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「日本人」氏の書込み「判らない」に答える。

kage

2005/03/25 (Fri)

「日本人」氏の書込み「判らない」に答える。

 3月22日に書込みされた「日本人」氏の書込みは「原社長の文脈になるんだ」とあり「私にも判る様に教えてくだされ」であった。

 本会が追求する、行政による再生資源物の収集運搬事業に関連する再生資源の処理方について、行政の明確な返答を得られないばかりか、行政の回答に虚偽の事実があり、行政に監督責任のある「再生資源協同組合・原理事長」の違反行為などが露呈、行政も違反行為を是認し、マスコミもそれを報じているのだ。
 原社長の名前が連記されるゆえんは「再生資源協同組合は利益を米沢市に還元する」との契約がなされている、当該組合の理事長の立場にある時の人だからだ。
 また原社長は協同組合理事長の立場から、協同組合が収集運搬してきた古紙類の売却先を原氏個人が経営している「山形古紙回収株式会社」に市況相場の46%という超安値で売却していることにある。
 したがって、当該協同組合があげるべき利益が著しく損なわれてきたということは、米沢市民にとって長年にわたり損害をこうむってきたということになる。
 米沢市民が失ってきた分の売却益は当然ながら原社長の個人会社「山形古紙回収」の利益になったものと考えられる。
 そのようないきさつから、原社長が度々古紙問題になると登場せざるを得ないというのが実情。このあたりの明確な説明が原理事長からなされてないことが疑惑をさらに拡大するというわけ。

 この問題については行政側も本気で問題を解決するつもりは皆無であり、わけのわからない返答をするだけで、行政そのものに大なる改革が必要となってくるわけです。
 米沢市に限らず行政というところは市民の指摘に目を向けようとしないところのようです。市民が問題を本気で対処しようとしても、行政には逃げ道が縦横無尽にあって市民が是正するには大変な時間と法律的な知識と金額を要するものだということです。

問題の根源は市長の資質いかんによるものだと考えられる部分が多いのです。

梁沢地区の最終処分場建設反対に思う

kage

2005/03/24 (Thu)

梁沢地区の最終処分場建設反対に思う

 小野川温泉組合のおかみさん達が「処分場建設反対」の署名運動をしている映像を見て思うことがある。
 反対理由は「最上川源流を汚すな」である。確かに汚水の垂れ流しが心配されるだけならば「排水の管理」に重点を合わせるべきで、現時点では処分場からの排水問題で汚染されていると指摘された河川は皆無のように記憶している。小生の認識不足なのであろうか。最上川の源流地区にありながら、10万市民の下水道の最終排水口は最上川源流であることを考えると、当該河川の沿線に連なる市長村全部の排水口となって酒田に至ることから酒田市の飲料水は論外だということになる。
 しかし、酒田市が供給している水道水は最上川本流からの引水である。したがって、梁川の最終処分場の反対運動の核は「厳重な眼で排水管理を見守る」運動に的を絞るべきである。
 どこの地区においても「斎場と最終処分場の設置建設」には反対運動が起こりやすいものだ。それが必ずしも住民の反対によるものではなく一連の政治的運動や経営権をめぐる経済的な理由が河川汚濁という闘争の原因を生んできた。

 ジークライトの最終処分場建設に真っ向から反対した福島の住民達は今では平穏である。 思い出すのは相馬中村市の「斎場」建設に反対表明した共産党の市議の策謀によって、建設地が二転、三転し、結果は住民闘争に発展マスコミの餌食とされていた。
 行政はだれもが嫌がる斎場の建設場所を人里離れたところを選ぶ。したがって、斎場までの道路を確保しようとするが、道路予定地には地権者が多くいる。多数の地権者をオルグして反対運動を繰り返す。これが相馬中村市の斎場建設をめぐる政治闘争となったものだ。
 中村市に斎場がなかったことから斎場は隣町原の町市の条件つきで斎場を使用させてもらっていた。条件とは斎場使用料は倍額の料金で、使用は午後からと決められ不便をかこっていた。
 そして斎場建設の声が盛り上がり、共産党議員の政治的活動の場とされてしまった。
 そこで県道沿いの地権者が他の地権者の邪魔を排除するため、建設地を提供、闘争の具とされてきた斎場までの取りつけ道路ゼロ箇所に斎場の建設が成立し現在の中村市の斎場がある。

 だから同じように政治的・経済的理由の具とされない処分場を冷静に考えてみる必要がある。各家庭に便所があるように最終処理場は文明が必要とする便所である。必要なことは言をまたない。が「オライの地区でなければええだ」とする他人ごとだけではすむまい。 住民闘争を起こす前に「現場から排水される水質」に眼を配るべきものだと思われる。

 斎場・区画整理事業などとおなじように、最終処分場の建設は住民達が納得されるような未来像を示し、説得に汗を流さねばならないものだ。 当該企業も主力バンクも成功させるためには、化学的な根拠に立脚した説明を怠ってはならない。反対住民もまた反対するには化学的な水質汚染の実際を示しながら反対運動を続けるべきものだと思われる。

少年遊びやすく 学成り難し!?

kage

2005/03/19 (Sat)

少年遊びやすく 学成り難し!?

 財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」の調査によるもので昨年秋、日・米・中の高校生計3,600人を対象に実施。
勉強や生活、国に対する意識などを聞いたところ、「自分の将来は輝いている」と答えた高校生は、米国46%・中国34%に対し日本は24%であった。
 逆に「あまりよくない」10%、「だめだろう」が6%で、米・中を大きく上まわり悲観的な見方が強い傾向にあることが見られた。と新聞は報じている。
 将来への備えについて尋ねたところ米中ともに「今からしっかり勉強しておくべき」が多かったが、日本は若い時は将来のことに思い悩むより、その時を大いに楽しむべきだ、が半数を越えた。
 「今一番したい事」も米・中と比べ「好きなように遊んで暮らす」「何もしないでのんびり過ごす」が目立ち「日本の若者が"いかに生きるか"について明確な理念を持っていないことを示す結果となった」と同研究所。
 平日に学校以外ではほとんど勉強をしないという日本の高校生は45%と1980年度の調査を大きく上回った。この数字は米・中とくらべても突出しているという。
 昨年末公表された国際学力調査結果でも明らかなように「学習意欲の低下」が深刻な状況にあることが裏付けられた。
 一方、国に対する誇りを強く持っている高校生は米・中いずれも29%だったに対し、日本は15%にとどまり、米・中の50%前後が「誇らしい」と答えた。
 国旗、国歌についても日本は「何も感じない」が60%前後を占めた。このほか、ボランティア活動は、米国の32%、中国の28%が「現在参加している」と回答したが、日本はわずか5%、両親参加率も圧倒的に低く家族そろって社会貢献が不十分という結果だった。
 家庭で決めているルールについては、日本が「食事のマナー」と「門限」であり、米国は「家事の手伝い」「決まりに反した時の懲罰」、中国は「勉強」と「お金の使い方」が目立ち、しつけのポイントに各国の特色が表れた。
 数十年前までは、日本の学力の高さが日本の誇りであった。この堕落さは何を意味するのであろう。土日を「ゆとりある学習時間」だとして週5日制になった。一体、勉学しなければならない時期に「ゆとりある学習」とは、何んと呑気な科学文部省の政策であるか。
 鉄は熱いうちに打つものであろう。しつけも「みつ児の魂百までも」というから、しつけは幼児の頃に終わっていなければならぬものであろう。わが子は可愛がるだけではすまない。
 ペットを飼っている人は多いが、ペットに引きずられるようにして散歩する人の多いのに驚く「しつけ」がキチンとなされていれば、ペットは散歩するに飼い主の前には出ないものだ。かように「しつけする」時期を逃しているのである。

行政とは勝手なことをするものだ。(高山市の場合だけであるか)

kage

2005/03/18 (Fri)

行政とは勝手なことをするものだ。(高山市の場合だけであるか)

 岐阜高山市の場合、全国各地から届けられた水害による義援金約6000万円のうち、被害者に4500万円を配って残りの約1500万円を市の積立金としたことがわかった。
 市長は「今後の災害に備えるものとして積み立てた」と弁明しているが、災害に遭った市民としては「今後の事より、今が大変な時だ」として行政の処置を非難している。
 行政の弁明がつづく「合併を前にして積み立てした義援金は高山市だけのものでなくなったから、使うわけにはいかない」とわけのわからないことを言っている。

 前段は高山市の話だが、山形市役所の職員に対する旅行券などの配布などなど、全国いたるところの役所では「金を見ると」どうも「クソに蝿がたかる」がごとく卑しい配分を考えるものらしい。
 行政が膨大な赤字を抱えているにも関わらずボーナスはキチンと貰える不思議さ。通常、赤字の会社ではボーナスは支給されないものと社員は熟知しているものだ。

 さて、行政の年度末を控えて、使い残した予算の無駄使いがはじまるシーズンである。いかにも正当な購入をしたように「相見積り」が頼まれてくる。
 同じ仕事をした上で、予算を残したならそれは誉められるべきものだが、行政とはそのような判断をしないところらしい。予算を残すような部署は、仕事をしなかったとして烙印を押され、次年度から予算が減らされるものらしい。だから、各部署では予算を使い果すために努力する。 一般感覚では考えられないことをするのが行政というものであるらしい。

 本会の住民監査の不備をつかれた議員監査委員の遠藤宏三氏は「監査委員会には限界がある。たとえ、監査委員会が精査不備を犯したとしても、監査委員会が行政側にある以上、市民の訴えに応える必要はない」と、行政擁護と受け取られる発言をして電話を切った。
遠藤宏三議員よ、なんという心得違いをしているのだ。

 小生は「安田道隆 監査委員」「遠藤宏三 監査委員」宛に次の文章を配達記録郵便で送達しているはずである。

◆ 監査委員制度
 監査委員制度は、昭和21年の第一次地方制度改正によって初めて設けられた制度であり、その後制定された地方自治法において、監査委員は、長の指揮監督を受けない独立の第三者執行機関の一つとして法律の上で明確に位置付けられました。
◆ 監査委員
 主として地方公共団体の財務に関することと経営に係る事業の管理を監査する執行機関です。監査委員は、独任制といって合議制による委員会(教育委員会や選挙管理委員会など)とは異なり、一人ひとりが独立して職務を遂行し意思を決定するのが原則とされています。

 地方自治法において、監査委員は監査の結果に関する報告を公表することが義務付けられていることからも明らかなように、住民に地方行政に対する批判の材料を提供するとともに、住民の地方行政に対する知識と信頼を深め、自治体に関する関心を喚起し、住民自治を具体化することにあります。(一般的法の解釈)

 以上のごとく監査委員会が行政の茶坊主的存在でないことは明確ではないか、「市民の訴えに応える必要はない」とは何たる暴言か。
 年間一千数百万円を、市民の税金から報酬として受け取る委員として、市民の訴えに耳を傾けるのは当然の道義的責任というものだろう。

 監査委員の精査不備による判断ミスさえも認めようとしない、議員の高慢な態度はどこからくるものだろうか。
 与えられた権力を武器として、行政面と法律に弱い市民をいたぶるのが監査委員であるか。
市民を納得させる能力の無い人物の職員ほど権力を行使したがるものだ。

 来期、古紙問題は行政の「逃げ場がなくなる」ことが必至だ。従来のように行政のマヤカシを是認するほど市民は甘くない。
 本会は米沢市民に多大な損失を与え続けている環境生活部への追求の手を決して緩めない。

白紙撤回の意味(中央商店街再開発プラン)

kage

2005/03/16 (Wed)

白紙撤回の意味(中央商店街再開発プラン)

 よくぞ陳腐な計画を立てたものだ。議会の総反撃に遭うまえに安部市長は自ら白紙撤回の意志を決め、市街地再開発関連予算を取り下げた。
 大沼の不参加、市内医療法人になる五階建ての病院建設案の撤退に次ぐ、3度目になる再開発の頓挫である。
 商工会議所は「今回の事業は組合施工で公共事業性の高い民間事業であり、権利者不在の議論は非常に遺憾だ」と述べ再開発準備組合は「残念無念の一言につきる」とコメントしている。が、いくら開発を急ぐからといって、あの地域に図書館を建設するなどの計画は、はじめからそぐわない計画だったとして行政側は猛反省すべきであろう。
 市民の多くは反対の構えであったようだが、当該地域の開発は当該商店街で営業を営み今後とも商店街の発展のために寄与する考えの人たちの熱意が問題になっていた。
 言い方は不遜だが、当該地域の人々は常に米沢市の中央商店街だとして、行政にオンブしてきたものが多いと思われる。
 旧市役所・旧警察署の存在によってそれほど努力しなくとも営業が成り立ってきた過去に甘えている。ひとりでに地代は高騰し地域の価値観が上がっていく。賑わっている時にはサラキンが密集しサラキン通りといわれたものである。いつしか、サラキンにも見離され、文字通り過疎のシャッター通りとして転落して行くことになる。
 街の繁栄を守り抜くためには、常に商店街共同の町づくりについて論議を重ねている必要があった。お互いさしたる努力もしないでも一等地だとして、個々の営業は成立していただろう。が、重要なことは共同した眼で現実を見つめていなかったことにある。

 人は人に集まるものである。一時、あれだけ騒がれ人離れした浅草だが、土地に住む人たちの努力によって、元通りに近い浅草の賑わいが戻っている。この回帰は住民の努力以外になかったものである。
 中央商店に再び賑わいを取り戻すには、いくつかの方法が考えられる。が、口幅ったいと言われそうだから遠慮するが、奇想天外な発想でもしない限りあの街からシャッターの上がることはないだろう。街づくりというものは、理屈抜きにした発想が柱になるだろう。
 真から行政や会議所が再開発に情熱をかけるのであれば、あの地域にいて営業している人たちの総入れ替えが必要となってくるのではあるまいか。そんな勢いに乗った開発案で望むならば何かが見えてくるものであろう。

「カシャババア」の自動車運転に一言

kage

2005/03/15 (Tue)

「カシャババア」の自動車運転に一言

 知人の話「雪道を走っていくと、一台の自動車が止まっている。反対側に鉄製の集積所があって通れないような道幅であった。クラクションを軽く鳴らし道幅の広い場所に移動するよう働きかけた。ところが、窓から顔を出したご婦人は知らぬ顔で移動する気配がない。運転席に幼児を抱いて遊ばせている。
 急いでいたので仕方なく車と集積所の間を恐る恐るとおり抜けようとしたが、車体からはみ出しているサイドミラーが接触した。カシャバアの怒ること怒ること「通れないことがわかって通ったんだベッ!オレは人を待っていたんで駐車禁止ではないッ!」
 シャクに触った知人は「人を待っているなら、何で道幅の広いところで待っていないんだ。第一、こどもを運転席で遊ばせておいてチャイルドシートはどうしたんだ?」
 返事につまったカシャバア運転手いうことが奮っていた「これからチャイルドシート買いにゆくところなんだズ」

 小生宅は八幡原工業団地に行く旧13号線側にある。朝のラッシュ時の女性ドライバーの運転態度がひんしゅくものだ。ガキねえちゃんは例外なく銜えタバコで片手運転。今は少なくなったが携帯電話を片手に談笑しながら会社に急ぐ。大抵の女性ドライバーにいえることは、スピードを緩めず直進してくることだ。狭い道では対抗車があわてて車線を確保するありさまだ。車線をゆずってもあいさつもできない女性ドライバーは数かぎりなく、交差点などでは決して他車に車線を譲ることはしない。わが道を行くだけで誠に社会性に欠けた女性運転者の多いのにはヘキエキする日々だ。女性のゆかしさなどはことドライバーに限ってみうけられないご時世になった。そんなドライバーに美人がいないのがせめての救いだ。

それぞれの頂点

kage

2005/03/14 (Mon)

それぞれの頂点

 生態を維持するためには生殖のバランスが必要となってくる。
陸の動物の頂点にいるのは「オオカミ」であり、空の頂点には「オオワシ」が君臨してバランスを保っている。
 アメリカの場合 イエローストーンで鹿が殖えすぎ、周りの緑が枯渇寸前になった。そこでアメリカはカナダからオオカミを輸入して放畜したところ、自然にバランスが整って鹿が激減し従来の半数になり緑も再生してきたという。
 米沢市に鳥海隼人氏という公報よねざわでお馴染みの動物研究家がいる。彼は単身モンゴルに出掛け世界のオオカミ学会に席を列ねた。

 彼の談話「日本オオカミは全滅されたが、オオカミが人間に危害を加えたという話は日本にはない。オオカミが悪者にされたのは外国から入ってきたグリム童話などのせいだ。外国では牧畜が盛んだから、オオカミの被害が多く人々に嫌われていたことによるものだ。
 現在、サルによる農作物の被害が多く日本中の農家を困らせているが、オオカミなきあとによって起きた生態系のバランスが崩れたことに未だに気づいていない。
 日本もオオカミを輸入してその繁殖に手をかすならば、サルやカモシカなどの比較的弱い動物は身をすくめて人里近くにあらわれるようなことはない」

 日本犬を放し飼いすることができたなら、サルが人里に出没するなどはないはずだ。が、犬の放し飼いは禁止されているから、縛られている綱の長さを知っているサルの餌食になっているのが現状なだけだ。

 ちなみに野菜の頂点に君臨しているのが「ニンニク」であることを伝えたかったのだが、女性に嫌われるのを覚悟のうえニンニクを多用して健康を守ることだ。

「共同」と「和合」は生きるための知恵

kage

2005/03/13 (Sun)

「共同」と「和合」は生きるための知恵

 「たけしの地球極限!奇跡の旅」をテレビで観て考えさせられることが多かった。
番組の趣旨は地球上最悪といわれる極限に生きる人々の生活をドキュメントしたもので、極寒のグリーンランドで暮らす人々、高温で乾燥したアフリカ・ナミビアの生活、アンデス4600mの髙地で生活を営む天空の村人の暮らし、そして一生涯海上で暮らす世界唯一の海洋民族フィリピン・スルー海を訪ね、驚愕の「生きる」という原点に立脚した番組だった。夜の更けるのも知らず、まんじりともせずに番組に食い入っていた。
御覧になった方々も多いことだろうが、「生きる」ために人間はどんな努力も惜しまないものであるかに私は痛烈な感動を覚えた。

 まず人間の原点は「生きる」ことにある。そのためにはその場で暮らしている人々が大切に守りぬいている「共同と和合」であることがわかる。
 草木が一本も生えない天空の村の知恵は、ジャガイモの栽培を成功させ、それらを乾燥させて保存食とし飢えることなく村を存続させてきた。
 グリーンランドに住む少数民族はアザラシ猟が唯一の生きるための方策、そしてアフリカ・ナイビアは草を求めて放浪する文字をもたない牧畜の民族である。
 いずれも等しく教えられることは、毎日の生活が共同の作業によって賄われ、食事はその地域の人々が一同に介して楽しむ風景だった。

 我が国でも食事の時間に家族が集まって食べたものである。
 その関係が廃れて現在は家族間の交流にかげりが生じている。連合軍の敗戦処理は「日本の家族関係を崩壊させる」ことであった。まさしく、日本家族は核家族化し、食事の形態もご都合主義となり、出勤する主人の弁当すら作らない主婦の出現となった。
 こんな風では極限の地で暮らせるわけがない。人間が「生きる」という本質には「食にありつく」という厳しい現実がある。
 日本人はその本質を忘れている。見渡せば欲しいだけの食物が店頭に並べられていて、走ったり、潜ったり肉体を駆して獲得する食物は無く、簡単に「貨幣」という経済に支えられているだけのことだ。
 戦争を体験した人なら容易に理解されることだが、団塊の世代に説明しても現実論として聞く耳すらもたない。

 幸せなことに3人の娘たちは、常に三世代の中に育ち、祖母もまじえた毎日の食事の会話の中で、学校のことや友達関係などがわかり、なによりも家族一緒の食事から家族たちの健康の状態が掴めた。
 どんなに少量の菓子も家族の数で分けて食べる。決して賛をこらした食卓ではなかったが、調理に工夫があった。娘たち3人は親の手を放れて社会人の仲間入りをして行ったが、食事は家族そろって食べることに撤しているようだ。
 人間が「生きる」原点は「食べる」という不可欠な原則によるものだが、日本人に欠けているのは「一緒に食卓を楽しむ」という家族間の愛情なのであろう。所詮、生意気なことを言っても人間は一人だけでは生きられない群れた動物なのだから。

だれが言ったか忘れたが!?

kage

2005/03/12 (Sat)

だれが言ったか忘れたが!?

 久しぶりで自宅でテレビを見る時間があった。
JA提供の「ご飯の効用」について学者・栄養士らの米食をすすめる番組だった。「日本人は歴史的に米食を基本とした体づくりになっているから、日本人は米食を真剣に考える時期にきている」
 さらに「こどもたちは欧米食にならって、魚より肉食傾向にある。これは日本人の体にはなじみにくい食生活である。だから、健康を維持するには魚・野菜・米食が望ましい」のだと熱く語った。
 昭和20年が敗戦の年だ。その頃、日本人の食生活に活をいれた学者がいた。今になってその学者はだれだかわからない。
 学者いわく「日本が負けた最大の原因は日本人の食生活にある。米食を止めて欧米のようなパン食に早急に切り替える必要がある。米食をつづけていれば頭脳の働きが鈍くなり、結果、パン食の欧米に負けてしまったのだ。これからの児童のためには学校給食制度が復活するだろうが、是非ともパン食を実行して頭脳指数の高い国民にしなければならない」

 国民も馬鹿な論理を真に受けたものだ。戦争に負けたのは米食が原因ではなく物量の差で日本がまいったものだ。
 以来、連綿と学校給食はパンが主体になっている。あのオリンピック選手がパンでは力が出せないから、日本から米を持ち出しオニギリを食べて試合に望むのだという話をよく耳にする。
 マスコミは時として危険極まりない悪例を撒き散らすことがある。はたして日本人には米食がいいのかパン食が似合っているのか。単に好きずきだけで片付けられない問題があるようだ。

3月10日未明は敗戦の序章・東京大空襲の日

kage

2005/03/11 (Fri)

3月10日未明は敗戦の序章・東京大空襲の日

 読売新聞の編集手帳はその時の様子を書いている。
「鳥も鳴かず、青い草も見えない」焼かれ尽くした満目荒涼たる東京本郷の廃墟に呆然と立った23歳の医学生山田誠哉は「ここまでしたかッ!奴らッ!」後の作家山田風太郎である。
戦争だから恨みごとは言わないと日記はつづく。
「われわれは冷静になろう。冷血動物のようになって、眼には眼を、歯には歯を血と涙を凍りつかせて奴を一人でも多く殺す研究をしよう」
 彼らの物量の差を知る後世の青年の目で、青年の所懐を笑うのは易しい。戦後の平和に慣れた目で報復の決意を難じるのは易しい。無差別の大量虐殺を目のあたりにして他に何を語り得ただろう。
 60年前の今日未明、 B29がおびただしい焼夷弾を東京上空から降らせ巨大な溶鉱炉と化した下町一帯で約10万人の人が命を奪われた。
東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイ将軍である。日本政府は戦後、自衛隊育成の功労者として「勲一等旭日大授章」を贈った。東京五輪の年である。
高度成長の上昇気流に酔い、かつて凍らせた血と涙の記憶を喪失したのである。人はときに上に向かって堕落していく。

 小野川町に建設業を営んでいる鈴木昭市社長は 自社の新年会に寄せて自分の所感を述べるのが恒例になっている。
地球環境問題・教育問題・行政改革について厳しい批判論を加えている。教育問題については「言ってもわからぬ場合は当然殴って痛い目をあわせて教えなければならない」とし、行政改革の基本は官に手厚く民に負担を押しつけるなどは下の下でもはや政策とはいわない。
 本来、役所は住民のためにあるはずだ。どこの役所もコンピューターシステムや民間のコンサルタントに外注などしているのだから、職員の数は削減して然るべきものであって、官と民の収入の格差は広がるばかりだ。この点を考慮せずに行政改革といえるものではない。
 市立病院の膨大な赤字は社会経済性の乏しい公務員が仕切っているからで、他の私立・個人病院は所得番付を独占している業界である。実務に精通しているはずの公務員たちに負債という概念があるのだろうか。
 「足りなければ増税すればいい」こんな安直な考えで公僕だと開き直るようではあまりにも民が救われないのではないか。まず、足元から職員の数を削減し給料やボーナス・退職金の大幅カットをし、議員定数を減らすことから改革を断行しなければならない。
 それが民を納得させる行政改革というものである。そこでの増税であるならば民も応えるのであろう。

民主主義とは民意が直接反映される社会制度だ。

kage

2005/03/10 (Thu)

民主主義とは民意が直接反映される社会制度だ。

 米沢市に異変が起こっているらしい。「成人式が公共の場で行なわれないで飲食の出来る一般企業で行なう。
内容はテーブル形式を採用、新成人がテーブルを囲むようにして着席。多くの祝辞を廃して安部三十郎米沢市長だけの祝辞となり、映像を使って新成人たちの決意やコメントを流す。そして祝杯をあげる」というものらしい。市が応募した実行委員会の決議で市役所が実行に動いたものだ。

 安部市長は自分の意見を表に出そうとしない。諮問委員会や実行委員会を招集して、いかにもそれらの総意であるかのごとく策して、いかにも民意のごとく自分の責任を逃れようとする。職員は市長に具申することはない。
市長との閒に意見の食違いがあると、市長の逆鱗に触れるのが恐ろしいからだ。
市の職員はいう「安部市長は北朝鮮の金正日と同じです。わかってもいないのに意見などすると大変なことになる。常に気味の悪い笑顔を絶やさないが、目まで笑っているとは思えない。議会の答弁もいい加減なものだが、何を職員に話そうとしているのか肝心の思いが伝わってこない。頭脳集団として参与を設けているが、常勤の参与ではない。市役所には大黒柱が欠如しているのだ」。
 又元校長経験者はいう「儀式を優先させないで、被祝福者のいう祝杯を第一義に捉えている。市長からは教育的な配慮はみじんも感じられない」

 市長の全身を捉えているのは、市政ではなく次期選挙選を勝ち抜くだけのことらしい。
米沢市民もバカではないから、高橋政権に飽きた市民と市職員主導型への反発票が安部三十郎に流出しただけのことだ。したがって、来期の市長選で勝ち抜けるという保証はどこにもない。
自分の選挙戦に使用した「自由の旗は、現在も市長室入り口の前の壁に張りついている。庁舎内に風は吹くまいから、壁に無残な姿で張りついているだけ。外来者にとっては誠に見苦しい旗だ。

 「自由の風」なる表題はすばらしいものだが「自由の風」が自分だけに吹く風で、市民に吹く風でないことが今になって市民の知ることとなった。いうまでもなく、市長は米沢市の命脈を左右するリーダーである。まず、安部市長には第一にリーダー感覚に欠けている。
三月の雛壇でもあるまいし両側に参与を侍らせてどんなリーダーとしての新知略が生まれたというのだ。無駄な支出だとは思えないか。

 来期はあるまいから新市長の育成と誕生に掛ける意外に米沢市のつつがない再生術は生まれない。これほど評判の良くない市長の出現は二度目である。各地各階層から不満続出のオラガ市長である。
 安部側について選挙を勝ち抜けた某市会議員が元市会議員宅を訪れ、米沢市の将来を憂うことシキリだったという。「オレが間違っていた」と。

再び、再生古紙売却問題

kage

2005/03/09 (Wed)

再び、再生古紙売却問題

 本会のインターネットによる古紙究明問題からアクセス数が13万を数えようとしている。無論、既成古紙業者の回し者軍団による的はずれな大量の書込みもカウントしてのことだが。
 さて、行政とは頑固なほど自分たちの領域を守ろうとする気概に燃えているものだ。武家社会で庶民を軽蔑しきった「斬り捨て御免」の思想が現代にも生きているかのように錯覚さえも感じさせる公務員の由々しき言動がつづく。
 米沢市民のみなさんに知っておいていただきたいことがある。現実に行政側が抱えて未だに是正するどころか、来期も同じ業者に再生資源物の収集運搬を随意契約の形で依頼することになりそうだからである。
 米沢市民の財産である「再生資源古紙」が、米沢市の手から離れて当該協同組合側に渡る条件が契約書に明確に記載されている。
記載内容は「協同組合員によって市内から収集運搬された資源物は、下新田にある資源分別センターの計りで総量を計測した上で、米沢市から当該協同組合の手に委ねられる」ことになっている。
 ところが総量を計測しないまま個人企業であり問題の買取り価格の低い「山形古紙回収」に直接搬入している事実が判明した。これらの行為は重大な背任行為であり担当行政は厳重な抗議をすべきだった。ところがこれらの行為に対して是正するように勧告しただけで、またもや当該業者との随意契約をしようとしている。競争入札などの経済原則を無視してだ。
 問題は総量の計測をしていなかったのであるから、今もって古紙は米沢市民の財産だといえよう。その量と価格はいかほどのものであるか。想像を絶する価格であるに違いない。米沢市民はその膨大な価格を業者から取り戻す権利がある。

 だが.行政には全くその気はなく、監督不行届きの責任にも希薄な状態が現状だ。
ましてこのような行政と業者間にある不透明な行為を是とした監査委員は逃げの一手で本会の質問に回答すら寄せられないでいるのだ。これだけ本会の追求によって不条理が判明した以上、米沢市のために組織をかえて再生資源物に対処すべきことこそ行政がとるべき方策とはいわないか。

 行政の発想が必ずしも間違いだったとはいわない。しかし進行の時点で方向に間違いが発見されたなら、ただちに方向に手を加え是正すべきが賢い行政マンのする仕事だと思われる。が、担当職員はいつもながらの態度を崩さず「斬り捨て御免」の構えを崩さない。ほどなく期末である。公務員がわが身を守るためにはどのような行動にも出る季節だ。社会に出たら一文の値打ちすら認められない市の職員たちだ。市庁舎の中の狭い社会観だけで通用しないのは崩落した元禄時代の武士階級の抜け殻を背負っているからだ。

久しぶりに蘇った「ど」「久」殿のお説に反論

kage

2005/03/08 (Tue)

久しぶりに蘇った「ど」「久」殿のお説に反論

 反論するのも大人気ないが、まずは小生の入力ミスの指摘に感謝。
 さて、ゴミネタだが、小生らは「再生古紙」を問題に行政と戦ってきたものだ。簡単な問題だが、もし、あなたが古紙や雑誌類を売却する場合、Aという業者は100円で買取り、Bという業者が46円でしか買い取らないとしたら、あなたはどちらの業者に買い取らせるか?という問題だ。

 あなたならどうするか? 多くの市民は買取り価格の高いAという業者を選ぶと答える。
ところが、行政は「安い方に売るのが良い」と言う考えである。
 市は古紙収集運搬費を5千万円強支出し、回収した「市の財産」である再生資源物の売却を協同組合に任せているのだ。
 当該協同組合の理事長が経営する「山形古紙回収」に運ばせて売却してきたが双方の責任者が同一人物であることから勝手気ままに再生資源古紙の価格を操ってきたものだ。
 売値が市況の半値以下だった。これをなぜ行政が是正しようとしなかったのだ。指摘された現在も是正する気はサラサラないのだ。

 米沢市のごみ処理を、長井市方式(入札方式)にするなら毎年「約1億円」の経費節約になる。
 ただでさえ米沢市の財政事情が困難な折り、再生資源物の売却を他市に習って市況を注視した方式に出来ないのであるか、なぜに特定業者に利益と便宜を供与しなければならないのか?
 これほど市民を愚弄した政策はないではないか。決してこの問題を風化させてはならない。
本会の戦いはその一点にあるのだ。

 「久」殿もっと平均的大人として本会の主張や戦いを「ゴミネタ」だけの扱いを止めて、以上の問に貴殿の考えを寄せてみてはどうでしょうか。
 「ど」殿のいうように小生が市長に立候補するだけの気概はありませんが、米沢市民として現在の市長は早晩代える必要があると思っております。なぜならば、第一に行政能力の欠如。
そして、人の意見に耳を傾けようとしない若き独裁者。中央商店街の再生策として図書館を創るなどの非常識案。
 図書離れの激しい時代に、まして駐車料金を払ってまで図書館に急ぐ市民がいるとは思えない。上杉からの古文書など文化価値の高いものを保存する収納庫などを考えた時に、図書館という本来の姿から建設する場所を考えるべきものであろう。
 市長に就任してから1年余、前市長専用車を売却し新車を購入、市長報酬を減額し学者を参与に採用して支出を増やしただけが、良くも悪くも市長がなした業績だ。
まことに淋しいかぎりである。

 3月議会で市長の能力についていかがなものかと発言した議員が2名いたが肝心の市長は「カエルのツラにションベン」で怒る風情もなかったという。
 彼いわく「あんな能なしを米沢市民がよくぞ選んだものだなッ!」彼とは在京の元記者で辛口のジャーナリストの言葉だ。
彼は吐き出すように「米沢の人間も少しは真面目に物事を考えてみることだな。このままでは財政の破綻が見え見えでないか。今のうちにまともな市長を作らないと取り返しのつかない米沢市になってしまうよ」

「振込めサギ」は花ざかり

kage

2005/03/06 (Sun)

「振込めサギ」は花ざかり

 不景気風が吹き荒れる2月度は「金融業界の暗躍」がピークに達していたようだ。
連日、在京の金融会社のFAXや電話の攻勢が続けられる。それも数十箇所からの「低利で即日融資いたします」と甘い融資話である。
 銀行は実際の業務から逸脱して、ノンバンクとの提携から15%もの金利さえ平気でとる世の中である。100万円の定期の金利は、日曜祭日にITNを使って自分の金を引き出す手数料でパアーになる低金利なのである。
それに比べ、在京の金融会社の金利は4%から12%程度とあるから、だれでも誘惑にかられるというものだ。しかも、保証人・担保が不必要だとくる。
 東京都庁に訊ねてみた。「貸金業の登録はだれでもできるんですよ。書類が揃っていれば受け付けます。だからといって東京都が保証しているわけではありません。毎日のようにトラブルの発生が寄せられています。できるだけ在京の業者を利用しないで、地元で資金の調達をしていただきたいものです」とくる。
 まず、悪徳業者は「保証会社に00円を送金して保証を受けてください。送金を確認した上で1時間以内に融資金額を振込みます」この手は振込めサギの典型的なもの。 保証金や印紙代金が必要だというなら、融資金額から差し引いた金額を振込んでくるのが金融界の常識である。まず、その点を第一の確認すべきところだ。
「保証金などを先に振込ませる手口は悪徳業者のやること。われわれもそんな業者に困っているのですよ」と、自分の会社はさもまともな融資会社だといわんばかりだが、それにも黒い裏があると思っていい。
ようするに、田舎の純粋な業者は「まさか、人を騙すこともあるまい」と、自分本位の善意な解釈が彼らの巧みなワナにかかってしまうという御粗末。
 小生の知人にも被害者はいる。あの人がと思われるような人物であるが、経営者というものは孤独なもので、恥ずかしくて人に相談することがためらわれることが多いものだ。

 地球温暖化とこの大雪にどんな因果関係があるのか。
庶民に理解できないことがもうひとつ。山形市が職員に配ったという「元気のでる旅行券」。
税金が6000万円も使われていたという報道。いま元気が求められているのは中小企業を経営するオッサンたちであり、公務員たちではあるまい。
中央官庁も地方官庁の考えることは同じことだ。どう考えても卑しい心根の発想が税金を食い物にする性癖に慣らされているようだ。

堤コクド王国の崩壊に思う。

kage

2005/03/05 (Sat)

堤コクド王国の崩壊に思う。

 長野冬期オリンピック開催時前、元金沢山形市長が県を巻き込んで他の候補地に並んで誘致合戦に乗り出した時期を思い出す。
 「山形も派手な誘致合戦に乗り出していますが、堤西部のアテ馬にすぎませんよ。堤西部があれだけ長野に資本を投じているのですから、開催地は長野に決定間違いない事実ですよ」と、当時山形の田舎だという私に断言したのは某大学教授で東京オリンピックの演出団に加わっていたという人物だった。
 舞台作家の仲間に誘われてモスコウ芸術座公演の「かもめ」を日生劇場で観劇したあとの懇親会でのことだった。「オリンピックの開催国が決まってからはじめた誘致運動なんて、すべてがアテ馬です。開催地はとうに決定しているんですよ。もうすでに巨大な投資と駆け引きは済んでいるんです」
 ことオリンピックといえども、国家対国家のビジネスである。したがって堤王国に異義をはさめない腰抜けIOC委員どもは堤王国のいいなりであったことは間違いない事実だったようだ。

 さっそく金沢市長に電話で申し上げたところ、さすがに田舎市長、よほどメンツが台無しにされたのであろう「おまえごときに何がわかるかッ!」と一喝。
 私は「IOC委員の投票はおそらく山形はゼロ票でしょう」といって電話を切った。数週間後の投票結果は案の定ゼロ票だった。

 白馬にはオリンピックの数十年も前から劇作の取材に通いつめた私である。あの小さな雪国の村で何が囁かれていたかぐらい誰にでも察知できたものである。
「われらが蔵王・斎藤茂吉の故郷思考」程度で世界のビジネスを動かせると夢見た田舎的な発想しかもたない市長だった。はじめから世界の展望をもたなかった田舎市長の蔵王讃歌の御粗末な結果だと笑ってはすまされない。
 その堤帝国・近江商人の崩壊は、戦国時代の近江の油売り斎藤道三の末路を思い出すではないか。
道三の元居城・岐阜城は「呪われた城」として、今もって空き城であることは知られた話。

会計検査院システムの委託費の怪!?

kage

2005/03/04 (Fri)

会計検査院システムの委託費の怪!?

 3月2日読売朝刊を読んで驚いた。2億4000万円かかった会計検査院のコンピューターシステムの運用業務委託費が、一般競争入札の導入によって、来年度は約30分の1以下の730万円ですむことになったという。
 随意契約による無駄な支出が公費支出の監視役である検査院ですら例外でなかったことが判明したわけである。役人の無駄使いはいまさら申すまでもなく、国民はもはやあきらめ顔だ。
国民の関心事はなんといっても国民年金の不平等と将来に対する不安が先行する。「年金は減額、税金は増額」 国家が自ら行なっているネズミ講なみの無責任さである。
先進国なみの福祉国家をめざしているといい、実態は国民年金の大いなる無駄使い。この説明責任もなく国民年金の不払いだけを取り上げている。
不払い運動は政府を信じきれない国民のシッペ返しだと素直にとりあげないズルサ。これが役人根性というものであるか。自らの失態に蓋をして実態から目をそらそうとするところに何んの解決策もうまれない。
役人根性は中央も地方もおなじようなものだ。投人たるもの決して自分の責任になるようなことを避け、まちがっても自分の非を認めたがらないものだ。

 本会(鬼の会)の住民監査請求を却下・棄却しながら、役所が提出した資料を精査した結果、取り返しのつかぬ行政側の失態を発見、監査委員に説明を求める書簡を出しているが、梨のツブテの構えで本日になっても返事なし。
 行政監査委員は市から年俸1千万円なりの報酬で雇われている以上、行政の不利になるような監査報告をするわけがなかったのだ。しかも、土建屋の経理出身で元市長の碁仲間だとするにいたっては、能力はテンからなかった人物であると思いたい。
 議会代表の遠藤宏三議員にいたっては、月35000円の報酬めあてだけの監査能力なしと断言せざるを得ない人物だ。これでは市民の監査請求などは絵に描いた餅にもならない。たとえ市民が監査請求を出したところで監査委員会の局長が事務的に作成するだけのこと。そこには市民が期待する権威などは望むほうが無理というものだ。
 自らを「私が裁判官だ」と吐かす事務補助員(法的には局長でもそう呼ぶ)のバカさ加減、これが現実だから役所の無駄使いも激しいものだといえよう。
 能力があるというならば表舞台に出てきて、本会の疑問に説明するがいい。見苦しいぞ監査委員、任期終了をじっとしてまつだけであるか。
 議会は35000円の報酬をめぐって監査委員の椅子争奪戦が水面下で行なわれているようだが、能力のない議員が派閥の構成によっては取得できる椅子のようだ。
中には「こんどは監査委員の椅子がオレに回ってきそうだ」と楽しみにしている議員がいるようだ。これまた何もしない議員で、議員在職期間がダダ長いだけの議員との風評が高い。

伝国の杜の「能楽堂」は故板垣知事が木村莞爾に贈ったものだった。

kage

2005/03/03 (Thu)

伝国の杜の「能楽堂」は故板垣知事が木村莞爾に贈ったものだった。

 多くの米沢市民には知られていないことだが、なぜ米沢市に能楽堂か?と不思議に思われる市民が多いものだ。

 今だから明かそう。能楽堂の建設は前高橋市長の発案であったというのは全くあたらない。 私が断言する。能楽堂の建設にまつわる話については、小生もいささか関係したから事実は故板垣知事が木村莞爾(当時県会議員)の業績に報いたものだった。

 平成4年、7月6日山形県議会6月定例会の最終日のことだ。板垣知事から木村県議に電話が入った。
板垣の頼みは「私が会長を務めている歩兵二百二十聯帯、平たくいえば山形雪部隊の慰霊がニューギニアのサルミ地区に眠っている。今大戦中の激戦地で血を血で洗うような死闘を繰り返してきたところだ。山形雪部隊玉砕の地でもある。サルミに上陸した3千5百65名中、生還した兵士6百25名、いいかえればサルミの密林の中で英霊の多くが、さ迷っているということなんだ」 知事は言葉をつづけた。
「玉砕した雪部隊の英霊たちが毎晩私の枕元に立って眠れなくて困っているんだ。なんとかして英霊たちの遺骨を収集して国分寺薬師堂に収めたい。君の父上とのきずなを生かしてニューギニアから分骨してもらうわけにはいくまいか」
「やりましょう」木村は知事に約束し遺骨収集の県議団長として完璧に成功させ、知事の願いをやり遂げた。
「遺骨は小さいけれど、君のなした仕事は大きい」と現地の国防大臣の見送りを受けて無事、遺骨は遺族と知事の待つ山形の地に到着した。

 このくだりを小生が1冊の本に書いたことから、事実は事実として市民に知らせるべきだと思ってきた。木村の功績に報いるために山形県米沢市に贈ったのが能楽堂なのである。
能楽堂になった理由は他にもある。金剛流の謡曲仲間、特に代表となって能楽堂の建設に熱心だった井形朝臣氏の熱意を受け木村が応じた結果によるものだから、前市長高橋の創意によるものでは決してなかったのだ。

 木村は何も語らないが、高橋の叙勲の席で配られた高橋の業績の中に能楽堂の一説が載せられていたことを悲しむ人たちがいたのを知って、間違いは正さねばならぬと思い書いた。
能楽堂は木村完爾が知事から贈られたものを、井形氏らの要請に答えきった米沢市の文化の施設だと思い直していただきたい。

不安な消火栓・常なる点検はどうなっているか?

kage

2005/03/03 (Thu)

不安な消火栓・常なる点検はどうなっているか?

 26日、深夜に起きた万世町の火災は、不幸にして1軒全焼し鎮火したが、電話連絡から10分ぐらいで消防車は到着したものの、ホースから水が出ないブザマさを露呈し、近隣の人々をヤキモキさせ不安に陥れていたとの通報が届いた。
 場所は工場地区であり消火栓の設置などがはたして万全であったのであるか、消化するに足る水が出ないような消化設備だと知って、はじめて住民たちの震えがとまらなくなったという。
 豪雪の最中の不幸だとはいえ、豪雪だからこそ消火栓のさらなる手入れが肝心になるのであろう。
 火災が起きてから、消火栓の不備を知るようでは、消防署の怠慢というべきものだろう。念には念を入れた火災予防対策を急いでもらいたいものである。

鬼の撹乱というべきか

kage

2005/03/02 (Wed)

鬼の撹乱というべきか

 20才を基準にして50年間「風邪も寄り付かない男」と陰口を叩かれた小生の自慢は病気に全く緑のないことだった。
 在京の作家が「御地の雪灯籠まつりなるものを拝見したい」というので「来るなら防寒準備が必要」だと厳命して駅頭に友人を迎えそのまま会場へ案内した。依頼を受けた本を半年かけて仕上げ一息ついた油断も重なったものだろうか、折悪しく会場は濡れ雪まじりで無帽の小生を直撃したものらしい。その晩から高熱に悩まされつづけることになった。鬼の撹乱というべきであろう。

 枕元の携帯が引っきりなしに用件を運んでくる。体の節々がどんなに痛かろうが、会社を休むわけにはゆかぬ。フラつく体を引きずって出社を前にして愛犬の待つ6坪ばかりの犬舎に餌を運ぶ。超大型犬グレ-トピレネー犬夫婦とダルメシアンの雌がわが家の愛犬たちである。
 出掛けに電話が入る。ある新聞関係の知人からである。「元市長の叙勲に招待されていると思うが、何か君が挨拶でもする予定があるのかね?」
 そういえば高橋幸翁の叙勲の知らせが入っていたようだが、叙勲はひとりで喜んでいればいいはずのもので、人に散財かける筋のものでもあるまいと、出席するつもりもなかったのでテンから頭になかったものである。
 「まったく興味のないことだし、そういう場での挨拶要員は決まって出たがり屋がいるもんでしょうからね」と、電話を切った後で考えてみた。「なぜ、オレなんだろう?新聞社がなんで?」
 たしかに、私は同級生として髙橋の節目々に全力を投球し、はじめの市議選から、結婚式の司会役、そして票差わずか28票で市長に当選するまでの長期間、彼を支えることに半生を費やしてきたことは新聞社の知人のいう通りだ。
 「名市長だといわれる首長であってほしい」と、私はそれだけを言葉短く彼に望みを託して邪魔になってはいけないと行政に口バシを挟むようなことは避けてきたはずだった。そんな間柄だったから、叙勲のことは高橋自身が私に伝えてきたのであればそれだけの感慨はあったのかも知れない。
 叙勲といえば「人に順位をつけるのはおかしい」といいながら叙勲を受けたのは九里茂三氏だったが、NHKの名物アナウンサー鈴木健二氏は著書「人間の価値は何で決まるか」の中で叙勲に触れている。「何もしない老政治家が順位の高い叙勲を受け、地方の福祉や地域のために生涯を捧げた人が下位の叙勲に甘んじている。
 これが叙勲の実態である。こんな叙勲制度にどんな意味がこめられているというのだろうか」
 叙勲で喜ぶ人は心から喜ぶべきである。しかし、自分の叙勲のために他人を動員して散財させる祝賀会形式などはどうしてもなじめないものだった。 クラスメートからの誘いもあったが、私は自分の意志を大事にしたかった。必ずしも、彼が叙勲を受けるのにふさわしい人物であったのかどうか。
 そして退任間際さらに後の彼の行動に拭いきれない疑惑が私の目に残されているからだ。人間の価値はたんなる叙勲で評価されるものではなかろう。形があろうとなかろうと、己れ自身が地方行政にどれだけ真撃な力を注いできたか己れ自身が承知していることだろうから。他人が騒ぎたてることではあるまい。