住民監査請求のために奔走中

2004/07/31 (Sat)
住民監査請求のために奔走中市が回収した有価資源物や、諸悪の根源と言われる「随意契約」をめぐって住民監査請求の手続き中であるが、請求のために用意しなければならない書類を集めるのが大変な仕事であることがわかった。
まず、公開条例に従い、市に対して必要書類を公開するように手続きをする。公開は手続き完了後、2週間となるが、行政側は要請された書類を全部公開するわけではなく、要求した肝心要の書類は絶対に公開しない。
その理由を問えば貝のように口を閉ざして絶対に理由は言わない。そこで鬼の会は「不服申立て」をしたが、その結果は60日後となる。
60日を待って書類を整えて行政監査となるが、結果がでるまでにどれほどの労力と期間が必要なものであるか、行政の厚い壁を感じているところだ。
闘いで知り得たことは、いかに行政の対応がスローであるかということだった。
住民監査請求は、予算執行に関しては1年で時効となる。こんなことでは住民が市政に不服を申し立てても、呆れ返るほどのスローモーさに付き合っていられないと、諦めるように行政のシステムは出来上がっているのだ。
8月に予定していた「500人集会」もこれだけの期間を要する行政のシステムに翻弄されながら、闘いは続けられているが、市民の皆さんへの報告は8月には出来ないことが明確になった。
石橋を叩いても渡らないとする銀行と違って、行政には公僕だという認識が必要であるが、その考えは毛頭なく、常に市民側に立った考え方はしないのである。
もし行政側にやましい所が無いのであれば、予算編成時に金額をはじき出した計算基準など、何故市民に公開出来ないのか?
出せない理由にこそ疑惑が残り、書込氏が問うている「噂の根源」もこの辺から生じやすいのではないか、素直な対応に期待するものだ。

にっほんのゴミ大陸に渡る

2004/07/29 (Thu)
にっほんのゴミ大陸に渡る数日前にNHKが放映した上記題名のビデオを拝見した。
再生資源の町、中国台州市の現状を取材したものである。日本では廃棄物として処理される寸前の各種屑金属類が中国に輸出され、中国の企業で細分化され、再生された金属類が日本に逆輸入されているという現実態を取材したものであった。
中国人は「資源は有限・再生は無限」だとする哲学に支えられて、再生事業は市の主企業として位置づけられ市民の暮らしを支えている。
鉄1tを生産するには「鉄鉱石2.4t+石炭0.5t」が必要だが、再生資源では1.2 tで間に合う計算になる。アルミに至っては、10%の新原料を補充するだけで新アルミ鋼が出来るという具合だ。多少の金も採れるし銀もある。大量の鉛も銅も出る。
厄介物のペットボトルに標準を絞れば、中国業者の買値が1㎏20~25円の高値である。日本では自治体が業者に無償で提供しメーカーがキロ当たり50円を再生業者のために負担するというシステムであった。
千葉県習志野市の場合、ペットボトルの処理に年間4千万の支出をしていたが、中国に売り渡すことで800万円の歳入になった。
したがって、市内の再生業者の材料置場は空っぽになり、横須賀市の入札に参加、廃ペットボトルを買い入れてくる状態になっている。
日本での再生ボトルからつくる糸はシャツなどになるが、中国の再生では純度が落ち糸にはならないが綿になって「ぬいぐるみ」の材料になるという具合だ。
なるほど中国の安い労働力を活用しての資源再生事業の成立ではあろう。が、米以外は無資源に近いわが国の再生資源物に対する甘さは論外といえるものだ。
金属屑やペットボトルなどの再生資源物でさえも有償として価値観をもつ中国だ。まして古紙再生業者の日本での競争は熾烈を極めている現状を、行政は認識しなければなるまい。
政府により容器リサイクル法が制定されたが、途端に米沢市はそれまでに行なってきた集団資源回収を止め、回収した資源ゴミは1社を選んで無償提供の契約としたのだ。
それまでは集団資源回収によって、各町内会の育成部などの活動費に充当できる資金として重宝がられ、町内あげての回収運動になっていたものである。
収入は消えて業者の手に渡っていったのである。言い換えればリサイクル法は、本来地域住民に還元されるべきものであるが、行政判断の随意契約という手段をもって、特定な1業者の利益となってしまったのだ。
資源リサイクル法は他市町村と違って、米沢市の場合はトテツモない「鬼っ子」を生んでしまったということになる。その額面推定2億円也。
鬼の会は、各地の行政対応や世界の常識を踏まえて、本市の資源ゴミに対する真摯な対応を求めているだけのことである。
他紙の資料やデーターを活用し説明しても、なぜ頑なに現状撤回に向かおうとしないのか、行政の無能さは市民の損失に限りなくつながっていくことになる。
なによりも市民の行政監視の眼が大事だということであろう。

本来ならば古紙問題などは市議員が指摘し解決すべき問題ではないか.

2004/07/28 (Wed)
本来ならば古紙問題などは市議員が指摘し解決すべき問題ではないか.本末転倒という言葉がある。たとえば小生ら鬼の会が指摘し提唱している古紙問題は少しずつ市民の中に浸透してきたが、このような行政の不条理にストップさせるのは、鬼の会のような市民からではなくて、市会議員や米沢市行財政改革推進委員会がする仕事だと今も考えている。
これだけ市に損失を与えている古紙問題を、小生ら一市民団体が指摘してさえも彼らに問題意識が生まれないのは不思議な現象であり、極論すれば彼らはいずれも無能な集団であることの証左であろう。救われることは佐藤忠次、小島卓二の2議員が議会で取り上げたことである。
他の議員はおしなべて「3期議員を努めれば議員年金が出るからゆっくり議員年金で暮らすサ。いまさら問題の渦中に入るよりは何もしないほうが立派な人で通る世の中だよ」これが米沢市民を代表する議員たちの偽らない処世術というものであろう。
これら無能な議員を選んだのは米沢市民であるから、汚れたケツは市民が拭かなければないないという代表民主主義の矛盾がある。
形式だけを重んじ、役割の重さを重視しない行政と委員達には、事にあたって男子たる責務の追求が欠けている。
行政もまた都合のよいイエスマンだけの人選に過ぎない。古紙問題は蟻歩ではあるが新任課長らによって意識が改革されつつあるようではある。が、古参部長らの意識改革は程遠いものがある。
いわく、毒饅頭組であろうと疑念は高まるだけだ。
ザワネズミは議員の中にも繁殖しているらしい。「鬼の会などに乗せられていると議員生活が出来なくなるゾ」とか「あんな人物とつきあっているとロクなことがないから、早く身を引け!」などと、おためごしの忠告もあるようだ
書込み氏の大半は古紙問題に触れた意見はなく、破廉恥と思われる個人攻撃に集中している。「詫びろ!」「灰色な人物」「右翼だ」「アカだ」などの足ひっぱりだけの堕論の連続だ。
小生は短足で足長ジイサンでないから引っ張り甲斐もないだろう。はっきり言おう。鬼の会には理念がある。ザワネズミどもに何を言われようとも理念にブレはない。何を書き込もうとも自由ではあるだろう。だが礼儀というものがある。他人のページに土足で入る非礼は許されるものではない。それでも己れの行為が天に恥じることがないと信じるならば、もはや、お主らは破壊することだけに快哉を叫ぶテロだ。
本日の書込みも賑やかなものになるであろうが、年間4000万円の市財源が消えて無くなる古紙問題に一言言及してから悪態の八百も書き込むべし。これは書込み氏への小生の挑戦ではない。少しはまともな視野でホームページを書き込む感覚に期待したいからだ。

賑やかな書込みに感謝

2004/07/27 (Tue)
賑やかな書込みに感謝書込みの多さに悲鳴をあげながら事務員がパソコンから書込みを引き出している。
新聞からの「引用」を「盗用だ」として息巻く書込み氏。灰色の人物だと色染めしてくれる人など。猛暑で少々頭がいかれたのかと心配されるような不埒で筋違いな方向音痴の書込み氏もいて、いよいよ夏本番というところか。
一部の書込み氏が吠えたてている、小生に「詫びろ!」の大合唱にいささかもたじろがない事によって本ホームページの挫折はない。ますます意気軒昂にして仲間とともに会の理念を通す所存。
凡人氏提案のツリー形式については、経済上の理由から無料のサバーを利用しているので、少し時間をいただきたいものと考えているところです。現行のような形式も「枯れ木も山の賑わい」と考えて、しばらくはこのまま続けて行きたいと考えました。愛想つかししないで書込みをつづけていただきたいものと会員一同になりかわってお願い申し上げる次第です。
いわゆる米沢人の行動とは、やたら自己流儀な人たちばかりではありませんので懲りないでいただきたいものです。
さて、行政も鬼の会の提唱がキッカケとなって、今年から古紙は有料に傾いております。
昨年まで無償譲渡の契約が、現時点では「分別作業を終了した古紙」の40%が行政に入ると締結してあり、100%の授受を交渉中だということです。
いずれにしても行政の矛盾点を追求した結果なのですが、書込み氏たちには古紙の問題にたいする意見はまさしくゼロで問題意識が希薄な市民感覚を哀れむものです。

市民の側から考えない行政の陰湿な奢り

2004/07/24 (Sat)
市民の側から考えない行政の陰湿な奢り住民監査請求のために必要資料を集める仕事の一環として環境生活課に対して、廃棄物収集運搬 処理業者と交わした契約書と、米沢市が業者に支払う金額の積算項目の公開を要求した。
応対に出てきた課長および課長補佐と係員の3名は都合の悪いことに関しては黙秘権を行使して絶対にロを開かないのだった。
廃棄物収集運搬費用の総額を公開しながら小生らが求める総額の積算基準を要求したものだが、行政側は「契約に関する情報であって、公開することによって、当該事業又は将来の同種の事務事業の公正、若しくは円滑な執行に著しい支障が生ずる恐れがある」として項目別の積算基準の公開を拒んできた。
収集運搬費用の支払い総額の内訳をなぜに拒む理由が行政にあるのか。
したがって、さっそく異義申し立てを行なって採決の日を待つばかり。
「支払い総額を議会で答弁している以上、積算基準を公開できないというのは社会通念に逆行する ものだ」と食い下がったが頑なに黙秘権を楯にするだけだった。
しかも問題になっている随意による業者との契約が締結してある。随意契約は政府では諸悪の根源だとして全面的な廃止の方向に向いているところだが、市の担当者は口をそろえて県に相談をして業務遂行しているのだという。
最高裁判所の違憲判決をも県の指導によっては合憲だとする勢いで、呆れるばかりの行政感覚がみられるのである。「公正を欠き円滑な執行に支障が生ずる恐れとは一体何か」。
むしろ公開を拒むところに陰湿な何かが想像させるのではあるまいか。
さて、古紙に関する業者との間に交わされた契約書の中身は、収集運搬費用は支払うがナント収 集した古紙は業者に無料提供とされている。前高橋市長の名で締結してある。
小生の積算では5年間で約2億円強の無償提供していたのだ。ならば他市同様、市の財源になるものを業者に無償提供していたとは全く市民無視、市長の独善であった。
「古紙の相場を知らなかったのか」の問いに「知っていた。インターネットを駆使して調べた」という返事が返ってくる。
行政は市民の立場から物事を考えなければならない立場にある。古紙を運びこみさえすればその場で現金で高く買ってくれる所が無いわけてない。当然ながら疑惑はそこからわきあがってくるものだ「物を売るのに安い方にする馬鹿がどこにある行政はソロバンもはじけいのか」この問いにも黙秘がつづき時間の浪費と虚しい疲れが残るだけの情報公開だった。
本年度は業者の申し出によって、分別費用を差し引いた売り上げの40%を市が受け取ることになったという。加えて市は100%返せと折衝中だと重い口を開いた。
さらに市の条令で古紙をはじめとする資源物を市民共通の財産だと位置づけるべく作業しているところだと断言する。
鬼の会の問題提起がキッカケとなり、業者にも今までのようには行かないとの判断が生まれてきたものとして行政もまず一歩前進と評価せねばなるまいが、行政感覚のトロイことは申すまでもない。
返事は裁量者安部市長名の返答であり印鑑であるが、肝心の印鑑はおなじものが沢山あるのだという。だからこの問題は市長の関知したものではないようだ。
この事実から担当者の独善性の疑いが濃厚になってくる。あの2億円の行方は業者の懐だけに収まったものではないような気がしないものでもない。いずれ住民監査によって全容が明らかにされることだろうが、市民側に立たない行政の奢りがどの様な結末を生むことになるか。
永田町は相も変わらす汚職天国「負けたら辞職する」と豪語した要人達も時間の経過とともに何処吹く風。
政府もダラシナイが、市の行政も奢りだけが一人歩きするのは市民全体の不幸につながる。
鈴木 富夫
【7/24米沢新聞掲載より】

不要になったパソコンの処理

2004/07/22 (Thu)
不要になったパソコンの処理弊社のパソコンを廃棄処分にするため米沢市の環境生活課に処理法を電話で問い合せたところ女性の職員が答えてくれた。
「15年度に資源法が改正になって、従来のような処分の仕方ができなくなっている。メーカーごとに処分法が違うのでメーカー(東京)に直接問い合せて処分方法を聞いて処置してください。米沢市では対応できませんので」という返事が返ってきた。小生が電話をかわり、男性職員と応対したが、返事は同じ内容だった。
そこで小生は「現代はまさにパソコン時代である。米沢市に何台あるか分からないが相当数のパソコンが普及しているはずだ。パソコンといえども器械であるかぎり壊れもし、また型番が古くなり廃棄する場合もある。
廃棄物を担当課がその認識もなくメーカーの支持を受けろとは何たる怠慢。法が変わったならば敏感に対処するのが担当課の仕事ではないのか。
行政のそうした対応と怠慢が不法投棄につながるのは必至だ。
早急に対応を考えてほしいものだ。と注文をつけておいた。が、職員は「検討する」と答えて電話を切ろうとする。
「検討する」とは行政用語では「なにもしないこと」だ。
鬼の会は現在、古紙の扱いを取りあげて、年間4000万円の損失であり、他市なみに歳入に組み入れるべしとして、住民監査ひいては住民訴訟も考えて担当行政官と闘っているところだ。が、ここにきて、パソコンの廃棄処理について満足な指導も出来ない状態にある。
これほど公務員とは時代のニーズに無頓着でいられる職業であるか。
安部市長よ、市職員に喝を入れるべきだ。とは言っても職員に舐められっぱなしの市長ならばせめて、貴殿が言う「自由の風」が自分にだけ吹かせる風でなく、市民に吹く自由の風であってほしい。
現在の風は、米沢市民にとって向かい風であることは確かなことだ。

書込み氏にひとこと

2004/07/22 (Thu)
書込み氏にひとことはっきり申して小生の表現を訂正する気持ちは毛頭ない。
「ザワネズミ」はまことに当を得た書込み氏の表現態度だと悦に入っているところだ。「低俗」な書込みにたいして率直に低俗だと表現する以外に言葉はあるだろうか。
たしかに頑固爺かも知れない。が、論旨だけは明確であり考えにブレはない。
勿論、書込み氏全員に当てはまる言葉ではないが、ホームページの趣旨を的確に捉え、求めている論旨を真剣に理解して、心を揺さぶるような建設的な意見が欲しいと願っている。
ウイルスと見間違うようなパソコンごっこは願い下げしたいものだ。匿名だからといって何を書込んでも良い訳は無いはずだ。社会には社会を形成する社会の常識というものがある。せめて社会通念に恥ない書込みや意見がほしいと願っているホームページだ。
鬼の会というネーミングがおかしいというなら、せめて無視して欲しいものだ。泣いた赤鬼のたとえもある。書込みにあったが、自作自演とは書込みされた方に失礼だとは思えないか。自分で自分を誉めたり、庇ったりするほど小生はヤワじゃない。
確固たる信念と、中央では通用する意見を兼ね備えている。単に老いたる頑固爺ではない。小生を感動させる新鮮な意見をもって対峙することだ。
小生は低俗な書込み氏を相手にする暇はないが、少しは小生のホームページに関心を寄せてくれた部分にだけ感謝申し上げる。

「弱い善人は最も嫌いだ」。

2004/07/21 (Wed)
ここにきて色んな書込みが増えてきた。アクセス数も62,500と一拳に増えている。結構なことだが、心労も同時に重なる。
いま行政に対して理が通らない古紙処分について追求している最中だが、議員や市職員からの評判は著しく悪い。
米沢市民として、お上のやることに批判をカロえることは、とんでもない奴だと決めつけられているようだ。
それはいいとして小生が常日頃、苦々しく思ってきたことを、はっきりと言いきってくれた経済学者がいる。
その学者の名前は森嶋通夫氏。
ある新聞社の主催する経済関係の出版文化賞に氏が内定したので、担当者が「おめでとうございます」と受賞を電話で知らせたところ、氏は電話口で答えた。
「おめでとうとは受賞が光栄な場合に、第三者が使う言葉で、君の立場では受賞を受けていただけますかというべきだろう」相手は言いなおしたが、氏は「欲しくありません」と即座に断ったという。氏の回想録を読むと「私の胸は幾分すっとした」と述べている。
担当者の非礼は明らかだが、氏のへそのまげっぷりが徹底している。
1979年7月号の文芸春秋に寄せた論文が物議をかもしだした。
「不幸にして最悪の事態が起きれば、白旗と赤旗を持って平静にソ連軍を向かえるほかない」「ソ連支配下でも、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である」と論じた。
ソ連が自滅し、北朝鮮が経済危機にあえぐいま、論旨の不明を笑うのは容易だが、きれいごと体裁で塗り固めた進歩的文化人とは一線を画した率直さが、氏の流儀であったと言えるだろう。
ノーベル経済賞の候補に擬せられた多彩な業績と、気難しげな面影を残し、氏は八十歳で死去したが、若い日に国家が軍部に引きずられる歴史を見てきたからだろうが、「私は弱い善人」が最も嫌いだと語録に残している。
氏が生涯を通して求めていたのは、大事な時に命を張って時の権力者に闘いを挑む人間であった。
小生が行政の間違いを糾すべく闘いを挑んでいるところだが、市民のための運動ではあったとしても、多くの善良な市民たちは、小生はじめ仲間たちをまさに悪人呼ばわりしている事実だ。
小生に面と向かってその言葉を吐ける人間がいたら歓迎し、言葉が正しければ尊敬もしよう。残念ながらザワ衆根性まる出しで、屋根裏で騒ぐしか脳のない「ザワネズミ」しか米沢にはいないのか。
小生は少なくとも英知をもって、米沢の青年たちに全国青年演劇大会で優勝に導き文部大臣賞を受賞させた。
また、広幡の青年団に請われて7年間指導して全国優勝という快挙を得させた。
自慢はしたくないが、米沢で演劇の指導および公演はゴメンだという気持ちが強く、少年時代から培ってきた劇作のための個人的な勉強に止めておくことにした。
外野の足まといが煩わしくて、郷里の演劇界を一時に高めた過去を捨て、雲の上の団体と思われていた「社団法人日本演劇協会」に推薦され、いまは劇作部のメンバーとして勉強できる安住の場にいる。
できれば上京して劇作三昧の生活が望みだが、小生に不似合だと陰口を叩かれてきた郷土一の佳人との暮らしを満喫してそれが望めないでいる。
いくら陰口を叩かれようと「男の価値は妻の値打ちにこそある」と信じて疑わない自分だ。小生を批判するのは自由だが、やはり「弱い善人」たちであり男らしく世の中の矛盾に闘いを挑むような人はいない。
見かけは「善人」ではあるが、表彰などにあこがれをもち、尻尾を振って権力者に擦り寄っていく弱いが善人たちなのである。
青年諸君、君たちが目標にすべきことの第一は、すばらしき伴侶を娶ることである。みめ麗しき女性は、男らしい男性に恋するものだ。
すばらしき男性よ、との評価を得るため、青年諸君もっと視野を広める努力をせよ。

ありがたきもの

2004/07/17 (Sat)
ありがたきもの清少納言といえばご存じ「枕草子」。「ありがたき(めったにない)もの」その中で「姑に思わるる嫁の君」と書いている。
ひとつ屋根の下に住む者同志は、何かとむずかしい間柄になりがちなもの。
平安京の昔から今以てそう変わってはいないものだ。「親しき中に垣を結う」と古人は教えてきた。言うは易くのたぐいではあるが、竹垣ならば相手の姿が透けて見えるし、風も通る。
それでいて一定の境界線はあり、まことに具合がいいのだ。
垣をいつしか壁に作り替え、壁の内側でひとり妄想のとりこになっている。
自分だけの城をつくるよりは、壁にくらべるとひよわで、他人の侵入を受けやすい垣根のようだが、相手が見え風通しがいい環境にいると「ありがたき」ものといっている。
どうだろう。あなたは相手に壁を作ってはいないだろうか。それでは相手の姿も見えず風通しも悪くなる。
社会性にうとい人間になってしまうということ。そのためには壁を作らず、親しき者同志、個人の尊厳を認めあうための境界線を相手の姿が見える垣根にする知恵。
コンクリートの高い塀はともかく、ブロック塀のように他人を遮断するような塀の中に閉じこもるよりは、風通しもよく、相手が見える垣根がいい。
徒然章の中でも垣根の重要性を説いているくだりがある。
遮断より挨拶である。

人は未来を後向きに見ている。

代表の素性 その①

2004/07/16 (Fri)
代表の素性 その①手前、生国と発しますのは霊峰吾妻峰を、流れの始めといたします松川の清き流れにドンブラコと、いずこから流されてきたものか、慈悲深い母親に拾われ貧乏ゆえのひもじさに耐え育った者にござんす。
時はまさに世界大戦のさなか、痩せ衰えたバングラデッシュ・スタイルでネギッ洟垂らしながらのガキ大将、末は博士か大将か夢見たときもありやした。
戦い済んで日がくれりゃ、空き腹鳴って眠られず洗濯板のあばら骨、何時かはデブといわれてみたいそれが望みでありやした。
進駐軍の去った校舎には、いずこの部屋も女の裸、ペンキで書かれたその壁を剥がし剥がして教室づくり、机がわりにミカン箱家から運んでアグラの授業。
ノートがわりに新聞の縁、ハサミで切って書きやした。風が吹けば揺れる揺れる臨時粗製の米軍宿舎、3階建ての木造校舎で学んだものは喧嘩の勝ち方で鼻血が勝敗の判定と、ガキの頃から喧嘩のルールを知りました。
夏はプールで水泳ぎ食料不足で痩せギスは、プールそば畑からトウモロコシの黒い毛をモッコに挟んで強がった少年時代の性教育の成果でありやした。
学校中に広がってプールに浮いた黒い毛が水泳競技の邪魔になり怒り狂った先生が「首諜者はオマエだ!」と体育館でのオシオキは全校生徒のいる前で「モッコをはずせ!」はナイダロよ。
オレにだって人格も少女を恋する心根も全部否定して面白れえのか先生よ。
頭にのぼった血が承知しねえ、全校生徒を尻目にスッタコラサッサと体育館を後にした。
「セン公がなんだ!スケベ野郎ッ!大事な一もつ大衆の目にさらしてなるものか」それからワルになりあした。
授業をサボッて喧嘩の練習、進駐軍からパクってきた中古のグローブ片手に意気がる中学生でありやした。
高校1年生でボクシング部補欠、先輩の対戦相手が県チャンピオン、そこで先輩恐れをなして試合当日トンズラ決めた。
穴埋めに補欠が指名され「卑怯なり先輩ッ!」転げるように会場脱出。敵前逃亡の罪を以てナント退部の裁定。
「見てろ先輩ッ!頭脳で勝負だッ!」、昔とったキネヅカで音楽部へとまっしぐら、喧嘩の世界に引導渡し、ワルを寸時にやめやした。

低俗な論旨しか持たないのか?

2004/07/14 (Wed)
あえて相手にすまいと思いながらも、このホームページは全国に発信していることもあり、米沢市民の低俗さを哀れに思うあまり問い糾す所存。もう少し気の利いた書込みが出来ないものかねアタゴ軒原住民氏よ。男なら恥というものを知り給え。カンパするしないは個人の自由裁量。
小生を多少は知っている人物なら偏屈呼ばわりは迷惑な評価。人に素性を明かせという前に手前から名乗るのが儀礼というもの。小生の氏素性は常識な米沢市民なら早晩承知のはず。知りたければ事務所に来所してサシで調べられたし。
Mr.X氏も同じムジナか。知りたければ事務所においで。君たちはモグラかい。堂々と名を明かして書き込んできたらいい。陰にかくれた低俗な書込みはあまりにも哀れだ。男なら天下に向かって大声で己れの考えを吠えろ。少なくとも小生は行政の厚い壁に同かつて吠え捲っているのだ。
ヒボンの騎士氏よ、なんでも自由とはいかないものだ。どこから仕入れてきたのか知るよしもないが「怪文書書き」とはなんたる所業の矛盾。人を評するにあたっては、己れの名を名乗った上で許されることだ。君のような人物はモグラ族というものであって、そんな意見は社会通念上、まともに扱われない類のもので、己の所業を哀しむことだな。
怪文書の定義は書き手不祥か、出所不明な文書をいう。小生は自分の名を書かない文書は世に出したことはない。但し、小生の標的になった悪はどんなことでもいうだろうがね。そんな奴らのいうことを真に受けて人物評価をするなどの行為は全く無にひとしいものだ。
この掲示板を低俗なものにする考えは毛頭ない。暇つぶしの低俗な書込み参加は止めてほしいものだ。故郷の進展には何も役に立たない意見が多く、こんな人物だけが米沢市の住民であるのかと慨嘆するばかりだ。男なら社会の問題点を的確にとらえて、吠えてみろ。矛盾に吠えてみろ!
まず、投票をしたか。国民年金を支払っているか。そこからだ。
ドロドロ駐車場であるかぎり雨降りの投票所には行かない、これにも呆れる。ドロドロが分かっているなら雨靴を履いてゆくべきだし、単的に国民の権利を行使する気持ちがドロドロ道に負けたということだ。悪しからずという前に投票したまえ。そんなグズ根性ではもはや有権者とはいえないだろう。
小生の著作は全国の県立図書館で見られる。一般的な著作と違い舞台劇の台本であるから諸兄らは目にすることはない専門書だと思ってほしいものだ。
鬼の会は真剣に行政に対峙している最中だ。つまらない書込みだけは止めてくれないか。落書する場所が違うんじゃないか。
事務所においで。事務所は気楽な会話と旨いコーヒーで歓待するがな。

住民監査請求する理由

2004/07/10 (Sat)
当ホームページで、「米沢市が回収した有価物資の代金は、過去5年間で2億数千万円、今後安部三十郎政権中2億数千万円、合計5億円」の扱いに疑惑有りと報じてきた。その件に付、市長に直談判をし、且つ議会でも審議されたにも関わらず、改善の兆しは微塵も感じられない故、鬼の会は住民監査請求をする準備に入った。この事を広く市民に周知してもらうべく「米沢新聞」に投稿したところ7月8日に掲載されたので目にされた方もおられると思うが、その全文を下記に記す。
【米沢新聞・読者の声】
現在、私は個人的に住民監査請求の準備中である。市民の誤解を招かないためにも概要を説明しておく次第。
古紙価格は国際相場の高騰が続く中、多くの自治体では市民から集めた古紙を売却し、その売却益を歳入に繰り入れ活用しているのが常識となっている。
福島市では年間六千万強が古紙の売却益となり、隣地区の長井市・飯豊町・白鷹町の場合、収集運搬業者に競争入札制度を採用した結果、収集運搬費がゼロになったばかりか年間三百万円の歳入となる。
小国町では収集運搬費を年間一千六十五万円が競争入札の結果、なんと百四十万円に激減した。
この事実を踏まえて米沢市も競争入札によって公平を期すべきだと申し入れた。ところが、行政は頑として言を左右に多額な収集運搬費を払いつづけている事実。
市民共有の財産をこともあろうに収集業者に勝手な処分をさせてきたのである。
その額、小生の調査で五年間で約二億円強だ。他市では歳入扱いだが米沢市は価値あるものの活用する知恵すらなく、ただ業者の懐に捨ててしまったことになる。
六月の議会で二議員が古紙問題を追求したが裁量者の市長は何も答えられず担当部長が意味不明の法律論を棒読みして議員の追求をかわし制度を変えようとする意識はサラサラなく議員を瞞着する態度に徹していた。
市民の共有財産ともいうべき巨額な価値を生み出した古紙代金二億円の行方を明らかにするとともに、巨悪の根源だとするかぎられた業者との随意契約を廃止して他市にならんで公平な競争入札を取り入れ米沢市の財政に活用することを提唱しつづけているが今もって提案を無視しつづけているのはなぜか?
議会では議員の質問に答えて市民性悪説をまくしたてる担当職員。
これには傍聴席にいた三十名からの市民が激怒する始末だ。市職員の不祥事が続いている今日、反省どころか市民無視の行政態度が続けられている。
市長室の壁に「自由の風」なる奇妙な旗が飾られている。どんな展示物も市長裁量で展示できるものらしい。あの旗は市長個人の選挙用の旗印であろう。市庁舎を訪問される客にはすこぶる評判の良くない行為だ。
どうしても必要なブースだというならば「国旗」もしくは 「米沢市の旗」を掲げるべきであろう。
現在、一般廃棄物収集運搬許可業者が米沢市に十三社あり鉄の団結で米沢市に圧力をかけ新たな 業者が許可を得て参入するのを阻んでいるとの噂もあり米沢市の行政は完全なロボット状態なのだ。
行政側もノーテンキなもので、許可を出さないのは違憲であるとの最高裁判所の判例が出ているにもかかわらず県に相談しているところだとトボケた答弁をして恥じない担当部長なのである。
答弁を回避する市長にも呆れかえるが、市職員の能力に陰りをみる思いだ。
ここで古紙二億円の追求の手を休めずこれを機に市職員の奮起をうながしたいと望んでいる。
米沢市 鈴木富夫

書込み氏諸兄にひとこと

2004/07/09 (Fri)
書込み氏諸兄にひとこと「世間を偽るには世間並みの顔をなさいませ」シェークスピアの劇中セリフである。
大方の人間はいかにも常識的な社会人顔して、本音で物言うことを恐れる。まして、体制に向けて矢を放つなどは常識的な人間ほど避けるものである。
だが書込み氏の諸兄らに見られるように、個人を攻撃することは一人前であるがほとんどの書込みに感動するものが見当らない。
大げさな言い方をすればテロ活動のはじまりは世間並みの顔に同化することである。
動物でいえば偽体だ。いずれも目的を達するための「偽りの姿」である。
書込み諸兄にお願いしたいことは無論「匿名」で結構だが、少しは意見らしい意見を開陳していただきたいものだ。「意味不明の書込み」や「単なるヤジ馬根性」「低能丸出し」「自分が通報すれば済むような事柄」などは、世間並みの顔した書込み諸兄だと思うと哀しむべき隠れた市民の存在を知らされる。
少なくとも戦後の復興期に青少年時代を飢えに耐えながら、祖国の未来をひたすら信じて生き抜いてきた小生らである。祖国日本・郷士米沢市にもつ愛国・愛郷心は確実に育ってきた。
書込み諸兄に言いたい。コンピューターを駆使できる人物であれば少なくとも低能に属する書込み氏ではないはずだ。にもかかわらず、書込みの低俗さは予想外だ。
世界を広く見聞することも、書籍を数多く読むことも人によっては幅を広げる修業になる。書込みの中に「なぜ、人の金をあてにしなければならないのだ」があった。自分ひとりが社会を離脱して生きていの感覚ならば、それもいいだろう。が、残念ながら地域の中で暮らす以上、地域の豊かさが生活を左右することになる。
寒山拾得でもあるまいし、深山の寺に籠もって山の上からエヘラエヘラと里の出来事を揶揄する姿は似合わないからだ。
祖国・郷士愛があるからこそ国民は高い税金を支払い、市民は行政を信じボランテァにも汗をながしているのだ。
米国は個人主義が基本とされる民主主義である。日本人のいう個人主義とは意識する次元が異なる。個人主義を保持するために国家があり、国家を侵略されないために軍隊がある。
日本のように侵略される危険はないとするノーテンキさはどこの国を探してもこの地球上には存在しないのだ。
「悪の論理」の著書は、世界の列国は常に領土の拡大をはかり、ために紛争は絶えず、戦争に拡大していくのだと断じている。
世界列国が手に入れたいと願う場所は「エネルギー豊富な地」であり「実り豊かな地」である。
書込み諸兄氏よ、すくなくとも地域の豊さを求める考えに撤せよ。
そしてどうすれば豊な暮らしの営まれる郷士になるのかを考え、手をそめる知恵を育てようじゃないか。
その想いを強くした考え方から、このホームページを開いたつもりだ。願わくば匿名でなく堂々と自己主張する書込み諸兄であることを祈って止まない。
小生は陛下と同年の昭和8年生まれの71才の青年である。

カリブの藍・ミクロネシアの青

2004/07/08 (Thu)
カリブの藍・ミクロネシアの青各地で海開きが行なわれるシーズンとなった。海難事故のないことを祈るものだ。
きれいな海といえば日本では沖縄ということになる。が、能登半島の海もきれいな部類に入るだろう。
海に色を求めるならば昨年10月に訪れたメキシコ政府肝煎りのリゾート・カンクンのカスピ海の藍やミクロネシアの青一色に染め上げられた海の色は、日本では到底想像もつかない透明な色合いを見せてくれる。南国の太陽の強さと珊瑚瑚礁の白い砂からの反射も重なってこの世の色とは思えない。
海に縁遠い米沢市民にとっては、日本海・太平洋のどちらに出るにしても2時間30分の長旅になる。加えて炎暑の中を延々とつづく海水浴客の車の列だ。
クーラーで冷えきった体を休む間もなく海水につける。これじゃ体に負担がかかり疲労感が増すだけだ。帰りの事故は疲労感からくる居眠り運転が多いようだ。一時の解放感も大事だが、あたら命を開放しないようにほどほどの楽しみを。
さて、避暑といえば海水浴だけにかぎらない。深い森に入って森林浴もすばらしい命の洗濯になる。湖があれば楽しさが増量するものだ。幸い米沢近辺には適当な森林が無数にある。海でバーベキューと洒落るのもいいが、やはりバーベキューは山野が似合いそうだ。
気軽にテントを張って一夜を飲み語り明かすのも大人であればこその特権だ。野営の道具がなければ裏磐梯の環境庁のキャンプ場がいい。野営の準備も揃っているし、飲み物や食物の材料を里から調達してゆけば万事はOKである。
夜中には翼で風切るヒヨドリの生態、早朝から囀りはじめるウグイスの声など、山野ならではの癒しのプログラムが満載の世界が米沢市には手の届くところにある。 「遠い神様」よりは足元の「氏神様」の有り難さに目を向けることも地域民の知恵というものであろう。
万世小学校の校舎は「埋蔵文化財の保管場所」になっている。校庭は草むらのまま空き地になっている。
小生は以前、校庭に縦穴住居などの縄文文化を開陳することによって、学童の埋蔵文化開眼に寄与することが出来、加えて米沢市の玄関口として米沢市を訪れる観光客の視野にも米沢市の概要が映るのではあるまいかと行政に提言したことがある。が、行政の目には観光は水商売のやる事業ぐらいにしか解されなかった。
八シ岳のふもとにトンガリ遺蹟群があり、登呂にはキチンと整備された遺蹟がある。いずれも名所として人々の注目を集め観光客が絶えない。無いものねだりは出来ないにしても、地元から産出した文化財を披露するぐらいの努力はすべきものだ。
行政の文化音痴は伝国の杜にもいえる。仙台市の美術館では現在モネの作品展を開催しているが、モネを鑑賞するため炎天の中にもかかわらず長蛇の列はすざましいばかりだ。
上杉の財宝ではあろうが「人殺しの道具」展示は時代錯誤と思えないか。年間数億円の維持費を費やして何の博物館の存在意義があろうか。
小生は美術館を建設すべきだと提唱して12間にわたって市民とともに「文学と美術の旅」を続けてきた。山梨県立美術館のミレーをはじめラファイロ前派展や富山・福井近代美術館・長野美術館・信濃デッサン館・美しが原高原美術館・藤村記念館・上野西洋美術館.東京近代美術館などなど鑑賞し感動を深めてきたものだ。
行政は上杉の亡霊から抜け切れず上杉家個人の所蔵する文化財を財団に、上杉の当主を財団の理事長に仕立てあげ月100万円也の給料を支払うことで手を打っただけの安易な方法で造り上げたものだ。
博物館としてはおかしなことだが、能楽堂が異彩を放っている。が、元国立能楽堂主事を退職した小生の友人は米沢市にある能楽堂の存在すら知らない不思議さ。
桜の季節には「桜街道」なる米沢市を除いた置賜の歳事が盛んに宣伝され大勢の花見客で混雑している。米沢の桜も他所に遅れをとらないものだが、なぜか「桜街道」は南陽市を拠点に白鷹町までつづいている。
そのわけを行政に尋ねたら「あれは二市二町のやっていることで米沢市はとくに参加していないのだ」と呆れた返事が返ってくる。主催市町村に頭を下げても米沢市も組み入れていただきたい」と依頼すべきだと思うが行政の観光文化音痴にはヘキレキするものだ。
米沢市の行政が向いている方向は「土木建築」である。うがった見方をすれば業者からのオコボレを期待しての行政指向ではなかったか。古参県会議員は本会議を無届け欠席して新聞に報道されるなど、米沢市の恥部は広がるばかり、このあたりから米沢市行政の隠された何かが匂ってくるのだ。
たしかに「教育・文化や福祉は金食い虫」ではある。都会指向でコンクリートの建造物を増やしたからといって、名所となる建物ではない。
書込みにあるように駅舎はチンプなクラフト細工でありモーテルを想像させる建物である。黒川紀章が「モーテル風」と椰楡したのが悪口のはじまりであろうが、城下町という認識が発注者に少しでも介在していれば、駅舎の風情も町のシンボルにふさわしい建物になっていただろう。
ド田舎者が貧しい発想を実現させようとして他の意見を取り入れる器量がないことから後になって悔やむことになる。
県は「紅花路」とうたって山形県の観光を全国にPRした。観光客は不満をこめて語る。「栗子のトンネルを抜けると山形県だ。だが、期待の紅花の姿はなく、聞くと寒河江市にはあるだろうという。観光客をバカにした話だよ」と怒る。
玄関口の米沢市には、どんな形であろうと紅花を咲かせて迎える気風が第一の義務であろう。行政は「企画と実情」はどうでもよいのであるか。
いいたいことは幾らでもあるが、公務員の中にもすばらしい発想をもつ人がいるに違いない。それらが表舞台に活用されないわけは、退職間近の部課長が「その意見はすばらしいが、オレが退職した後でやってくれ」と、部下の失敗によって退職金にキズがつくことを恐れているだけのことである。
市民への公僕意識があれば「すばらしい企画だ。存分にやってくれ、責任はオレがとる」などと励ます上司は万に一人もいなくなったということだ。
本日、自ら悪党党主を名乗るハマコウの応援を受けて、必勝を期している自民党候補者がいる。議員としての資質はともかく、いやしくも現職の参議院議員が、TVタレント・ハマコウの知名度をあてにした選挙戦では、百年の恋も夢から覚める思いである。人には節操というものがある。まして公人たる者が卑しすぎる行為だ。
恥を知れッ!と、叱咤しなければなるまい。国会議員にしてその程度の政治感覚であるか。
ならば安部三十郎市長に注文をつける方が無理無体と承知すべきか。

長蛇を逸した米沢市の行政感覚

2004/07/04 (Sun)
長蛇を逸した米沢市の行政感覚谷崎潤一郎が歌を詠み、棟方志功が版画に彫った、何とも贅沢な中公文庫の近刊「歌々版画巻」がある。小生は谷崎が書いて棟方が彫った「鍵」の初版本をもっているが、いまでは珍本の部類に属するものであろうか。
かつて、木村県会議員が在職中に、美術館建設運動真っ最中の小生に提案したことがある。「どうせ米沢市に美術館を造る構想があるならば、世界中から来館するような館を策定すべきものだ。それには日本の浮世絵の本物を展示することだと思う」なるほど、東京でその一部を見たが、絹地に岩絵の具で書かれた浮世絵のすばらしさに驚嘆したものだった。
浮き世絵コレクションで著名な某資産家が収集した大型の逸品が50点あまり、当時の価格にして数億円を越すものだった。このコレクション、家族に興味をもつ人がなく売却の憂き目にあっていたものだった。
今、伝国の杜博物館が所蔵していたならば、米沢市は様変わりしていただろうと思われる。前市長にこの提案を持ち掛けたが「文化音痴」で知られる市長だけにケンもホロロで聞く耳さえもなかった。
ある劇作家の集めた蔵書が住まいとは別のマンションに二部屋ほどに山積みされて家族が困っていた。わが国でもこれだけの演劇専門著書を集めた人はいない。
専門といわれる大谷図書館でももたない書籍がメジロ押しに並んでいる「都会の住宅事情では困難だが、この書籍を大切に保存してくれる素封家はいないものだろうか」と、小生が相談を受けた。出来るなら「演劇図書館」にして内外の演劇関係者が来館するような米沢市にしたい。との考えから市長に提案したが、浮世絵すら首を縦に振らない市長が、米沢市に演劇図書館構想などは問題外だった。
結局、億単位の金で引き取られてしまったが、当該図書館は全国から訪れる演劇人で賑わっている。米沢市を変える材料として、二つの提案を理解できなかった前市長が長蛇を逸したことの過ぎ去った話である。

都会思考は田舎者であることの証

2004/07/03 (Sat)
♪柳あおめる日 ツバメが銀座に飛ぶ日---は、歌の文句だ。が環境の悪化によって銀座でツバメの舞う姿は見られなくなったが、柳並木は健在である。郷愁をそそるような故郷指向は、現在の日本では問題外になったようである。故郷といえば「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川---」で代表されるように、幼き日駆け巡った山野であり、小川のせせらぎであろう。
環境の激変によって、よほどのド田舎でなければ夢にまで見た幼な心が癒される場所はない。
木の香りなつかしい木造の母校を尋ねれば、鉄筋コンクリーの真四角な建物に変わり郷愁どころか、冷たい拒絶感にさえなまれて、なつかしさは途切れてしまう。
校歌も様変わりして思い出のひと片らも残ってはいない。
書込みにある町名変更はご指摘のように行政を代表する愚かしさだと同感する。
小島氏の提唱によって旧町名の復活運動はわずかながら続いているのかも知れないが、町名変革もド田舎的発想だと小生も考える。
アスファルト・ジャングルに疲れ切った都会人たちが、こよなく求めるのは山紫水明の山野であろうし小鮒泳ぐ川面なのであろう。
米沢市が逆さになっても為政者指向の都会化は所詮無理な望みだ。米沢市が生き残りを望むのであれば「城下町の風情を残した日本一の田舎づくり」を策定することだろう。そこから米沢市の明るい未来が見えはじめてくるのではあるまいか。
小野川温泉街を中心とした季節の「ホタル祭り」は大変結構な祭事だが、聞くところによると「ホタルの養殖」などの努力は一切せず、周辺から飛んでくるホタルだけに頼りだけだという。
こんな風ではホタルに郷愁を求めてくる客に失礼だと思わないのであろうか。心がド田舎の旅館主の集まりでは温泉の未来はないのだ。
小野川温泉旅館のもてなしには郷土の産物が色薄く、冷凍食品や既成食品の食膳はあまりにも貧弱というものだ。
中津川地区のホテルで出会った食膳には、郷愁を満喫させて余りある接待であった。プロの仲居がいるわけではない。地域の人達の心のこもった接客態度に癒され、再度、友人、知人を誘って行きたくなる憩いの場である。
あの熱海温泉が今や廃墟同然の温泉地となり、隣の飯坂温泉はみるも無残な過疎温泉地に成り下がりつつある。明日あるために今日の叡知が望まれるのはひとり温泉地域だけじゃない。行政が望まれるのは、米沢市が向かうべき哲学的な方向づけであろう。

期待を裏切る米沢市観光行政

2004/07/02 (Fri)
期待を裏切る米沢市観光行政過年、上杉城史苑が開業した時、会津復古会の幹部たちが見物にきて大笑いして帰っていったという事を会津で耳にした。
理由を聞けば「米沢市随一の観光名所だというに、こともあろうにあの建物の景観はなんだ。よほど米沢市は裕福な市で金の要らないところらしい」と、皮肉まじりに話し出した。
会津流にいえば、① 城下町を彷彿とさせる建物を造り、外部からは店内が見えないような作りをして「中に入ってみたいナ」と興味を引き出す。② 出来るならば入館料がとれるような建物が好ましい。③ 館内は博物館とはいわないまでも、上杉の城下町の再生模型や、鷹山公の善政と世界に誇る伝国の辞などの展示室などがあって、④ はじめて土地の産物を中心とした土産物や鷹山公の伝国の辞などの歴史を彩る軸や置物などを、米沢市を訪れた手形代わりになるものを販売する。
街路からまる見えの喫茶室の設計には無理がある。窓際の椅子に腰をおろせば下着が丸見えになる設計で、あの低い位置から見えるものは何かな?と考えてしまう。
観光に力点を置いた会津観光の要にいる人達の米沢観光施設批判だ。
小生は過去に米沢村なる観光臨時施設を主催した経過があるからご存じの方もおられると思う。したがって観光行政の貧しさは身にしみているところだ。
だから若い人達が観光客を迎えるための関心が育っているのは喜ばしいかぎりなのだ。
ところで、飯豊町「道の駅」の土日は満車の繁盛だが、小国町「道の駅」は淋しいかぎりだ。ふりかえって米沢田沢地区の道の駅はどうだろうか。
「道の駅」が対象にするのは主に車による観光客であろう。だとすれば、駐車場のあの狭さは基本的に間違いである。しかも、村の産物であろう「そば」の味に疑問が残るし、土産品の大方はクダリモノと呼ばれるもので地場産でないところに客の支持は薄いようだ。
その点、飯豊町の場合は、地場産の野菜・牛肉・山菜などに客が集まって賑わいを形成している。
要するに成功の鍵は地場産業の復活と開発が同時に進行させられるかにある

議会事務局とはどんな仕事をしているのですか?

2004/07/01 (Thu)
議会事務局とはどんな仕事をしているのですか?高橋ひさし議員が小生に対して「デタラメいうな!議会の議事録を読め!」とのお説であるから議会事務局に電話で「議事録を見たい」と問い合せてみたところ事務局の返事に驚いた。
「議事録はテープからおこす関係上、専門業者に外注している、9月頃でないと仕上がってこない」という。
たかが議会のやりとりを業者委託はないだろう。それでは議会事務局はどんな仕事をしているのだろうか。ましてや議会のない期間はどんな仕事があるのであるか。
テープおこしは、職員が2日もかかれば十分に出来る作業内容だ。
面倒な仕事には違いない。だからといって業者委託はないだろう。
テープおこしの出来る職員さえ配置すれば簡単にケリがつく問題ではないか。テープおこしは確かに厄介な仕事ではある。だか、議会事務局員の重要な仕事ではないか。それすらも外注しなければならないような職員たちなら職能に似付かわしくない職員達であろう。
自慢じゃないが、テープおこしは小生らに不可欠な技術だから自分でこなす。が、2~3カ月もかかるような仕事ではないはずだ。申し訳ないが小生でも、1日あればできる仕事量だと想定する。市職員の採用基準に専門職という採用法がある。おかしいのは土木建築などの積算はそれらの専門職で出来るはずだ。が、すべてコンサルに仕事がまわっていく。それでは専門職に採用されてどんな仕事が待っているというのだ。
役所とは不可思議なところで、到底一般常識では考えつかないような無駄な行為が平気で通用するところなんだと今更のように慨嘆する世界だ。

米沢の印刷技術のレベルが評価されている

2004/07/01 (Thu)
米沢の印刷技術のレベルが評価されている小生の所属している舞台専門誌「戯曲春秋」の印刷が、米沢市の某印刷所で印刷・製本することになった。横浜・新潟と印刷所を変遷しながら、17号から米沢の印刷所が担当することになったが、全国の県立図書館入りするものだけに印刷所に依頼するにも注文が多いのは当然。それだけに担当する印刷所の気の入れ方も半端で出来るものではない。
印刷文化の粋を米沢から発信されることを切に祈るばかりだ。これを機会に都市からの印刷物の注文がくるキッカケになればいいと思う次第。米沢の印刷技術が評価されたことに誇りをもってますます自信を深めて精進してほしいものだ。
こと印刷技術に限らず目をこらせば米沢には隠れた技術が多数埋もれているような気がしてならない。
問題は隠れた技術に陽をあてるリーダーの存在が米沢にはない。たとえ存在したとしても必ず「オラが天下」で足引っ張りするヤカラが多い土地柄だけに技術や学問を伸ばそうとする人達は米沢を離れるほかはない。
全く育てることの下手な町である。そのわりには、群れたがり徒党を組んでは安心している。案外、臆病な土地柄とも見える。そんな土壌を嫌って表面に出ることがオックウになる人達がいるのは確かなようだ。探せば根性のある技術屋はいくらでもいるのだが、問題は米沢市の風土がそれらの人達にそぐわないのだろう。

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