人名を指摘した以上「名誉棄損」の疑いで訴訟されることは十分覚悟の上での指摘である。
 身に覚えのないことであれば、自分の名誉挽回だけでなく、米沢市の信頼回復、家族へのいたわりなどから、訴訟を起し身の潔白を図るべきであろう。
訴訟を起せない理由は何か?
人の噂も七十?日と、嵐が頭の上を過ぎるのを待っているのであるか?
市当局の漏洩犯人探しは「委託業者の可能性もある」と、範囲を広げて職員によって漏洩されたと限定されるものではないと、いたずらに範囲を広げる策で滑稽きわまるものだ。

 昔は上に立つ者は疑いをかけられただけで切腹したものだという。これが武士道の誇りだとしてきた。今の時代から想像できないが、武士には誇りがあった。現在は上に立つ者から腐ってきて いる。中央官庁から地方官庁までの腐敗の情況をなんと説明する。

 書込氏よ「自分も市民だと吐かすなら、キチンとした社会人たる自覚をもった人間として論戦を挑んでこい」いつでも受けて立つ用意がある。匿名を武器に無責任で生意気な書込みをするものではない。
 個人情報漏洩問題は重大な市民の行政不信に繋がるものだ。それを行政不信としてまた個人的な不安材料として受けとめることの出来ないような人物を正常な社会人とは呼びにくい。

 米沢市職員遠藤正人よ、身に覚えがないのであれば、名誉棄損だとして小生ならびに本会を訴えよ。

国保後藤課長の傲慢な開き直りを糺す

kage

2005/09/27 (Tue)

国保後藤課長の傲慢な開き直りを糺す

「市民無視もいい加減にしろッ!」 咄瑳に怒りが爆発して後藤課長を怒鳴りつけた。今朝のことである。本会のホームページに再三侵入してくる「国保遅滞議員の名前」に苦慮しているところだが、これらの議員および「市民の納税実態」を掌握しているのが市の国保課だ。
担当責任者である後藤課長にことのいきさつを尋ねてみた。

Q: 国保遅滞議員名が朝日新聞社に漏れたのはなぜか?
A: わからない。
Q: 外に漏洩したのは「知る立場にいる担当課職員」ではないのか?
A: 担当課職員全員に聞き取りしたが、漏洩した事実はなかった。
Q: 課に「遠藤正人」という職員はいるか?
A: おりますが。
Q: 遠藤正人なる職員が朝日新聞の前米沢支局担当記者に「滞納議員」
   の名を渡し、山形支局を通じて現朝日新聞記者が報道したということ
   だ。
A: それは風聞の類というもので漏洩したという確証でもあるのか?
Q: 本会調査による確たる状況証拠が有り、「かぎりなく黒に近い灰色職
   員」であることは事実だ。
A: 私は「職員を信じる」 それが正しいと考えている。
Q: 仮に風聞とはいえ「個人情報漏洩の事実が市民に与えたものは、議
   会および役所不信」と「個人情報が流される不安感」である。これを以
   て担当課長はどう思っているのか?
A: 職員には「守秘義務」があります。したがって担当職員が漏洩すること
   は断固としてありません。
Q: 漏洩したという事はまぎれもない事実であり過去形だ。担当課から漏
   れた以外に漏洩できる部課はあるのか?
A: (長い間があって)職員を信じることが正しいと信じる。
Q: 職員を信じることは怠慢であり傲慢な態度だ。市民不在の考え方だ。
   それとも、遠藤正人という職員は遠藤武彦代議士の縁戚にあり、遠藤
   宏三市議の従兄という関係から職員としてビビッテいるのではない
   か、そんな市民を見ていない職員はいらないのだ。

 後藤課長よ、市職員からの漏洩が無いことを信じるなら、外部より簡単に進入出来るセキュリティ問題を調査したとでもいうのか。
職員に「犯人は居ないか」と聞いて「私が犯人です」と言うほど市の職員が素直だとは思えない。

 刑事告発又は住民訴訟によって犯人が遠藤正人であることが判明したら、担当課長としてどんな責任をとるつもりだ。

 社会保険庁の役人と無責任さは同じだ。これでは市民の保険に対する信頼も失ってしまうのではないか。おなじ職員の立場同志「なあなあ主義」は市民の信頼を失ってしまうではないか。
議会の腰抜けども同様「臭い物に蓋」「沈黙は金」とは知恵のない考え方というもの。

 市民に問いかけたい。重なる市職員の不始末を黙って見逃して置くべきか否か? 社会正義はもはや死語であるか。

米沢市役所職員・刑事告発か!?

kage

2005/09/21 (Wed)

米沢市役所職員・刑事告発か!?

 4度開催された「議会倫理委員会」の結論は、議員の国保遅滞問は、本日開かれた議会代表者会議によって、議員の名前を公表せず、米沢市職員による「市民の個人情報漏洩問題」についても議会として刑事告発をしないことを確認したとの報告があった。
 本会に寄せられた投書はおびただしく、その多くは「遅滞議員名を公表すべし」というものであった。

 本会は滞納している議員の存在を調査した結果、4名の議員名が浮かびあがってきたものの、本会には捜査権もなく、あくまでも、議員名は噂の域を出るものではないとの結論から公表することは避けるべしとの判断から、避けることに結論するものです。
 それは、当該4議員は期日までに完納してこと。さらに市民税滞納?の噂については、いまさら職員が個人情報守秘義務の建前から洩らすこともあるまいから、本会は調査することは止めた次第。

 一連の騒動を精査してみると、発端は本年4月議会における議長、副議長、監査委員の振り分け方について、議員会派同士の怨念が市職員を使って「個人情報」を漏洩させたもので、市職員の氏名も特定されている以上、市民はむしろ「個人情報を報道機関に洩らした職員の行為」にこそ怒りを爆発させるべきであろう。
 議会側がその職員を告発しないとする裏側には、議会側の思惑があり、議会は必ずしも市民の負託に立って解決するという姿勢に欠けていたものと推察されるものだ。

 勇気ある市民は「私が市職員を刑事告発すッ!」と断言しているのは、議会での玉虫色的な解決法を良しとせず、市民として議会の結論に疑義をもったが所以であろう。
 いずれにしても、市職員によって個人情報がマスコミに漏洩した事実は重大極まる許しがたい行為に違いない。このあるまじき行為を犯した市職員の処分は行政の責任だが、いまだに行政もふくめて議会すら「さわらぬ神にたたりなし」として「膿を出す」ことの重さを持ち合わせていないところに市民の信頼復活は望めまい。
 米沢市のみならず置賜全域に米沢市議会の恥部を曝したのである。この責任をとる者はだれもいないという腑抜けな行政と議会である。
 ともに、一服の飲み薬で噂の消える時を侍っているのであろうが米沢市は「外科的な大手術」が必要な時期にさしかかっているのが現今の乱れである。

 中には態度のドでかい遅滞議員もいて、市職員を悩ませていたようにも聞く。
噂の4議員に申しあげる。
選挙時に傷がつくのを恐れての沈黙であろうが「金銭にまつわる諸事情」は、議員に限らず不況の最中、市民の理解も得られるというものだろうから、キチンと遅滞の事実を認めて市民に謝罪すべきが筋というものであろう。

 報道によって遅滞議員の存在が明からにされたが、市民の負託を受けた議員として、今度の不祥事を肝に命じて市民の信頼を得るような議員活動に精進すべきであろう。

米沢の観光産業を考える

kage

2005/09/18 (Sun)

米沢の観光産業を考える

 会津観光の中枢におられる「会津複古会」の会長のコメントが面白い。
「会津の人たちにとって米沢を訪れるのは一種のあこがれにも似たところがあり、米沢にいけば米沢牛肉を食べなければ訪れる甲斐がない。会津は馬肉文化だから無理もないことだが、牛肉を賞味するに値段が張るから余程の余裕がなければ行けないのが米沢だよ。それに比べると米沢の入たちは一杯500円の喜多方ラーメンだけで会津観光の気分になる」
 観光客の動向は米沢牛肉5000円と500円のラーメンとの差にあるという。考えてみれば、こんにゃく番所の隆盛の基礎は1串100円のこんにゃくであり100円で観光気分が満喫できることにある。

 民宿の始まりは長野県であると聞いたことがある。なるほど何処にいっても民宿の設備がある。最近の値段はさだかでないが、数年前までは一津5000円と決まっていたものだ。温泉つきもあれば馬籠妻籠のように桶風呂のところもある。故郷の郷愁を求めて多くの観光客が長野県を訪れるのには、日本アルプスに代表される山岳美もあろうが、松本市を中心とした文化発祥と文化を守りぬく県民の美意識とが相俟って人たちの心を誘う所以なのであろうか。
 岐阜県境に位置する馬籠から妻籠に通じる山道「旧中山道」は、今も多くのハイカーの健脚によって散策され、島崎藤村の名作「夜明け前」も歩きによって理解されているようだ。
千曲川旅情の歌で知られる小諸城の近く、有名な「佐久の鯉料理」は米沢の人たちには頂ける代物でない。はっきり申して味覚に問題があり不味いのだ。会津の鯉料理も甘すぎて米沢人にはなじまないようだ。
 米沢人だけの味覚の問題じゃなさそうで、川魚はドロ臭いものだとする都会の人にすら米沢の鯉料理は絶賛されているのがわかる。このように米沢市には味のABCとしての特産品がある。リンゴはともかく牛肉と鯉料理は米沢市の推奨特産品として誇れるものである。したがって、米沢の特産として気軽に何処の店でも賞味できる方策を考えてみることも大事なことであろう。
 隣の福島市を訪れてみて驚くことは、市内の大部分の家の軒先まで果樹栽培が行なわれていることだ。鑑賞用の庭などは勿論、松の大木などは見あたらない。その点では地場産業との取り組み方に相違が見られる。

 天高き秋である。米沢を取り囲む山野には秋の産物が豊富に実る。松茸などの高級品は別だとしても、山形市が全国に知らしめている「山形の芋煮」を雑キノコと米沢牛の切り落としを使った「芋煮」を提供することも考えてよい。
 現在は企業による団体慰安旅行が衰退したことによって熱海温泉を代表とする大型保養地が壊滅するご時世である。小銭を得ることに力点をおいた観光事業がこれからの成功につながるものであろう。全国的にみて米沢周辺の温泉地はあくまでも日本の田舎である。ならば、角のくたびれたマグロなどの刺身よりは「幻のいわな」や「鯉料理」などを主流にする必要がある。
 数年前、奥飛騨の多層民家の炉端でもてなしを受けた「いわなの塩焼き」は旅情をさらに深めてありがたかったし、笹川の流れで食べる「岩かき」の美味さは格別なもので、そのために多くの観光客を誘客している事実に目を注がなければ観光行政は成立しないものだ。
 前述したが「うこぎ料理」や「鷹山公の結婚祝い膳」などの復元や開発もすばらしいことには違いない。だが、それを以て観光の振興に役立てようとする考え方には馴染めないものを感じる。米沢を訪れる観光客の全てとは言わないまでも、日本の田舎町を米沢地方の産物に触れて、かりそめの時間を「癒しのため」来られるものだと解して間違いはないものであろう。
 土地の産物といえば飯豊町の道の駅「めざみの里」で気づくことは観光客の多くは「地場の産物」販売コーナーを独占していることだ。
 一の関は「餅文化」であることから祝い膳には必ず「あんころ餅」がつく。しかも餅膳は市内各地で簡単にお目にかかれて、餅の種類は地元で捕れる川海老をはじめ十数類の餅が気軽にいただけるという定着した観光地である。
 米沢が誇れる産物には何があるのであろうか。改めて熟慮してみる時ではあるまいか。
テレビでの放映で新高湯温泉が極付け温泉だとして姥湯とならび称されているようだ。白布温泉は名物の茅屋根旅館が焼失していつもの賑わいがないように見えた。観光行政を司る観光協会をはじめとする会議所や行政などの視点は「海ならば鮮魚」「山国ならばいかにすべきか?」を自問自答することからはじめなければなるまい。
 米沢市が山国である以上、解答は見えているはずだ。小国町の森林組合では春の「わらび・ぜんまい」からはじめて、秋の「キノコ」販売まで一軒の売店で億に達しようとする売り上げをしている事実をどう考えればいいのだろう。
 飯豊町営の一軒の旅館と新装なったホテルのメニューは明らかに田舎を意識したものだ。また一方でホテル側は大船戸の網元からの直送による「新鮮な海産物」も目玉にして客の満足を策している。それに加えて郷愁をそそる「ドブロク」の醸造が認可されているという具合だ。ドブロクの認可によって都会どころか置賜地方の集客もある。
 そば屋一軒すらなかった椿地区に、中津川から進出した「ガマの湯」の繁栄によって椿の町がよみがえった事実。その発展の秘密は「酒宴」から、個人の「小あがり客に癒しの場」を提供することに努力されたことにある。無論、流行の「足湯」もあるが小額の「野菜そば」も用意してあって、住民の憩いの場所になっている。
稲田の中に不似合いとも思われるホテル形式の旅館の建物がポツンと現れて人の目には異様な風景のように見えるのだが、米沢から訪れる客も意外に多く、名物の「クマ鍋」や「ドブロク」「田舎料理」を求めて一夜を過ごす客が多いのだ。
 はっきり申しあげて、米沢市の奥座敷と称される小野川温泉の膳には「田舎の産物」が不足していると感じた。とはいっても年に数回しか訪れることはないから極端な感想かも知れない。が、どちらかというと、何処にでもある町の旅館という雰囲気から抜け出していないようだ。
 料金にもあるだろうが、田舎を彷彿とさせるイワナやヤマメなどの川魚の塩焼きや刺身などはお目にかかったことはない。以前はどこの旅館でも鯉の甘煮が膳に乗ったものである。旅館独自で調理したから、甘煮には旅館各自の味覚が楽しめたものである。その楽しみが旅館から消えてしまったのだ。
 昔は旅館のご馳走が最高のもてなしだった。が、現在は交通輸送の短縮によって、どの家庭の食卓にも望めば山海の珍味が並ぶご時世である。旅館に出掛けてまでご馳走にさずかることもない時代を真摯にうけとめることが繁栄の第一歩になるのではあるまいか。
「米よし」「山菜も川魚も豊富」「温泉の湯質は100%で混入なし」これら3種の神器を兼ね備えた小野川温泉・白布温泉であるはずだ。そこに都会に疲れた人たちや田舎思考の人たちを誘致する舞台は揃ったはずである。
 そこで何の産業であっても、市民に支持されない産業は衰退の一途をたどるものだ。あの米沢織りの衰退は技術にも乏しいものがあったが、一に市民の支持に乏しいものがあり、加えて織元の高慢さが市民の反発を増幅したことにある。市民のだれもが「米沢織を身につけようとしなかったことに加えて、他産地からの購入こそがステータスであったことに帰する。 不思議に市内の呉服商すら米沢織りを店頭に飾ることがなかったことである。

不景気風に吹かれ「ゴミ」もでない?

kage

2005/09/17 (Sat)

不景気風に吹かれ「ゴミ」もでない?

 「小さい政府」を標榜した自民党が圧勝し、マスコミはさかんに小泉戦略をして織田信長に重ねて論じている。
かつて政界には「加藤の乱」があり失敗におわっている。永田町政治を戦国時代になぞらえて「小泉革命」だとして語りつくしているが、この度の自民党の躍進は「革命」はなく政府を担当する首相の当たり前の仕事なのである。
 官民所得格差の広がりは予想をはるかに上まわるもので、人事院は今こそ国民が納得できる官民格差を是正するよう「公務員の給料」にメスを入れるべき時ではあるまいか。
公務員の給料を上げるだけの人事院では国民の政府への信頼を失ってしまうものであろうから。

 福島の「古紙・鉄材など」の買取業者がいう。「不景気になるとゴミすら出なくなる」と。まず、古本類を筆頭に古新聞紙さえも少なくなってくると語る。
 さて、米沢市の場合。数年前までは特定の業者に高額な「収集運搬料」を支払い、タダでその業者に呉れていた「再生資源物」は、本会の提唱によって「古紙・空缶鉄材」などは、米沢在住の買取業者に「見積もり合わせ」をして売却し市の収入となっているが、いまでも不当に高い「収集運搬料」は払い続けて、今年から更に「分別作業料」をも追加費用として出費している。

 ところで、再生資源物の売却については「1年を4期に分け、3ケ月ごとに買取業者を見積もりによって選定」。最初の3ケ月は北関東通商が買い取り業者に決定し、作業がすすめられたが、収集運搬に問題があることと、見積もり合わせに市から提示された数量の半分しか総量がなかったことと、競争相手業者側が収集運搬を担当していることから、古紙の分別にトラブルが絶えず商品もならない収集の実態をめぐり、未だに解決を見ないような有様のようだ。
 さて、収集側業者の巻返しによって、2期目は収集業者側が買取業者となったが、収集・分別についてトラブルもなく、3期目の買取業者は再び北関東通商に決まった。
 そこで、市が提示した古紙総量に再び激減が見られるのであれば、市が任せっぱなしでいた再生資源協同組合が計量し、行政に提示した総量に疑義の念がわいてくるというものだ。過去の計量に市の担当者が一度も立ち合わない総量であるから、協同組合は総量をカサ上げして市に報告し、それに見合う報酬を授受していたのではあるまいかとの疑いが生まれてくる。
 そう考えてこないと総量2分の1という資源物の激減が納得できなくなる。減ったといっても他市の場合は微々たる数字の減量にすぎないのだ。
 したがって過去の総量は信用するに足らない。そこには協同組合のカサ上げかという疑問とともに、見積もり合わせによって示した買取料と、昨年度協同組合が米沢市に支払った競争なき買取料との間に多大な開きがあることから、昨年度一年間の差益は山形古紙回収が得たことになる。
 「競争原理が働くこと」と「単独業者一任」との間には、年間を通してみれば想像を絶する開きが出てくるようだ。米沢市の担当課はその差をどう理解しているのであろうか。
 その差を追求するために鬼の会は再び「住民監査請求」を起こす考えである。監査委員も代わりよもや前回のような無責任極まる監査はしまいから、市民が納得できるような監査報告書が出されることを期待するものである。
 監査委員会の金沢局長が「私が裁判官だッ!」とわれわれに吠えたように市民を愚弄するような態度に出たら、本会は局長の罷免運動も辞さない覚悟で対決することを記しておく。行政は主権在民を標榜するならば、専門的知識に比較的乏しい市民に向かって大上段から威張り散らす態度はいかがなものであるか。本会も再度の提出である。理不尽な態度に屈するものではない。

市民の知らない「アスベスト」使用の実態

kage

2005/09/16 (Fri)

市民の知らない「アスベスト」使用の実態

 アスベスト被害が問題になっている。
米国の空母エンタープライズが横須賀に寄港したのは数年前のことだ。が、寄港した目的を国民には知らされていなかったはずだ。
空母が寄港した訳は、アスベスト駆除作業にあった。その時点でアスベスト被害が出ることぐらい行政は熟知していたはずであり、口を噤み惚け通した行政官僚の責任には重大なものがある。
 ところで一般家庭におけるアスベストとの関わりは、風呂場の煙突の大方はアスベスト製品が使われており、魚焼き網の底板(白い断熱板)はだれしもお馴染みの器具である。
底板にこそ恐るべきアスベストが使用されているのだ。

 ところで、行政は口を噤んで発表しないが、水道本管にアスベスト管が使用されていることを知っているだろうか。
水道工事では鉄管を使用するより、アスベスト管が経費の上で3分の1程度に収まる為、行政では、75%ものアスベスト管が未だに使用されていることを突き止めた。

 米沢市の水道部に実態を訊ねたら、職員が次のようにコメントしてくれた。
米沢市では現在、アスベスト管が便用されている距離は約2キロメートルです。以前は約20キロメートルが使用されていました。しかしアスベスト管は安価だが鉄管に比べて強度が低いということで数年前からアスベスト管は使用せず鉄管だけにしております。
 問題のアスベスト管を使用している箇所は、鉄道線路が跨ぐところで、わずか2キロメートルだけだとはいえ工事は難関になりますが、善処方を検討しているところです」

 米沢市の場合、アスベスト管と鉄管を選ぶ時点で、幸いにも強度を問題視したが故に難を逃れたというべきだろうが、実態は本会もわからない。
 大方の市町村ではアスベスト水道本管の駆除に頭を悩ませているという。まず、家庭においては「魚焼き器」をもう一度見なおして使用されないよう申し上げる次第。
行政の無知と対応の遅れが、市民の命さえも奪う結果となるアスベスト問題だった。

監査という「いかがわしい」権威

kage

2005/09/15 (Thu)

監査という「いかがわしい」権威

 カネボウの粉飾決算に加担して投資家をゴマカシつづけた公認会計士たちの所属する「現・中央青山監査法人」の違反行為は許されるものではない。
この法人は過去にも倒産した「足利銀行」の監査も請け負っていたという。本来、監査役とは権威のあるものであった。が、ここにきて監査人が必ずしも信用に足る人物ではないことが判明した。

 米沢市にも監査委員会という局が配置されて、民間選出の監査委員が一人・議会選出の監査委員一人と、事務を担う市職員によって構成されている。
本来、選出された監査委員2名によって監査報告書が作成されるべきところ、全ての報告書は補助職員の金沢局長の手によって作成されているのが実態である。
したがって、監査委員に質問しても「監査報告書を良く読んでいないのでわからない」などと奇妙キテレツな通事が返ってくる始末なのだ。
民間選出の委員も議会選出の委員もそれぞれに市から、しっかりと報酬を受けている委員であるが、その仕事の大部分は補助職員の手によって行なわれているのが現実である。
そして、委員自らが捺印する報告書は、補助職員の局長により作成されたもので、完全なメクラ判報告書であることがわかった。

 天下の公認会計士らが監査した報告書は信用のあるものに違いない。と、国民のだれしもが疑いの目を向けなかったに相違ない。ところが、その信頼さえ反古にする公認会計士たちである。
 報道によると大企業に関与するほど高額な報酬にありつけることから、営業に奔走する彼らであったという。
カネボウの粉飾決算についても公認会計士たちの「粉飾逃れの策」を授けていたというから、国民の信頼も巨額な報酬の前には何んの価値もないのであろうか。
 ここまで、わが国は腐ってきたのである。歴史が示すように腐敗はトップ官僚や政治家からだとされている。
いわゆる権威ある者たちの我欲を発端として国家は腐敗をつづけるものなのである。
「水戸黄門」が相変わらず高視聴率をつづけている裏には、権威ある為政者の悪政に対する漫然とした忿癒がいまだに残されているからであろう。
 開票まではオタオタした候補者でも、当選と同時にふんぞり返る態度を見てもわかるように、彼らの第一義は「国民や市民のために何をなすかではなく、自分が出世栄達するにはどうすべきか」に極論できる。
 何遍も主張するが「個人情報を新聞社に漏洩した市職員」を、首長の責任において追求し処分できないのか。
 職員が某代議士につながる縁戚関係にある人物であるからか?
行政も議会もおしなべて某代議士の権威の前にひたすらにひれ伏すしか方策は浮かばないというか?
 こんな腰抜けトップや、議員であるならば選挙時に示したあの公約は何んであるのか。実行する気概も勇気もなく当選する手段として、有権者に「見かけだけはおいしい」嘘八百を公約だと並べ立てる各種議員諸君を、おしなべてペテン師集団だと極論されても反論はあるまい。
 政府首脳が選挙中に隠しつづけてきた「増税」や「消費税の値上げ」について衣の下に隠してきた鎧姿を国民の前に披瀝するのは近いことだろう。
官僚の実績と数字の前に一言もない議員たちである。官僚の知識を凌駕する政治家が今までに一人でもおったであろうか。
国民の大半は、主婦が示す家計簿を前に、反発する気概が一言もないのと同意義だとして捉えて問題はないのであろう。

小泉台風がもたらしたもの:失速するのはいつの日か?

kage

2005/09/14 (Wed)

小泉台風がもたらしたもの:失速するのはいつの日か?

 予想をはるかに凌駕した今回の自民党躍進の原因は、参議院での郵政法案の否決により、常識的には奇襲と言われる、小泉の衆議院解散にあったと思う。
 法案反対の旗頭にして自民党の実力者、亀井静香氏は「解散などありえない」と豪語するも、自民党公認をはずされ、政治にド素人のホリエモン氏の肉薄に冷汗をかいたようだ。
「政治の世界において一寸先は闇」を地で示した小泉自民党の作戦勝ちであった。
が、自民党大勝利の陰に懸念されるのは、ナチス台頭時のドイツ国民の悲願「強いリーダー」の出現であったことにある。
官民格差が広がり、国民にそっぽ向かれた国保が意図するところは、政治不信によって国家に寄せる国民の不安でしかない。
国民の多くは理屈抜きに「強いリーダー」を求めていたことにある。小泉台風を支持した国民は、ともすると「強すぎるリーダー」の独善に警戒の目を常にもたなければナチスドイツの二の舞や、再軍備論などの復活に巻き込まれる危険性がないとは断言しにくい現状にある。
 議員は選挙によって淘汰されるが、官僚の首は不都合だからといって政治家といえども簡単に鉈を振るうわけにはいかない。ここらに官僚の奢りと族議員の増殖があり、日本の政治の非弱さがあるように思える。
今回の選挙戦では、官僚による「財政投融資」の失敬に果敢にメスを入れる議員は皆無だった。
簡易年金保険・郵便年金積立金などを運用して起こした政府事業ではあるが、失敗の責任をとる官僚や政治家は一人としていないのは何故だ。
 政治家の全身全霊を貫くのは「勝てば官軍負ければタダの人」なのである。政治を志す人は「タダの人」だけにはなりたくないのである。だから、口が裂けても「自分に不利になることは喋らない」のが鉄則なのである。
そして可能なかぎり責任を他に押しつけて回避し、正常な社会人にあるまじき行為が平常心で実行出来る条件を備えていなければ政治の舞台で大成できないのである。
「オレでなければ」と、最初から奢りが優先する立候補である。
多くの議員は土俵際でふんばる力もなければ勇気もない。それを小泉台風が見せたのである。国民の期待を独占するにはあまりある小泉旋風であり、土俵際の踏張りであった。
「落選すればタダの人」になりたくない議員たちは、しばらく小泉の顔色を見ているだけにとどまり、ポスト小泉を詮索するだけの議員活動になるのではあるまいか。

 後進国ほど学歴社会をつくり、教育の根源である「家庭の教育」を疎かにするものである。
少子高齢化社会の到来は、とうに予想できたはずである。いまさらのごとく問題視するのはあたらない。社会は輪廻の世界である。
「カーつきババア抜き」を結婚の条件とした時代や、学歴優先の社会を構築した日本の政治態勢である。いまさら捻れた社会構造を建てなおすのは容易なことではない。

 わが国に欠けたものは「家庭教育における躾の重要さ」であろうし、学歴偏重にすぎたバランスを「国家とは社会とは?」の国民教育に力点を移すべきだろうと考える。
若者のだれしもが「青雲の志」に燃えているものである。たとえ学力が乏しくとも、走る・投げる・跳ぶ・泳ぐことに志しを燃やす若者が60年前にはいたものである。
潜在する若者たちの志しを暖かく迎える社会であってほしいと願うこの頃である。
 台風一過の青空は高い。青い空の下で自然と躍動する若者たちの姿が見られるのはいつの日であろうか。

官僚の無策

kage

2005/09/13 (Tue)

官僚の無策

 県の置賜総合支庁観光振興課が主催した「上杉鷹山公の結婚祝い繕」を米沢観光の目玉にすべく米沢女子短大教授をリーダーに、古文書からの料理再現をテレビで拝見した。
 かつて会津地方において柳津の料理研究家が同じように郷土に残っていた古文書から「会津検分役接待膳」を再現して話題になったことがある。
 その当時、福島県内の月刊誌の編集長の立場にいた私は取材を試み、話題の手伝いをしたことがあった。
たしかに一時は話題にのぼり、勢いづいて会津進出をした料亭だったが、いまは見るかげもなく料亭は凋落し「そば」を扱うだけの店になっている。
 古文書による祝い膳の著名なものに辻調理学校が再現した「安土料理」がある。信長が家康を招いて供応した「安士膳」であり、供応役は明智光秀であった。
申し上げるまでもなく供応の失態を咎められた光秀が謀反のキッカケとなったことでも著名な供応膳である。
 いずれの膳の再現も学術的な意味合いにとどめおくべきもので「祝い膳」の再現を観光の振興策に役立てようとするのは、実際の観光実態に無知な役人たちの机上の計画であると断じざるをえない。
「決まった料理屋に予約する」という誠に不便な手続きの上に5000円という値段。先日の「うこぎ料理」にも苦言を呈したが、郷土の「うこぎ料理」を広めるために5000円は観光の振興に寄与するものではあるまい。
「小国川の鮎祭り」や「白鷹町のヤナ祭り」そして「山形の芋煮会」といった千円札一枚で参加されるものが人を呼ぶのであり、一人前5000円也の復刻料理に駆け付けるのは観光客のごく一部を除いているわけがない。

 観光行政を本当に成功させたいと願うのであれば、行政は必要経費だけを拠出して「観光屋」すなわち各地の観光施策に通じた人物の知恵と知識を借りるべきであろう。
たんに行政の仕事だとして実にもならない上杉の復刻料理をもって観光客を呼ぼうとする根性が官僚的に見えてならない。
 豪華な食事と豪華な旅館を求める、ごく一部の観光客ならいざ知らず、観光の原点は五百円玉一つの観光でなければ人は集まらない。あくまでも観光客の予算と、何を米沢に求めて訪れるのであるかを分析し、頭に叩き込んでおくことが肝要である。
米沢の上杉まつりは費用が掛からないから人が集まるのである。
米沢は上杉の城下町だとして、期待して訪れた親光客にすれば、期待した城下町の風情はどこにも見当らないと、不満だけを残して米沢を離れるのが実情だとは考えて見たことはないのであるか。

 観光で賑わっている町には、行政の前に民間からのリーダーが存在しているものである。会津若松の観光の事実上のリーダーは会津復古会で、常に行政の前面に立って観光振興のために努力している。
彼らが努力して実現させたのが「大内宿」の誕生と繁盛である。観光は閃光的な一時の爆発では意味がない。地域に根ざした観光とは継続する「癒しの観光」でなければ町の潤いとはならない。
 そのためにはどうすればよいか? 答えは各地の永続している観光地に学びとる以外に方法はない。観光を司る課に配属されたからといって官僚感覚で事を進めようとするところに問題の発展はない。観光はあくまでも一握りの人たちを迎える事業ではないはずだ。

自然の猛威と郵政台風に思うこと

kage

2005/09/08 (Thu)

自然の猛威と郵政台風に思うこと

 フロリダ半島を襲ったハリケーンの凄ざましさや、本土を襲った大型台風の恐怖の爪跡をテレビ画面で見るかぎり、自然の猛威の前には何と非力な人類であることか。
 自然の猛威から丸い地球を護らねばならぬ同じ人類同士が、何が不満で殺戮の日々を過ごしているのであろうか。どのように考えても賢い人間のやることではあるまい。
 置賜地方には台風の来襲もなく、さしたる被害を耳にすることなく、ご同慶の至りだが、他被害地の難渋からすれば、多少の「雪害」に苦情を言うのは慎むべきだろうと改めて認識しているところだ。

 さて「小泉郵政台風」は、「平成維新」と成りうるであろうか。
各党ことばを変えてはいるが、問題の根幹は「公務員の給与の高さ」にある。「小さな政府を作って歳出(人件費)を減らす」というのであれば、なぜ「公務員の給料をカッ卜する」と言えないのであろうか。
「賃金を是正する」方向に向かわず「公務員の人数削減」に力点を置いて論拠をややこしくしているだけのことだ。
 民間企業の実態を見ればわかることだ。本市の八幡原工業団地集まっている大部分の企業は正式社員を減らし「人材派遣会社」を通した臨時社員で成立しているような有様である。この現象がものがたっているのは「給料や社会保険料などの経費負担」が企業を圧迫しているからにほかならない。企業ならずとも家計のバランスを整えるためには支出を押さえるのは当然のこと。バランス感覚を野放しに浮かれてきたのが各省庁の「高級官僚たちと族議員たち」であることに異議はない。
 国民が「年金問題」に不審をもちはじめた最大の原因は「保険庁」と族議員による無駄使いの実態を国民が熟知したからにほかならない。
「道路公団改革」も族議員によってあえなく破壊され、審議委員はムシノコよろしく逃散、猪瀬氏ひとりが踏張っているという情けない有様である。
 各党各自がきれいごとを主張するのも結構だが「公務員の給料」が国の財政を圧迫している現況を国民に問いかけ「公務員の数を減らす方法がよいのか、給料をカットして官民格差を是正する方法」のいずれか国民に選択させることが先決であろう。膿は出さねば完治しないのである、政治家もズルサで固まっているから元凶たる「公務員の給料カット」を言い出す議員は一人もいないところに政治の空白を感じる。

 過日、本会に投書が入ってきた。米沢市議会議員の保険料未払い議員の氏名を報せろというものである。本会は未払い議員がいるのではなく、期日が多少遅れただけで会計締切りまでに完納しているから今さら問題にもならないという見解である。が、本会が許せないのは「個人情報」を新聞社に洩らした担当課の職員がいたことである。
 さらに担当課長は「公務員には秘守義務というものがあります。したがって課から漏れることは金輪際ありません」という返事であり、すべての課員は「ノーコメント」で取り合わないのだ。個人情報を握っている担当課は漏洩職員の追跡調査を行なうどころか、もみ消しに必死になっているのだ。
 議会を主に米沢市民に疑惑を撒き散らして大事件ですら、安部市長は知らぬふりを決め込んで嵐の過ぎるのを待っているという無責任ぶりだ。
 たしかに市民に範を示すべき議員が、国民健康保険料を遅滞するなどは許されることではあるまい。だからといって期日までの不払いというわけではない。違反行為をしたわけでもないから問題にするほうが卑しい。
 一方、知り得る立場の職員が、法を犯 して新聞社に漏洩した行為こそが市民にとって重大な不安材料を与えた人物として処分されなければならないはずだ。が、その不始末に一言の市長の謝罪がないのは、いかがなものであろう。

 かくのごとく、人間の価値判断は頂点に立った時に評価されるものである。常に責任や痛みを他人や部下に押しつけて、自らを一切問わないような人物を首長どころか議員などに選出する市民の資質に問題が問われることになっている。これが主権在民であり民主主義の根幹とされている。
 究極的には、どんな行政不審も首長・議員を選んだ選挙民の責任だということになって帰ってくるのだ。自分の手で投げたブーメランが手元に帰ってくるように、政治や行政マンは法に触れないかぎり責任はとらないものである。仮に法に触れるような疑獄事件に連座した政治家であっても、法務大臣の職権によって逮捕を阻止する逃れ方も用意 してあって、かならずしも国民は平等ではないのだ。
 高級官僚によって操られている政治家がいるかぎり、日本の政治はまさに戦国時代だともいえよう。

 11日は投票日だ。一票に願いをこめたいところだが、心のどこかにあきらめにも似た空虚さに苛まれるのはどうしたことだろう。
 真に国民へ問いかけるのであれば、争点をズラした「郵政改革」という言葉でゴマカスのではなく「公務員の給料」をカットとしなければ日本丸は沈没するのだと、数字を示して国民の判断を仰ぐべきである。政策の本丸という言葉よりは、本丸の本音の中身を国民に示すべきが道理というものであろう。
まず、国民保険制度に不信感を与えた元凶「保険庁」官僚の責任を問い、事によっては処分する厳しさを国民にしめして共感を得ることが先決であろう。
 おしなべて政治家という群像は、有権者という群像から一票一票を積み重ねた当選に足る票で生きている群像である。その場かぎりの実行も出来ない歯の浮くようなマニフェストを恥ずかし気もなく並べ立てる感覚にヘドがでる。
政治(まつりごと)に携わるに適した人物とは「責任と人間愛」をもち「広い視野」をもった人物であらねばならない。
 常に不思議な感覚に襲われるのは「なぜ、政党議員の全員が一斉に同じ方向に一致を見るのであろうか」党の中でも異論があってこそ生きた議員だということに理解できるのだが、野党各党のように党首の命令一下「右向け右ッ!」で右を向くようであれば、そこにもまた議員の資質に疑問が浮かぶ。むしろ、今回の自民党の分製のように党内にも種々の考え方があるのが望ましい党というものであろう。

 本地区の選挙に興味はないが、与えられた範疇でしか民主主義の参加が許されていない以上、それなりに考えて投票所に急ぐことにしよう。

入院もまた楽し

kage

2005/09/05 (Mon)

入院もまた楽し

 約1ヶ月間の入院を経て昨日退院、本日から事務所で仕事開始だ。
さて、国民の関心は衆議院選の開票結果に凝縮されているようだが、この分だと史上最高の投票率が望めそうだ。
入院患者の関心も高く、病院自体でも期日前投票を積極的に呼び掛けているから、患者同士の会話もおのずと選挙が話題の中心のようだが、「落下傘候補」のいる他地域に関心の度合いが集中して、地元の候補者への関心の低いのはどうしたことだろう。

 地元候補者について、ある患者のいうことには、自民党公認候補のエンタケ事務所にはいつものような覇気がなく、運動員は冷え切っている。
支持者の年齢層が高くなっているせいか、若い民主党の近藤に票が食われて伸びる要素がなく、文字通り苦戦を強いられているのだと語る。
それに加えて週刊誌に遠藤苦戦の記事が載ったことで意気消沈しているのだとも語る。
 さらに遠藤陣営にとって最大のマイナス要因は安部三十郎米沢市長が顔を出したことだという。米沢市長の陣営参加によって、安部嫌いがゾックリと戦列を離脱する現象が止まらないのだとも語る。
 それやこれやで候補者の人柄などにまで話題がはずみ「あの候補者の欠点はなんといっても威張り散らすことだ」ということで午後の回診時間がきてお開きになったが、この度の選挙に関するかぎり他市の選挙結果に関心が奪われて地元の候補者にあまり関心がないのだとわたしには思えた。

 退院を前に堤防に出て河川敷のグランドでサッカーの練習をしている高校生チームの練習風景を、病院内では禁じられているタバコを吸いながらながめていた。
サッカーにはズブの素人ながら、テレビで観戦するサッカーとはえらい違いがあるものだと思って見ていた。たとえ練習だとはいえボールに対する集中力に欠けているのはどうしたことだろう。
まず、ボールを目掛けてダッシュする基本的な姿勢が甘い。舞台人の基本は正しく歩くことにあるように、スポーツマンの基本は走ることである。
ボールに向かう瞬発力もなく自分に回ってきたボールを単にパス送りするだけの行為に、若さもスピード感も感じらないまま院内に戻ったが、回診を待つ間もその光景が頭から離れず「米沢は基本的に指導者に恵まれない町だ」と思えた。
知能も体力も同じような高校生なのに、スポーツならずとも何においても劣性な成績に甘んじているのは優秀な指導者がいないことだと思えた。
練習も長く続ければだれもが肉体的な疲労を感じる。その疲労を克服できずに相手チームに勝つことはまず無理なはなしだ。できるだけ苦労をしないで勝利したいと思うこと自体、すでに負けている意識につながるものだ。
これでもかこれでもかと肉体の限界を超え、努力したチームが勝つのである。勝ちためには勝つための根性と「勝つ」という最後まであきらめない気構えこそが勝利を生むものだとわたしは考える。その気構えを育てるのが日々のボールに向かう真摯なダッシュ力と相手に向かう闘争心なのであろう。
無論技も大切な要素ではあろうが、相手を恐れない闘争心にこそ勝機を見いだす要素が潜んでいるのではあるまいか。

 舞台が専門のわたしに、スポーツの何がわかるかといわれそうだが、高校野球をテレビで観戦して、思いあたることは、おのずと目標に差があるということである。
一度は甲子園に出て見たいものだとする球児と、目標を甲子園で優勝することに絞っている球児たちのボールの速さ、ボールに向かうスピード感はまるで違うのである。
それらは卓越した指導者の勝つための理論と苛酷な練習量にあるとしか思えない。

 わたしは舞台の役者に向かって常に言っていることは「少しは人に誉められるような演技をせよ。泣くならば稽古の厳しさに泣け。それが舞台人の心意気というものだ」と言いつづけてきた。米沢での舞台活動は断念したが、そのわけを本音で語れば稽古の苦しさに耐える根性をもった舞台人がいないことに尽きる。