川中島模擬合戦に思うこと

2005/06/28 (Tue)
川中島模擬合戦に思うこと書込みに「模擬川中島合戦」についたご意見があり、小生の意見はと問われたので常日頃考えていることを述べてみようと思う。
申すまでもなく上杉祭りの最大のイベントと捉えた「米沢観光の目玉」であろうが、年々、観覧する客数が減っているような気がする。この原因を探る前に小生が提唱しつづけたことを述べてみたい。
模擬川中島合戦を提唱し指導に汗を流した人は、女子短大の故上村良作教授であり、陰になって支えてきたのは小野栄氏だと聞いている。
上杉行列が終わると、ただちに合戦が行なわれて観光客は「昼食も買物」する暇もなくその点では不評をかっていたものだ。翌年は「おにぎりを売る店」などがでる始末。
そこで時の観光協会長だった浜田氏に「これでは商店街が潤わない」と進言して、現在のように3時間程度の間をとるようになった。この時間が米沢市を潤わせる大切な時間なのだと考え説得し実現させてきたものだ。
さて、模擬川中島合戦に殺戮の非常識論を語られる意見もある。その点については「模擬殺戮」と「平和憲法発布」を重ね合わせて深刻化する必要はどうかと思うわけで、殺戮を肯定する人は誰一人いるわけでもなく、単なる時代絵巻として楽しみ、それが観光の目玉であるならばそれは許される許容範囲だろうと小生には思われる。
今年は京都の時代祭からヒントを得たのであろう「米沢歴史行列」ともいうべき行列もお目見得したが、感心した企画だとは思えなかった。いずれにしても膨大なエネルギーの結集である。が、言わせてもらえば「武帝式」は上杉軍団の全武将が集結した出陣式である。極度の緊張と無駄な刻を省く必要があった。
したがって「少年隊」「槍隊」などのエキズビジョンはなかったであろうし、厳戒態勢で挙行される性質の式典から、当然ながら多勢の警備隊の配置が必要である。観客が即警備隊だと解釈すればそれで済まないことではないが、それこそ殺戮を目的とて出陣式である。
まず、緊張感に欠けるのは残念。翌日の行列は川中島の戦場に向かう行列である。 川中島到着を前にして、今にも崩れそうな脆弱軍団では観光客を楽しませるどころか笑いものにされている。大切なことは殺戮の場におもむく武士の凜と構えた雄姿なのである。
さて、模擬川中島合戦はより効果を出すためには周囲のホリゾントを消す意味から、夜間に照明アップで行なうべきである。篝火も映えるだろうし、出演する武士の数を3倍にして見せることができる。
部分的な指摘だが、槍は「突く」前に「斬る」役割を持った武器だと解釈すべきであろう。見せ場もなく、ただ群衆を動かすだけではドラマは盛り上がらない。それには「格闘技軍団」を結成して普段から「見せ場を研究研鑽」する集団を養成する必要がある。その場その場では模擬とはいえ観光の役には立ちそうもない。
史実よりは現代の解釈に力点をおくべきだと考えるものだ。

「誓願」議会は共産党を除いて採択・新たな疑惑浮上

2005/06/25 (Sat)
「誓願」議会は共産党を除いて採択・新たな疑惑浮上永年にわたって一般廃棄物収集運搬業の許可申請を認めない行政に、業者の「誓願」を是として、本議会は共産党2名の議員の反対を除いて「誓願」を採択、業者に一筋の光明となった。
申すまでもなく議会制度は市民の総意として厳粛に受けとめ、行政に反映させなければなるまい。
長期間にわたる希望業者の運動が一歩も二歩も前進したものと理解すべきであろう。
さて、もうひとつの古紙問題は、買取り業者の入札によって7~8月の買取り業者が決定した。が、本議会に行政が出した900万円の補正予算の謎が重く関係者を疑心暗鬼に落とし入れている。
本会は補正予算の内容を住民監査請求によって精査する準備中だが、ここに奇っ怪な行政との癒着構造が取り沙汰されてきた。
山形古紙回収株式会社が古紙関係の買取り業者に決定したが、明らかに赤字覚悟の高値で落札したものだ。ところが、高値をつけて北関東通商から奪回するには赤字になるであろうことを想定し、前もって補正予算を請求し赤字補填分およびメンツのために策を労したものだろうとの見方が強いようだ。
空缶を圧縮する機械の損料だとか、古紙の保管料との名目をもって行政との交渉があったものと見られている。よしんばそれを認めるとしても現在までそれに見合う支払いを行政がやってきた事実をとらえると、900万円の補正を組む矛盾が疑われて当然だということになる。
たしかに行政担当部課長らの文言をたどっていくと不審な点があまりにも多すぎるのだ。汚すぎる不審な行動・文言が目につく。
本会の運動によって米沢市に年間1億円を超える歳入に寄与したはずだが、担当部課長らの目は小生らを蛇蠍のようにみているキライが濃厚だ。
本会からすれば運動前は無償でくれていた資源物が市の歳入になったわけだから、米沢市から感謝されていい立場にある。ところが担当部課の態度は「余計なことをして、担当部課に恥をかかせた」と迷惑顔である。
これが公務員感覚であり市職員のセクト主義の露呈である。再生資源物をめぐってこれからも理屈に合わないことが多々あると思われるが、その責任はすべて行政の奢りと業者癒着に要因があるようだ。
資源物買取り業者との癒着がなければ、明らかに赤字の出るような価格で買取りするようなことはしないはずである。たんなる地元業者の面子だけのことであればだ。
以上のような疑惑を含んだ補正予算であり異常に高価な価格を提示した業者に問題点が隠されたままでは市民が承知するものではない。一般常識的に考えてみれば、簡単に癒着構造が浮かびあがってくる。市民の疑惑を受けつづける行政であってはならないものである。

「奇っ怪な古紙問題」米沢市の歳入が増加する結構な話

2005/06/24 (Fri)
「奇っ怪な古紙問題」米沢市の歳入が増加する結構な話本日、米沢市庁舎内で7月~9月まで3カ月分の再生資源物購入の見積もり合わせが行なわれた。
4月から6月までは北関東通商が買取り指名業者だったが、担当部が想定した資源物の総量不足が問題となったり、分別がなされていなかったり問題点が多く、損失を補填するために米沢市は相当額の支出をすることになっている。
さて、今回の見積もり合わせで、「古紙関係」は地元山形古紙回収株式会社が最高値で買取業者に指名され、空缶類は北関東通商が落札した。
入札制度を導入したことで、永年、米沢市が無償で提供していた資源物が、いかに高価な資源物であったかが証明された。
そこで新たな問題が浮き彫りとなった。
今回、山形古紙回収㈱が最高値で資源物を買い取った行為は、当社が今まで如何に不当な低価格で資源物を買い取ってきたかを証明する事象であり、米沢市は山形古紙回収㈱に対して当然、過去の不当利得返還を求めるべきである。
しかしながら昨年、当会は山形古紙回収㈱の不当利得返還について住民監査請求を起こしたが、山形古紙回収㈱の利益擁護のみに荷担する吉田一明市民環境部長と、行政の茶坊主「安田道隆・遠藤宏三監査委員」によって却下・棄却という、市民にとっては大変な不利益を被った過去があり、行政が返還請求するとは思えない。
当会は、業者と行政が癒着し、市民に不利益をもたらしてきた不当行為を許す訳にはいかない。
今年も不当利得返還に法的手段を行使する所存である。
これからは競争原理によって資源物の価値が市民に見直され、より多くの歳入となり米沢市の財政に寄与することになる。米沢市にとって願ってもない資源物の活用ということになった。
この様に官民こぞって米沢市の財政のために知恵を出しあい、無駄をはぶき財政再建のための努力を続けていきたいものだ。

市職員は駐車料を払うのが常識。

2005/06/22 (Wed)
市職員は駐車料を払うのが常識。米沢市は県下でも国保税の納入率が最低クラスの水準にある。恥ずかしいことだ。
議員の不払いが市民の話題になっており「払いたくない」という声が高まっているのだという。
それとは別に市の財政は逼迫し、孫末代までの借金が残されているのだという。高橋前市長は退任の挨拶を求められて「私は借金を残したが、地方財政では当然なことで、その借金などは屁でもない」と宣って市役所を後にしたと聞くが、不埒な首長である。
「市が借金で滅びることはない」と意気がったが、彼が常に欲していたのは投票時の票数だけである。
安部市長も二年後に迫った選挙の戦術に頭を悩ましていることだろうが、米沢市民の多くは再選させるつもりはないようだ。いまから立候補を表明している野村研三がいるから、夜もオチオチ眠れないのだろう。
寝不足のせいか行政の中身を統一できなくて行政そのものがスムースにはいってないようだ。市長の性格から側近主義が横行し行政はぎくしゃくするばかりと、職員も語るし議員もその裏づけをする。
そこで市民の声を反映させねばなるまい。市民の不満の声の筆頭は、市職員に無料で解放している市庁舎前駐車場である。ザット数えて駐車場には職員の車が150台註車している。
二三社の例外はあるにしても何処の職場でも社員は自主的に有料駐車場を利用している。大沼デパート然り、銀行、NTTまでが社員駐車料を徴収していた。
財政的に疲弊している米沢市であるならば職員から駐車料を徴収しないのは市民からすれば背徳的行為と映るものだ。
市況相場から1台4千乃至5千円徴収するとして年600万から900万円の歳入となり米沢市の財政を潤すことになる。
20年で1億8000万円の巨額な金を無駄使いしていることと同じことだ。
駐車料も徴収しないで、孫末代までの借金返済が続くとは納得のゆくものではい。
市民よ怒れッ!官の甘えの構造を!そして奢り高ぶる市職員の無知さを。
本会は新たに行政の「奢りの実態」にメスを入れる。
後日、全国的に報道されるやも知れない市行政の恥部である。米沢市民として恥ずかしくもいらただしい思いをするだろうが、無能な奴には鞭が利く。
是正する方法には乱暴な手術を施す必要もあろう。職員の無能が巷間で囁かれているはいるが、マサカこれ程までの無能とは・・・
10日あとには市民の目や耳にとどくものである。

6月議会の民生常任委員会「一般廃棄物収集運搬業」に新たな光明。

2005/06/21 (Tue)
6月議会の民生常任委員会「一般廃棄物収集運搬業」に新たな光明。小島卓二・伊藤亮一・木村政信の紹介議員による「一般廃棄物収集運搬業の許可を求める」誓願が、20日10時より開会された民生常任委員会(菊地富蔵委員長)において採択された。
そして最終日の本会議の議会採択を待つことになった。
環境生活部は、再三にわたる小島議員・佐藤議員らの議会質問に対しても「出す考えだ」と答弁しながら、頑なに「許可申請」を長期間にわたって阻みつづけてきた。
理由は「許可を出さないことは違憲ではない」とした松任市に対する最高裁判所の判決を楯にとって論戦を挑んでいた環境生活部だった。が、最高裁の判決はいわば、その地域首長の裁量で許可を出すことも、出さないことも違憲ではないという判決だった。ちなみに一審二審ともに「許可を出さないことは違憲」だとしている。
環境生活部長は「出さないことも違憲とはならない」とする文言をいまだに許可を出さない楯としてきたのである。もうひとつの原因は既存業者と他市から参じた応援部隊の恫喝に尻尾をまいたことらしい。「我々は市の許可のもとに仕事をしてきた。が、新に許可業者を出すことによって我々が倒産するようなことになったら、市が弁償するという確約を出せッ」激しい恫喝がつづいたようだ。
ならば、誓願の議会採択の暁には洞喝した既存業者に対して、生活環境部課の逃げ場もあるだろう。議会の採択にはそれなりの重みがある。議会採択を蹴るには行政としても市民の総意に逆らうわけだか尋常な理由ではすまないことになる。
ところが、本会(市民団体・鬼の会)が提唱する「従来まで無償提供していた分別資源物を、相場で業者に売却すべきだ」を環境生活部がとりあげた結果、本年度までに業者から4000万円の歳入が実現したことの経過がある。
したがって、民生常任委員会で「自由競争の世の中だ」と述べた伊藤亮一議員の見解は常識的だが、採択に効果をあげたと言っていい。
いずれ、議会の最終日をまって議会の誓願採択の実現を待つより他はないが議会筋では満場一致での採択になる模様だといわれている。許可希望業者にとって暗闇に一条の明かりが点った瞬間だった。
市民は主張すべき時は堂々と主張すべきである。それが民主政治を正しく育てることにつながるのだ。

議員たちの行政革命感覚に期待する。

2005/06/20 (Mon)
議員たちの行政革命感覚に期待する。「公報よねざわ」が米沢市の財政情況を知らせている。無論、正常な財政だとはだれの目にも映らない。加えて、三位一体の行政改革から頼りの地方交付税は絞られて、財政は極端な悪化をみせることは必至だ。加えて孫末代まで市の借金返済を負わせる覚悟の行政感覚なのである。
昔から民はお上の言いなりになったのは、お上の行政にある程度の信頼感をもっていたからに他ならない。 だが、歴史的な指摘によると、米沢市の歴代首長は現在に至まで市の伸張のために策を講ずることなく昼寝をむさぼりつづけてきたことを裏付けしている。
官は民の潤いのために知恵を絞るものである。ある金満家の老人に問うてみた。「どうすれば金を貯めることができるのか?」老人は即座に「入ってきた金を出さないことだよ」無駄を省き、入りを図ることだと理解した。
一般の企業のように行政は同一にはいくまいが、企業感覚で行政を考えるべき時がきたようだ。まず、無駄を省く・駐車場の使用料を職員に負担してもらうこと・アルカデア構想は結構だが、現在は空き地であり、あの土地には膨大な市の財政負担がある。首長の失政だといって過言ではないと思っているが、佐藤病院の進出計画によって、総工費40億円、雇用人数200人の米沢市進出の意志を阻んだのは安部市長の独断だった。
成人式に宴会場を供したり、受け付け時間の延長を図ったり、市民のサービスとはおよそ縁遠い無駄金の支出が多すぎる。合併のアンケートは何だったのだろう。いまもって市民は蚊帳の外におかれたままだ。
巷での市長の評判はことのほか悪く、このまま市長を続けさせれば米沢市は破綻まえに沈没するのではとの不安がメジロ押しに広がっている。
市長ごっこを楽しんでいる場合じゃないよと市民の多くは、選んだ不幸を嘆いているのが現状だ。選挙制度の弊害が厳然として米沢市にはある。
さて、最近報道されている習志野市の場合、ペットボトルを回収して中国に販売するという行政の動きがあり、市民ともども成功していろというニュースに触れた。ところで、本会の提唱が効果をあげ、従来歳入にならなかった古紙や空き缶および鉄材は再生資源物となって、4000万円の歳入になったことは多くの市民たちが知る必要がある。
行政担当部課の英断によるものだが、さらに本会は「買取り業者の見積もり合わせ」を提唱したところ、北関東通商が落札し、このままの高値買取りが続けば、歳入はナント1億5000万円の試算になる。
長年、行政と深いつながりを持った地元業者の理不尽な妨害や嫌がらせは絶えないものの、米沢市の歳入が直接的な増加をみることは確かだ。
本会は市民団体であり利益団体ではない。行政に辛口で提案した結果が市の財政に潤いをもたらす結果となっているが、必ずしも市の対応は良くない。またぞろ、行政に改革すべきことを提唱しつづけていくつもりだが、行政の癒着構造にはあきれるばかりだ。「行政に歯向かって何になる」と戒める声も少なくはなかったが、結果は無償提供から4000万円の歳入になり、こんどは1億5000万円という歳入が見込まれるまでになってきた。市民の提唱を基本に行政と闘いつづけた結果の金字塔だと誉めていただきたいものだ。

高値安定に安息する業種は足もとを掬われる!?

2005/06/14 (Tue)
高値安定に安息する業種は足もとを掬われる!?40年程前のカラープリントの料金はFサイズが1枚70円であった。それ以前は東京仕上げのプリントで200円~300円が相場だった。地方にもラボが出来て、受け付けするカメラ店ではボールペン1本さえあればできる仕事だった。受け付けする紙袋・ラボ往復の集配業務など一切の費用はメーカー持ちだったから、店側は多少の受け付け業務だけでプリント1枚から20円~30円の利益があった。
労働に比してこんなに利益率の良いカラープリント業界に他の業界が眼につけないわけがなかった。まず、ダイエーが参入して35円プリントが社会ブームとなった。
いまでは25円が安定した価格のようである。が、プリント料無料の看板も目立つ。同時プリントで依頼すればプリントを無料にしても現像料で採算がとれるからである。
高値で安定している業界には必ず他業界からの参入が予想されることを踏まえて業を営む必要がある。
心配するのは山形県の「さくらんぼ」業界である。さくらんぼの高値安定策にドップリと浸かりきっていると、多産地からの攻撃があるのは必至だ。
山形県は積雪寒冷地帯だけに設備や温度差において栽培するリスクが多い。仮にさくら前線の早い地域で「さくらんぼ」栽培がさかんになったとしたら山形のさくらんぼ業界が被る損失は甚大なものになるだろう。その対策は考慮しているのだろうか。
福島県でもさくらんぼ農家が増えつつあるようだ。福島市を訪れて見るとわかることだが、市内に空き地などが見当らず注意してみると、どこの家も庭といわず家の周りは「梨・桃」の木が植えられ、趣味を越えた生産が行なわれているのに気がつくだろう。
米沢市内には空き地は見当らないが庭が点在する。疲弊した上杉の城下町に未だに残る豊臣五大老の誇りであろうが、旅人の目には滅びゆく藩の虚勢としかうつらないのではあるまいか。
米沢もさくらんぼの生産地であるが、生産者の鼻息の荒さにはおしなべて強いものがある。
しかし、さくらんぼの主産地とは知られてはいない。すべて寒河江市を中心とする最上の宣伝の巧みさに、一敗地にまみれた格好である。
「米沢牛」の名称を「山形牛」に統一-する動きもあったようだが、かように山形最上勢の攻撃に対抗防備する手段を上杉軍団は講じているだろうか。どうも上杉軍団はそのまとまりの脆弱さから最上軍団に勝ちどきをあげさせているキライが大である。
「対抗せよ」とはいわないまでも、官民一丸となって産業を興すなどの覇気が感じられないのだ。「米沢織り」が衰退し「米沢牛」だけが全国に知られた産物であるならば、行政は米沢牛の畜産奨励に全勢力をあげるべきであろう。
町の食堂にはためく「米沢牛」の旗の数が、実際に米沢牛を扱っている店の数になるように。「天下の米沢牛を食べたが、米沢牛が使われたかどうか、到底米沢牛だとは思えないものだった」期待の観光客の不満が全国に拡がらない前に米沢市が考えなければならない一大事であろう。
市長の評判が全くよくない。無駄な支出をしながら、歳入や雇用の問題を考えるならば佐藤病院の進出を市長個人の趣味にあわないという理由だけで止めていいわけがない。
米沢市の議員や市役所職員も含めて不満たらたらのようである。

博物館は機能しているか?

2005/06/12 (Sun)
博物館は機能しているか?町の文化的施設は、直接その町の顔として文化を語るもので、予算に限りが無ければ、いかなる文化的施設の建造も結構だが、本市のように財政の苦しい町にあっては施設建造にも順序があるように思われる。
小生は「美術館建造運動」として十数年間にわたって収益性を調べながら、先進地長野県を中心に函館まで市民とともに足を延ばした経験がある。
収益性では「美術館」「博物館」「民族資料館」「埋蔵文化財」の順序であり、美術館の場合は観客の回転数が良く採算面において優れている。
甲府市にある山梨美術館の場合、ご存じミレーの所蔵効果でダントツ入場者数は多いが、長野県穂高町にある彫刻陳列の「碌山美術館」も白眉だ。いずれの館も採算性においてすぐれた施設だといえよう。
米沢市は上杉の亡霊に取り憑かれているから「上杉文化継承」は当然すぎるとはいえ所蔵展示室の内容は貧弱である。
一度、入館した人達の感想を聞くと「見るべきものがない」「洛中洛外の屏風のレプリカだけではねえ」「上杉文化の歴史を彷彿とさせる展示室ではない」など、上杉城下町の歴史を知らしめるにはあまりにも貧弱な博物館である。
しかも、収益性は全くゼロに近く、経済的に問題のあるわが市としては誤算につぐ誤算であろう。
併設してあるホールについて申せば、新年度にならなければホール使用の予約ができないことで問題点が残る。新年度とは4月1日からであろうから4月1日のホール使用は出来ないわけであり、それだけホールは稼働しないことになりホール使用料は狭められることになる。
公演日程はホールを予約した上で決めるのが通例であり、そのために年度に限定するなどのホール予約制度は他市には見られない。
展示室の内容の充実もさることながら、施設の役割は市民の文化活動の活性に寄与することであろうし、地元の文化団体の活動計画に支障をもたらしているホール予約制限は全廃すべきである。
展示物は入館者の満足度に応えることが使命であり、公立の施設に携わっている職員にはその感性と努力とが課せられているはずである。
折角の文化施設が建造物だけの内容が貧しい施設運営では「文化の町をつくりましょう」とロゴを掲げた市民憲章が泣くというものであろう。
さかんに市議会議員の各地視察が行なわれているが、たまには文化施設の運営模様だとか、過疎化に悩む米沢市の恥部、シャッター通りの改革に、各地はどうして息を吹きかえさせているかなどなどを持ち帰ってきてほしいものだ。
シャッター通りの改革、博物館周囲の城下町構想など視点をかえれば上杉の城下町は復元でき、観光客の増大は簡単に求められるはずだ。
馬籠・妻籠で代表される木曽路は過疎に代表された寒村であった。一役場の係長の発案で現在では10万人が逗留する宿場町となって伸張している。
福島県奥会津に位置する檜枝峡村は一本の道路が整備された結果、年老いた家族で経営する民宿群はシーズン中たいへんな賑わいで、相当の収入のある村に変貌した。
政治や行政とは勝れた感性から生まれた企画を実行して、住民を豊かな暮らしにいざようことである。
米沢市の行政に期待すること大である。

議会は本来の任務を忘れてはおらないか。

2005/06/11 (Sat)
議会は本来の任務を忘れてはおらないか。6月議会がはじまる。
いま市民の中心話題は「議員の国保税滞納問題」だが、議員仲間内では「守秘義務であるべき個人情報が漏洩した」として犯人探しと、滞納議員の名簿探しにヤッキとなっているようだ。
個人情報が漏洩したことは担当課の守秘義務違反として厳重な調査が必要であろうが、議会は滞納議員の名簿発掘に興味をもち、守秘義務漏洩の原因を精査することは疎かのようだが、市民のプライバシー漏洩につながることだけに守秘義務違反には全力で調査すべきものであろう。
滞納云々はだれにも経済的な理由があり、個人の責任で処理すべきもので他人が問題視するにはあたらないが、市民から選出された議員の場合は「市民に規範を示さねばならぬ立場にある公人」だということであろう。
聞くところによると、議員三役の一役もとれなかった最大派閥が滞納議員のいる会派に対する報復行為だともいわれている。報復は政治の常套手段でもあろうから問題視するまでもないが、滞納の事実を漏洩するまでの過程にこそ問題がある。これだけはウヤムヤな政治決着ではすまされない、市民にとっては重大な問題だ。
滞納問題でぎくしゃくしている場合ではあるまい。本会が提唱している再生資源物の実態を本気で精査すべきで、再生資源物は米沢市の歳入になるという観点に立った上で考えてもらいたいものだ。
市民が分別した再生資源物は、永年に亘って特定業者に無償提供をつづけてきたが、本会の提唱後は4000万円が市の歳入になったことは周知の通りだが、本年度はさらに一歩進んで「見積もり合わせ」となり、年間を通して積算すればナント「1億5000万円」の評価である。
ところが問題が浮上した。
買い受け人は北関東通商(本社・水戸市)だが、実際に集まった分別資源物は、見積もり合わせに市が示した四月の予想数量の半分強であった。
見積もり合わせは4月26日市役所で行われたのだから、当然4月分の収集した資源物の総量は担当者が把握しているはずである。
見積もり合わせ終了後に米沢市が示した総量の約半分の資源物が買い受け人に渡らずに突然消滅したのである。
これだけでも、市民の財産であり、市の歳入となる資源物の消滅だけに犯罪さえも感じるのに、収集運搬を請け負っている米沢再生資源協同組合の収集の仕方は、分別どころか分別不可能なまでの混在で商品にならず「ゴミ」として処分する以外に処理法がないといわれるほど乱雑極まる収集のザマだ。
これに抗議すると「減量分は5月分からの前倒しで調整する。収集の悪さでゴミ以下とされ、製紙会社から拒絶されたための損害金は幾らか? それを米沢市は補填するという担当課の構えだ。
折角、多額の歳入になるべく市民が分別した資源物を収集運搬業者の悪さで売り物にならないゴミにした原因を、市は山大生の分別のせいだと責任を転嫁する。
責任を押しつける前に、契約している収集業者に厳重に指導すべきが正当な論理だと考えるものだが、担当者は当該協同組合側をかばう態度で接するばかりか、なんと収集業者に900万円の割り増しを払うよう6月議会に補正予算を計上したのである。
市の歳入となるべき1億5000万円は協同組合の作業によってゴミに化けてしまう危険性が大なのに、その責任者にお金を払うというのだ。「盗人に追銭」とは正にこの事を言うのであろう。
6月議会は以上の事実を調査して「予定の歳入」実現化を計る義務があるだろう。
併せて、議会に請願した一般廃棄物収集運搬業の許可を出すことによって行政のセクト主義による13業者の高値安定が崩れ、市民の経済的負担軽減につながるための実現方を市民の願いとして議決すべきが急務であろう。
そこではじめて市民が望む公平と仕事の自由化を実現することになる。

Wサッカーに見た「日本人の愛国心」

2005/06/10 (Fri)
Wサッカーに見た「日本人の愛国心」元来、スポーツ競技に縁をもたない小生でも、話題のWサッカーは毎回テレビで観戦している。「オフサイドって何んだ?」などとサッカー用語もままならない小生のことだから、いきおいサッカー場に集まって応援するサポーターなる人たちの歓声の強弱によって味方の優劣を知るだけの頼りない観客である。
君が代や日の丸を否定しつづけてきた日本人たちが、国際試合ともなると特大の日の丸の旗を振り、かなきり声をあげて日本ナインに熱狂的なエールを送り続けている姿は明らかに日本人の混じり気のない祖国観であり祖国愛の発露なのであろう。
戦後、教育の欠陥は日の丸や君が代は帝国主義の再来であるとして日教組に加入している多くの教員たちによって、国家・国旗を廃棄された教育がなされてきた。
したがってそんな教育に染まった青少年たちは祖国意識に乏しく、履き違えた自由主義によってニート族なる意味不明の人種が多発している。
ニート族なるものの俗称は、一昔まではルンペン、江戸時代には浪人者の呼称を持ち、世間からはぐれ者扱いされてきた人種なのである。
生活能力はあっても労働によって汗をかくことを嫌う人種たちであり、はっきり申せば「たかり・甘え」の構造であろうとしか映らない。
そんな群像も含めてサッカー競技場には、日本ナインと見間違うような同色のシャツを着て応援に熱狂する姿を支えるのは祖国観であろうし、愛国心なのであろう。
戦後の教育ではできなかった愛国心は、サッカーという国際競技によって目覚めさせられたものであろう。いかなる教育や政治・法律でもできなかった祖国意識に基づいた愛国心がサッカー競技による国家間の対抗戦によってよみがえったことがすばらしいと思った。
スタンドでの観戦が望めない情況でも他国の競技場に押し掛け、競技場の外にあって応援する姿には文句なく感動し、心配しなくとも日本人であるかぎり生まれ育った祖国日本を愛する心は健全に育っていたことを確認できた2時間だった

いまさら怒り狂っても仕方がないが 「官僚の特質」

2005/06/09 (Thu)
いまさら怒り狂っても仕方がないが 「官僚の特質」「官僚は上に弱く下に強い」官僚は優越感と選良意識に凝り固まっているから、愚かな民衆は自分たちが教導しなければ何をしでかすか判らないと眼を光らせている。
ひたすら頭を下げてくる卑屈なご機嫌取りには便宜を計ってやるが、独立自尊の気概を以て事業を起こすという可愛気のないタイプには、手をかえ品をかえ意地悪の限りを尽くす。
人間にとって痺れるような快さは立場の弱い者を苛めて窮地に追い込む手練手管の陶酔である。一応は合法の埒内をゆき筒一杯の権限を行使して他人を押さえこんだ時の楽しさはたとえようもない。優越感と権限が化合すれば意地悪という毒ガスが発生する。
わが国における官僚組織が如何に国民を圧迫し苛めする本性を発揮してきたかの実情を知るには星新一著「人民は弱し 官吏は強し」(新潮文庫)ただ-冊を読むのみで足る。
政党時代の官僚は中立を守らず、寧ろ積極的に走狗(他人の手先となって働く人)となった。陰に陽に選挙干渉の手筈を講じて政党に奉仕した。
あきらかに国民の投票行動は冷たい眼で監視されていたのである。網の目に包み込まれているという欝陶しい気分が自然に有権者を卑屈にした。
卑屈な姿勢を強いられると人の根性は賤しくなる。それほど雁字搦めにされているのなら、いっそ施しにあずかろうではないか。
もし、当時の官僚が政党に中立を保持していれば、昭和史の趨勢は大きく変わっていたであろう。と、谷沢永一氏は著作「人間通」(新潮文庫)で語っている。
中央官僚には比べようもないが、地方のこっ葉役人にしても体質は似ているものだ。
市民は彼らにとって「あくまでも愚かな民衆」であるに過ぎない。この奢りは税金を食って息をしている怪獣たちには消えることはないのだ。
まず、仕事上でのミスを素直に認めようとしない体質がそれだ。
たとえ市の収入となる仕事上の段取りがあったとしても「休まず、遅れず、仕事せず」の役人三原則を守って、行動を起こそうともしない。
「前例がない」「予算がない」の一点張りで公務は勤まるのである。
「決まり切った報酬だから、余計に働いたからといって収入が増えるわけじゃねえ。それよりも失敗した時の叩きが恐ろしい」と言い訳をし「能力に欠けるから」との謗りに対する防戦を最初から張って構えているのだ。
古紙問題にもデタラメがつづいているが、議員の多くはなぜか腰の引けた対応に、どうも広域にドク饅頭の被害が拡がっているのかと疑問しきり。
議会に「一般廃棄物業」を許可するよう請願が受理されたが、はたして採択がなされものかどうか6月の議会を注視し、ドク饅頭議員とドク饅頭の洗礼を受けていない議員とを区別することが必要となる。
市民の眼で確かめるためには議会を傍聴することだし、6月の議会は市民の注目する議会となるだろう。

「そういちろう」さんの「不倫論」と「公務員論」を考える。

2005/06/08 (Wed)
「そういちろう」さんの「不倫論」と「公務員論」を考える。本会のホームページに書込みが多くなってきたのは歓迎するものですが、少し程度が低いのではとの疑念があります。そこで小生も突然ですが参入させて戴きます。
哲学的にはこの問題は「性愛の話」です。性愛の問題は議論することではなく実践することだと考えていいと考えます。人はあきれるほど性愛を好むものです。直接的いたすことにとどまらず、手段で疑似体験を重ねるものです。性愛という一語から、人間世界をのぞいてみれば、まさに百花繚乱、死臭ふんぷん、国破れて山河あり、というところです。つまり、どうにでもいえるということでしょう。衣食住が人間の生存の三条件のようにいわれますが、性欲がなければ人間は生存していないわけです。人間がきわめて苛酷な条件で生き抜いてこられたのも「いたすこと」が生きる励みになってきたことに論をまたないわけです。実際、貧乏人の子だくさんという例があります。貧しい国には人口爆発があるのですから。勿論、人間以外の生物だってみんないたします。しかし、それは生理現象でいたすので、人間にしても生理でいたすことは事実です。しかし、回数からすればほんのわずかで、つまり人間の性愛は生理作用とは同じではないということになります。人間は「いたすこと」が好きなだけでなく、無制限にいたすのです。無制限ということは無秩序への傾向をつねに秘めているのです。どんな制限や抑圧でも抑えることが難しいものです。だから、野放しの自由な性愛の充足を「淫らなもの」「社会にとって危険なもの」「野獣同然にするもの」とみなそうとしてきたのだとしたのです。しかし、野獣動物を疑人化してみると、まさに「禁欲存在」なのです。必要以外に野獣動物は「いたさない」からです。
はなはだ乱暴な言い方をすれば「気持ちに関係なくいたすことが出来るのが人間」なので、「A」という関係に満足していても「B」という関係が現われたら満足のいかんにかかわらず、新しい関係に引かれてしまう。これが性愛の万有引力の法則というもので逆らいがたい法則なのです。だとしても、すべてを望むことができず多くは一つの実在的関係で一生を終えるのが通常であって、男女のカップルだけでなく、あらゆる組合せで性愛を満たそうとする広大無辺の世界だといえましょう。これが性愛の哲学的な考え方で、「不倫」によって「子ばなし離婚」などのケースは人間界では日常茶飯事の出来事で一々問題視するのはあたらないことだといえましょう。
リオのカーニバルとは「無礼講」を意味し、祭りの期間中はだれとでも自由に「いたせる」祭りだと聞きます。他人のことをとやかく詮索し噂にするのはあなたの世界だけに止めておいた方が無難というものでしょう。
劇作生として意見を述べるならば、世間の常識の範疇では考えられない「性愛」が存在します。だから人間社会のドラマがあるのです。小生らはそんなドラマを書くために劇作に精進しているのかも知れないのです。
社会の常識を十分に熟知しながらも性愛に苦しむ人間の苦しみや悲しみと同時に、社会の常識の壁を越えなければ到達できない「愛」の姿もあるのです。
人間同志のコミュニケーションはどんどん広がりをみせていくものですが、カップルの場合は閉鎖的で二人だけの世界になっていきます。「性愛」はカップルの間ではあからさまであっても、第三者に対しては閉じられる秘密なのです。だから自分の性愛をとくとくと語るのはルール違反を犯していることになるのでしょう。「そういちろう」さんに一言。他人の性愛に興味の目をもたないことだと思います。

米沢市民よ!怒ることを忘れたのか!

2005/06/07 (Tue)
米沢市民よ!怒ることを忘れたのか!三位一体の政治改革によって、米沢市に限らず財政は圧迫の一途をたどるのは必至だ。
したがって米沢市は歳入を市民の税金だけにとどまらず、無駄な出費を押さえると同時に新たな収入を計るべきであり、その最たるものに市民が拠出する「再生資源物」の活用がある。
過去数年間にわたって、多額な資源物の収集運搬料を市が特定業者に随意契約をして支払ってきたものだ。が、支払いに止まらず収集した再生資源物(ダンボール・新聞紙・雑誌・空きビン類・空き缶など)は収集業者に無償で提供してきたものである。
何遍も繰り返すが、無償提供してきた資源物は多額な売却益を生む商品なのである。そこで本会は「業者に資源物の無償提供をするのは止めて米沢市の歳入とするべきである」と主張、本年度は資源物の売却益として業者から4000万円の歳入となった。
さらに買取業各社に入札制度をもりこむべきだと主張、行政の一歩前進的な入札によって北関東通商が買取業者となった。
落札価格はナント3倍強で、市民が分別して集積場に運ぶ再生資源物が一年間で1億5千万円にもなる勘定だ。それを考えるとたかが資源物だといって軽んじるわけにはいかないことが理解できる。
しかし、問題がある。資源物と一口に言っても買取業者にとって製紙会社に売り込む「商品」であり「商品の価値」を高めるためには「綿密な分別」が行なわれているという条件が付帯する。ところが、市民が手をかけて分別した古紙類を収集運搬時に再び混ぜ合わせるなどして分別を困難にしているという事象が起き、買取業者が混乱する騒ぎが現実として起きているのだ。したがってメーカーの買取拒否に遭って買取業者は困惑している。
行政が厳しい態度を収集運搬業者に示せば業者も反省するのだろうが、行政は永年の付き合いからか収集業者に対して甘すぎる態度をいまもって続けているのだ。したがって買取業者に請求書も出せない状態にある。
問題は道理をわきまえない分別にだけあるわけではない。予定した資源物の量が、市役所が入札時に示した量の半分しかないのだ。これには業者が困った。資源物は量によって入札価格によって左右されるものである。当然ながら役所が示した量に見合った入札をしたはずが、入札時の半分の量では買取業者が大損するこしは必定だ。
「不良分別」と「古紙の減量」という2つのはざまで買取業者は四苦八苦しているのが現在の実情だ。業を煮やした買取業者はテレビカメラを持ってパトロールする以外に手はないとしているが、量が減った原因は収集運搬者によって、前の業者に「横流し」している以外に原因が見つからないとして見張りをつけて警戒態勢に入るようだ。
山形古紙回収株としては、前年度まであった収益が入札によって他社の仕事となったわけだ。そこで「古紙の横流し」と「分別不可能な収集」と故意に成されているものであろうと大方の見方が一致している。
確かな分別も出来ないような収集運搬業者ならば「業者を変えても分別収集運搬によって資源物の価値を高め、優位な買取りによって米沢市の歳入をより多くすべき」だとする市民の声もある。
まず、収集運搬業者の猛省に期待すると同時に、出来なければ、出来るという業者に変えても、米沢市の歳入に配慮すべきが筋だと考えるものだが市民はどう考えるのであるか。
市民の不要物が米沢市のかけがえのない歳入になる。こんなに結構なことはないはずだが、過去3年間の収集量を精査して入札したにもかかわらず買取業者が変わった途端に「収集量が半分」になった不思議と「分別作業の不良」によって買取業者に多大な迷惑を及ぼしながら行政の対応は全く前業者側に甘いことは「癒着構造」のそしりが市民の中に取り沙汰されていることに行政も議会も留意されて然るべきものと考えるが、もっと市民の怒りがほしいものである。

議員各位に檄文郵送す!

2005/06/04 (Sat)
議員各位に檄文郵送す!当会の働きかけにより、長年無償譲渡されていた市の財産である「再生資源物」が4千万円となって、市収入に貢献したことは何度も掲載したが、なぜ議員が本腰をいれて事の究明に当たらないのか?議員の立場なら、当会が行政に働きかけるよりも、もっと効果的に無駄な経費を削減することが可能なのではないか。というという思いは募るばかりである。
そこで下記の檄文を議員28名に郵送し、心ある行動に期待した。
平成17年5月30日
米沢市議会議員 各位
米沢市民任意団体
よねざわ鬼の会 代表 鈴木富夫
記
一、 収集運搬の不備により、市有財産である再生資源物の価値が下落している現状の件
一、 6月をメドに一般廃棄物収集運搬業者に対する許可の件
一、 随意契約による一般廃棄物収集運搬委託料の件
趣旨
永年継続的に行われて来た、再生資源物の無償譲渡を廃止し、昨年度からその売上げの全額を米沢市に還付することになり、一昨年度と合わせ総額4千万円が米沢市の歳入となされたことは衆知の通りであります。
さらに今般は買取り業者の随意契約を廃止、数社による見積もり合わせという形式で、北関東通商株式会社が買取り業者に決定いたしました。
ところが、過去の実績を勘案し見積合わせに市が推定した総量は(4月分)428トンであったところ、実際の回収量は推定量の59.5%にとどまりました。
相場は取引量の多少により価格が異なることから、入札時の推定総量より実回収量が大幅に減少することは、買取り業者にとって大いなる損失となってあらわれてくる性質の物件であります。
何故、市が推定した総量から、50%になんなんとする大減量が生じたのか? さらに古紙は分別の精度によって高価格が保証される性質から、収集運搬時から分別に留意する必要が課せられるものであります。
実際には、米沢市が随意契約によって永年収集運搬を依頼している業者による収集運搬行為は、市民の分別を無視した混在回収によって、売却不可能なゴミクズとなり、同封の写真が示すように、買取り業者の倉庫に山積みされているのが現状であります。
推定総量を大きく下回った回収量の謎解きと、不良回収の是正方が要求される急務であります。行政の怠慢は議会が律する義務があると考え、さっそく調査方を切望するものであります。
業者が求めている「一般廃棄物収集運搬業の許可」については、昨年度の6月議会において小島卓二議員の質問に、吉田環境生活部長は「許可を出す方向で考えている」と明言いたしております。
さらに本年1月、「一般廃棄物収集運搬業の許可説明会」と称して「許可」を渇望する業者を集め、吉田環境生活部長は「6月をメドに産業廃棄物の許可を持った業者に絞り許可する考えである」と答えて参集した業者に希望を持たせたものでありました。
しかしながら、6月を直前に控えて「クリアしなければならない法の問題点があるので、それまでは許可を出さない方針だ」と担当課長補左が本会に向かって明言しております。
巷間では、説明会が市広報誌に掲載されるや、それを阻止しようとする既存の業者13社がこぞって「許可業者が増えれば事業の存続に関わる重大な問題である。米沢市の許可を得て展開している業務だ。市が許可業者を増したために倒産したら米沢市が責任を取るか」などと担当職員に激しく抗議し、さらに当該業者組織から上位組織幹部の応援を得て、担当職員たちに「缶詰め抗議」を展開し、食事もとらせない長時間にわたる抗議がつづけられ、中にはヤクザまがいの桐喝も繰り返されたと聞いております。
業者団体による集団抗議が直接要因となされたかどうかは不明ではありますが、担当部長による議会での文言であれば米沢市長の約束事であり、担当補佐の文言だけで軽々しく翻意出来るものでは有りません。
これは甚だしい「行政の議会軽視」の事象であり、議員としては、議会の誇りをかけ断固たる態度をもって事実の究明を成すべき責任があると、本会は一市民として考えるものであります。
行政がヤクザまがいの洞喝に狼狽えて一々方針を変えるのであれば、もはや行政に対する米沢市民の期待や尊厳は失われたのも同然で地に墜ちた米沢市になることは必然でありましょう。
家庭より排出されるごみの収集運搬において、本市は民間業者に委託しておりますが、その委託料は年間2億5千万円を超える額にもかかわらず、毎年特定の業者へ随意契約という形で発注されております。
昨年、当会は「随意契約による契約額の高止まり弊害」を指摘し、当局に改善方を申し入れましたが「妥当な額と考える」旨の返答でした。
ならば、その根拠を示すよう当局に情報の開示を請求したところ、なぜか頑なに拒み続けましたが、ようやく情報保護審査会の答申により「妥当な額と考える」根拠となる資料を入手することが出来ました。
その資料は、運搬の伴う業種である建設業の歩掛かり等に比べ、あまりにも簡便なものであり、とても当会の疑問を解消するものではありませんでした。
当会が、関係類似業者からの聞き取りや、建設物価等の資料より精査したところ約30%、金額にして年間約7千500万円の経費節減が出来ると試算致したところであります。
マスコミ等により、随意契約の弊害が広く市民に知られ疑惑の目が注がれている今日、早急に調査検討する課題かと考えます。
本市議員の税金未納問題が報じられ市民から議員の資質が問われている今日、願わくは米沢市議会による、厳しい行政監督の目で、行政の不合理を是正させるための追求調査を欠かさない、市民に信頼される議会議員であってほしいものと渇望するものであります。
蛇足ながら、本会の提唱と追跡調査によって「資源物の無償譲渡」が改められ、合計4千万円が本市の歳入になったことは喜ばしい結果となりましたが、本来は市民がやるべきことではなく、市民の負託を受けた議会議員の成すべき仕事であったものと結論づけておるところであります。

「困窮に耐えるのが美徳」か?

2005/06/01 (Wed)
「困窮に耐えるのが美徳」か?今朝の毎日朝刊やまがたワイドに「私の山びこ学校」、こんな教育があったとして佐藤藤三郎氏のエッセイが掲載されていた。題して「私の芽を摘んだ鷹山公の教え」
筆者は父の教えの「身分不相応」という言葉が私の芽を摘んだと言っている。この言葉は上杉鷹山公の信条であり藩民への教えであったと結論づけている。
上杉藩の財政建て直しのために徹底的に厳しく「身分をわきまえろ」「慢るな」「上をむかずに下を見て暮らせ」と教え導いてきた。その教育の徹底ぶりは見事なものだった。
私は「窮乏に耐えて生きることが美徳」とするその教えにはいつも反抗の念をいだきつづけてきた。農業だった私の家庭は貧しさゆえに定時制高校に入学させることさえ父は許さなかった。「農家の倅に学問は不要」という父も学問を積んではこなかった。
時代は変わって「身分不相応」などの言葉はもはや死語になった現在、それよりも村全体に子供がいなくなって村の存続すら望めなくなっている。それは鷹山公の教訓によって「身分不相応」なる言葉が藩民全体に根強く生き残ってきたせいか学問不要論が「身分に相応しない」として青雲の希望に燃える青年達が村を捨てたことにつながる。
したがって後継者不足によって山国の農家は立ち行かなくなっている。鷹山公の「困窮に耐えるのは美徳」とした教えの明らかな裏返しであり、その教えの徹底さが藩民の心に残っていて、「美徳」さを守りぬいた村人たちの「村」さえも消えてしまう悲劇を迎えようとしている現実があるのだ。
米沢市の人口流出にも鷹山公の教えが要因となっているキライがあるようだ。要するに米沢市は活気に乏しく暮らして面白くないところだとして青年達に嫌われているかと思えば、老人たちも核家族のために豪雪に耐えきれず米沢を離れたいものだと願っている。
「困窮に耐えろ」が鷹山公の教育方針だとしても変遷する時代の波は容赦なく市民に経済的な不平等感を増殖していき、ますます米沢離れがつづくようになってくるとしか思えない。
議員による税の滞納をマスコミにスッパ抜かれ、市役所は「事実関係が定かでない」とお茶をにごす。三位一体政策によって米沢市の財政は逼迫し「予算がないから」と決まり文句で市民サービスは低下するばかりであろう。
まず「入りを計り、出るを締める」のが本来の市役所の仕事であろう。その観念が市長には薄い。
佐藤病院の進出を阻み、相も変わらぬ随意契約による無駄使いなどなど。失政にはこと欠かない米沢市の実態だ。これは市民の選択だから致し方ないとしてもリーダーに不適当な人物であるならば市民の手で変えなければなるまいが、市民にその勇気もあるまい。お上に逆らう者は「右翼だの、左翼だ」のと決めつけたあげくのはてはヤクザまがいの詐欺師扱いする市民性だ。
そんな風だから米沢市は「死への町」のそしりさえも受けるのだ。
小生らの運動成果として米沢市が本来無償とした古紙を売却することによって本年度収入として4000万円が市の歳入となったが、本会を危険視する市民性とは鷹山公ゆらいの教育であったろうか。

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