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さようなら激動の年2003年

kage

2003/12/31 (Wed)

 2003年は国際的にも国内的にも、まして米沢市にとっても激動の年だといえるだろう。あいかわらず日本人は平和ボケもいいところで天下太平を決めこんでいるようだが、それで日本丸という薄っぺらな大型船舶の沈没はないのだろうか。いかに楽観的な日本人でもそろそろ国際的な事情に目ざめなければならない時期にある。間違っても経済大国などのおこがましい夢をいだいている場合ではないようだ。たしかに日本の金融市場も国際的に消化能力を持った国ではある。が、士地成金と同様、金持ちとしての歴史的年輪を刻み込んでいない。フローでは大きくなったが、ストックおよび世界的金融ネットワークのなかでは微々たる力しか持っていないのが現状だ。昭和35年頃からはじまった日本高度経済成長政策はその構想といい、そのタイミングといい、まことに結構な政策であった。だが、事業遂行のためのエネルギーを必要とする。物理学のエネルギーの法則ではないが高度経済成長政策遂行のために、日本は自分が蓄積してきたエネルギーの一部分を投入しなければならなかったのにも関わらず、 日本はそのエネルギーを投入することなく、日本が最も大事な「心のエネルギー」とも呼ぶべきものを全部投入してしまったのです。

 その結果、確かに日本は高度経済成長政策を達成し、先進国の仲間入りを可能にし基礎づくりができるようになった。しかし、人々は手に入れたものは物質文明だけで失ったエネルギーの問題については余り気にしないで過ごしてきた。日本人の価値観は大変革したといっていい。つまり、苦しみを分かち合い、乏しさをも分かち合い、人の苦しみを自分のものと受けとめるという繊細な心配りという哲学とか価値観を完全に喪失した。そして経済至上主義という価値観が多くの日本人の心の隅々まで占領するようになった。このままでは日本沈没という悲劇的、むしろダイナミックな曰本沈没が間違いなくやってくるように思われる。いま、日本人に必要なのは、このことに気づき、額に汗を流し、せっせと貯めこんだ黒字を、世界奉仕国家にふさわしい適切に分配国家とし生まれ変わるために使うという意識革命だ。なぜか、世界を操っている国家は日本国ではないこと、日本人に見えない世界の超国家が存在するという事実だ。

 言うまでもないが、日本国はその狭間にあってどう生き延びて行くというのか。大人が、次代を背負う若者達にどう咀嚼してどう伝えていくのか真剣に考えなければならない切実な難題なのである。亡国予備国家日本をどのようにして建てなおすべきだろうか? 2004年最大の課題になろう。

 年末年始を海外で過ごす日本人が増えている。これも心の問題であろう。新年を迎えるにあたって日本人のシキタリとか日本人の感性では、家族そろって除夜の鐘の音を聞きながら、おだやかに新年を迎えたものである。他国には歴然とした新年を迎える行事があってそのシキタリを頑なに継承し国家意識を高めている。その点、国家意識の薄い日本人がひたすらに流行というバスに乗り遅れまいと貧しい努力をしているようにしか映らない。それでは祖国日本人たるゆえんが惨めに見えるではないか。日本人ならば日本の伝統文化に心を寄せる感性の持ち主でありたいものだ。

置賜のすばらしさ(漬け物と煮物)

kage

2003/12/30 (Tue)

 「オマエは米沢の悪口ばかりを言う。ちっとは良いところも宣伝せよ」高畠氏と同じことがしょっちゅう言われている小生だ。が、悪口を言いながら米沢に住んでいるのは米沢の食物に愛着があるからだ。まず、置賜地方の漬物の旨さは、西の京都とならび称せられ東の横綱の評価があるようだ。が、最近では漬物離れの傾向が多いようだ。置賜地方の風土が漬物などの発酵食品に適しているのであろうが、老齢化が進んでいる割合に昔ながらの漬物がお目にかかれなくなった。大きな木の桶に白菜や大根が山のように積けこまれ、凍てついた桶に浮いている残り柿を食べた思い出などが骨の髄まで染み込んでいる小生である。冬の白菜漬や盟いおみ漬、夏の丸小茄子漬などは何処に出しても置賜地方の白眉的な漬物 である。と小生は思っている。当地方の煮物も美味で奥深い食物だ。冬の暖房は炉端の薪で、もったいないからと、自在鍵に吊された鉄鍋が湯気をあげる。そこから生まれた煮物はことのほか旨かったという記憶が残っている。正月は当地方は鮭文化だから、コッパのようなトトに、鯉の甘煮が正月の定番料理だ。鯉の甘煮に関しては、鯉の消費量日本一の長野県で食べてみたが、佐久の鯉料理でさえ旨いと思って食べたことはなかった。お隣の会津若松市の甘煮も甘いだけで腹の据わりがもう一つだ。東山温泉もおなじようなものだ。 ごく最近、在京の劇作家が小生宅にきた折りに、家内が米沢地方の料理をつくりふるまったところ、いたく感激して帰っていったが、後日談として彼は米沢の郷士料理が旨かったので劇作家の会合をぜひ米沢の郷土料理を食べながら開きたいと言って寄こしている。 まず、関の釣り堀で釣りがけの「にじます」の焼きたてからはじめようと思っている。まちがっても伝国の杜に案内する気はない。土着のそばがきや牛肉たっぷりの芋煮など手間のかかる郷土料理がいいと思っている。泊りは小国町の五味沢の施設「りふれ」か中津川の自然にあふれた施設を考えている。話は飛ぶが「ラ・フランスは高畠産を送ってくれろ」と産地指名が出てくるだけ本物指向の人間が増えている現代である。そんな風士が支えてくれる置賜地方の未来は視点によっては発展する余地はある。置賜地方の為政者達の視点が都会化に縛られていたことから、足元の産業開発に気づいていなかったに過ぎないのだ。田畠が買収されることを喜びとする消極的な農業ではなく、生命の源たる食料の供給者としての誇りをもちつづけたいもので、置賜地方は日本の田舎に撤することが何よりも寛容なことだと思われるがご意見はいかに?

第九の響きわたる年年末行事を置賜に

kage

2003/12/30 (Tue)

 米沢市政百周年記念行事として数年前、米沢市民を中心に、高畠、南陽、山形市などの愛好会員が集い山形交響楽団と在京のソリストによる「第九交響曲」の演奏会が開かれたたが、以来、米沢市にはその企画がなされていない。当時のメンバーの有志は毎年開かれる墨田区が主催する国技館での演奏会で歌うのを楽しみにしている。全国から愛好者が集まって演奏を楽しむという大イベントは東京墨田区の名物行事となって定着している。小生の知るかぎり米沢・高畠らのメンバー30名ほどが毎年参加して楽しんでいる。

 行政も少しは無用な箱物つくりの予算を市民の名物行事として定着するような文化面に使ってほしいとおもうのだが、山形交響楽団は山形県民が育成に参加すべきものだ。半世紀前、地方都市にうまれた群馬交響楽団を羨ましく思ったものである。思い叶って小生青年時代に、興譲館高校の講堂で群馬交響楽団の演奏会を開き鑑賞したことがあった。いかにも地方楽団らしく小編成であったが、生の演奏に触れた感動は忘れられないものだ。

 米沢市単独でなく近隣の市町村が集って開く「年末恒例の第九の演奏会」がもたらす影響は大きいように思われてならない。時まさに合併論が宙に浮いた状態だ。近隣のエゴが肉薄して大問題。大事が起きてからの話し合いでは成るものも成らないのでは。つきあい方の密度にこそ問題点があるのではあるまいか。どうせ合併するのなら中途半端な合併ではなく置賜全市町が胸襟を開いて「大置賜市」を創造するぐらいの識見がほしいものだ。

 改革はたおやかに、そして大胆な発想で行なうもの。

米沢の良いところをPRしたら

kage

2003/12/30 (Tue)

 高畠町に住む方からメールが届いた。「市政を改革しようとする気持ちは分かりますがダーティな部分だけを叩くのではなく、米沢市の良いところを全国に発信されることも大切かと思います」ご意見はもっともなことだと思います。しかし、鬼の会は観光協会ではなく、米沢市をPRしなければならない業務は米沢市の仕事かと承知しております。

 ご意見に感謝いたします。高畠町や川西町の文化行事の盛んなことは小生も耳にしており、御地の音楽会にもたびたび参上し有り難く鑑賞しております。ところで、御地と米沢市の歴史的に米沢市民気質と御地の気質に根本的な違いがあるように感じます。まず、上杉藩の中心地である米沢市と御地の隣部落が徳川家直系の天領地だったという環境があります。米沢市民は藩の中心にいたことから上意下達の風潮で固まり切っており、お上崇拝の気質になりさがっているキライがあります。御地は同じ藩に属しながら、追われた場合天領に逃げ込むという手がありました。だから必ずしも上杉藩に従属しなければという観念が薄く、その環境から藩の縛りを心底から受けとめなかったという風潮があったように思われます。したがって、御地の人間性は比較的自由闊達な人たちが多いように思われます。だから掲示板ですら活発な論戦を繰り返す人たちが少ないのだと思われます。自分の意見を堂々と人前で発言することのできないのが米沢人気質で、そのかわり裏では通用もしないような陰口がカシマシイ。それが米沢衆の体質なのだと思われます。残念ながら。

 「沈黙は金」でしょうか。時にあたって「寡黙は鈍」だと思うのですが。

20年の縛りから自由の風吹く市政へ

kage

2003/12/30 (Tue)

本来、水は高きから流れ民衆を潤しつづけるものである。

 20年の高橋市政によって市役所職員の悪癖がとみに強く市政に反映してきた。と思われるふしがある。六中の体育館入札の発表間違いからはじまって、間違いを素直に認めないで突っ張りぬいた町田総務部長の公務員らしからぬ不遜さ。そして市長選挙は絶対視された本命の元助役の劇的な大敗。この原因は市民の公務員に対する反発だった。しかも、選挙事務所に張りついたのは元市役所職員たちだった。国会議員一名、県会議員3名、市会議員28名中18名、他に地区委員を配しただれが見ても不敵の布陣であった。結果は惨敗におわった。底流に流れている市民の激流に気づかなかった敗選だった。

 この結果にどれだけの市民の胸ん中をスカットさせたことか。あの平家が伊豆の山だしの源氏に破れたことも不思議な現象だが、戊辰戦争で幕府が明らかに劣性といわれた薩摩長州軍に敗退したのは歴史の証明するところだが、敗因の主因は奢りにあった。「米食った犬が叩かれず、糠食った犬が叩かれる」ような市政では市民が浮かばれない。「投票は弾丸よりも強い」のである。リンカーンはそう叫んで大統領になった。 米沢市を形成し支えているのは米沢市民である。市の職員給与は米沢市民の税金で賄われている。まず、彼らにはその自覚が欠如している。そして退職後は永田町の官僚同様、天下りして相も変わらず親方日の丸的な微温湯にどっぷりと浸かっている。

 米二中教育会報で上杉秀雄元学校長が述べている。現在は米沢市上杉博物館館長の要職にある。その館長は「おかげさまで博物館も文化ホールも多くの方に利用いただいております」と書いた。呑気な商売意識だなと市民は憤慨する。入場料やホールの使用料合わせて4千万弱の収入がいかに少ないかの認識に欠けている館長だ。必ずしも入場料やホール使用料で建物の維持管理費や建物の返済金を賄えとはいわないが、経営という感覚をもった発言をしてもらいたいものだ。経営感覚をもたない館長であれば単なる名誉職というに過ぎない、いわゆる天下り族で市民が嫌う閑職ということになる。

 小生の祖父母は教員であり、祖父は学校長であった。昔の教員は貧しさに耐えながら聖職という誇りに支えられていたから、子弟の教育には全力を傾注したものであろう。

 暗記力だけが学力を評価する現代と違って、労働の重要さを教えられて育ってきたように思う。勉強一辺倒主義からこども部屋をあたえ、部屋にこもってさえいれば親はこどもが勉強しているものだと錯覚している。こどもが一番嫌いなものは勉強を強制されることである。マンガ本やゲームをやる方が楽しいのだ。それがこども達の感性なのだ。勉強を強制する前にこどもらしくその年代にふさわしい遊びを堪能させるべきだと小生はむしろ人間にとって大切な情操教育に力を入れてきた。親から離れたところでもキチンと生きられるような教育がどれだけこども達に幸せをもたらすことになるか。教員のこども達が社会的に立派だという証拠はない。むしろ逆のケースもある。上杉館長に望みたいことは教育者は人に教えるものだという感覚を捨て、むしろ社会学を身につける努力する目を養っていただきたいと思う。そして博物館のもつ使命と経営という難しい問題に全力をあげてほしいと願うものだ。

年末にくどいようだが過払いの問題

kage

2003/12/30 (Tue)

米沢市役所のミスでは片ずけられない児童扶養手当ての1250万円について。

 市民の大方の意見として、税金を投じるのはスジ違いだとしている。山形大学の入試問題のミスが発見されて大学側は困窮した末に、結論として大学関係者全員の拠出金をもって難解な諸問題に対処したことは知られている事実だ。

 市役所の担当者全員が手分けして、過払いの家庭をまわり謝罪しながら回収に回る努力が必要であり、事情によっては回収不可能な金額は自分たちの責任として税金に頼らずに解決すること。給料だけは国家公務員給料体系を見習うのであれば、責任の取り方は山形大学に見習えばよいと単純にして明快な意見もある。一足早く、市役所は27日からお休み。いわゆる「ご用納め」、この言葉にして時代錯誤。言うならば「仕事納め」でいいものを一体、何様だと錯覚しているのか。公務員の使命とは、市民のために奉仕することにある。年末・正月を返上して当該家庭を回る時間が出来たではないか。

回収業者を縛る行政の裏側

kage

2003/12/29 (Mon)

在職20年という長き市政を眺めてみると、市政との癒着かと思われる様々な弊害が続出している。まず、新参入を希望する廃棄物回収業者には、既存の業者で間に合っているからと認可を与えないのが米沢市政だ。本来、仕事は本人の自由意志に基づくものである。 仮りに、廃棄物回収業を希望する者が一般廃棄物回収の認可をとろうとして市役所の係に行くとする。係は「回収業者の数は間に合っているので」とスゲもなく断る。特別なルートがあって「100万円出せば組合に入れるようにする」と金員を要求する。担当の係員のガードはことのほか堅固だ。だが例外もある。前市長と臭い間柄をささやかれてきた株式会社シグマ(社長・情野和義)にはわけもなく認可しているのだ。しかもこの会社は回収業務を現在も行なっていないのだ。吾妻スキー場の役員で100万円を役員手当てだとして山分けにあずかった人物だから市役所にも問題の責任はある。こんな具合だから市の行政の中身はゴミだらけだったとオチがついているのだ。

 市の行政に手落ちはないと断言する町田総務部長のような無責任なヤカラもいるが、現在市民が注目するのは「児童扶養手当の過払い問題」だ。多くの意見は、どこの会社でも責任は決済印を押した人の責任となるスジのものだから、担当職員の責任で回収努力をするか自腹を切って穴を埋めるかして、仕事の怠慢と緊張感を味わうべしとの意見が圧倒的だ。「もし、安易に市費を使うようであれば鬼の会は税金の不払い運動を提唱せよ」とのきつい注文がある。公務員は市民の奉仕が義務ずけられているはずだ。ならば黙って己れの不 始末は己れたちで解決すべきものだ。市民の頼みには高圧的で、手前の仕事上のミスには 税金で補う? こんなメチャクチャな論理はどこの社会にある。もっと恥を知れ公務員! 安部市長! 市会議員諸君! 市役所職員の怠惰と責任回避を追求せよ!

「吾一のチリ紙交換がまいりました」

kage

2003/12/28 (Sun)

本年四月の市議会選挙に初出馬して、次点に泣いた元NCVの放送記、者斎藤吾一さんがチリ紙交換車を走らせている。「告示の短い期間だけ、やる気もない公約を並べ立てたるだけの見世掛けだけの選挙では市民の心がつかめるものではない。安部市長は草の根選挙で確実に市民の考えていることを掴んでの勝利だった。安部市長に即発されたことを素直に実行することにしたんです」そこで選んだのが市民と直結するチリ紙交換だという。「なかなか大変な仕事だが、古紙に新たな命を吹き込むリサイクル運動は、古紙不足に悩む中国に送り込む仕事に繋がっているから、いわば国際交流と市の生活廃棄物処理の一石二鳥になる。来期の選挙に向かって米沢市をきれいにしますよ」志しは良し、来期の当選を祈る。

安部新市長本領発揮する

kage

2003/12/27 (Sat)

12月26日に開かれた「合併特別委員会」は、安部市長の初めての委員会出席であり試金石ともなった。冒頭のハイライトは菊地富蔵議員との応酬だった。

 菊地議員「議会は民意の集約点である。市長は民意を問うというがそれでは時間が問に合わないのではないか? なぜ議会で決められないのだ」

 安部市長「私は民意を聞いてからやると公約して市長に当選してきたのだ。民意を問うのはあたりまえだ。

 菊地議員「市長の考えを聞かせてほしい」

 安部市長「これから民意を聞いてからという時に、私の考えが民意を誘導するようになっては、真の民意ということにはならない。したがって私の考えを述べるのを控えたい」

 見事な市長の対応だった。菊地議員の発言には議員としての奢りがある。たしかに議会制民主主義からすれば、制度としては菊地議員の発言は正しい。が、議員としての資質を反芻してこそ制度上の権利を述べるべきだった。市民は議員にすべてを負託した覚えはない。立候補する人物が必ずしも市民の負託に答えうる人物だとは考えにくいからだ。

 したがって、安部市長の発言が正しい。市民はこのたびの児童扶養手当て過払い問題にことのほか過敏になっているが、議会はなぜ問題視しないのか。市民の怒りが沸騰している。それもお座成りにして、なにが議会は民意の集約点だ。猛省せよ。

 合併問題には高橋前市長は「泥をかぶっても成功させるッ!」と意気軒昂だったが、相手から断られっぱなし。さて、安部市長の合併論はいかに?

「最上川源流を守る会」の反対運動に異義あり ②

kage

2003/12/27 (Sat)

住民反対運動の趣旨が純粋でなければ、社会機構上必要だとする「廃棄物終末処理場」建設の反対は無意味で理屈が通らない。たとえ必要悪な処理場だとしても社会が産み出した産物である。したがって社会はそれを理屈なしに処理しなければならない。どこの家庭にも排泄所があるように、人間の生理上なくてはならない場所である。出来れば不要に願いたい場所でもあろう。ペットブームで愛犬家や愛猫家が増えているが、便の躾が大変なものである。ペットを飼ってみたいが便の始末が嫌だからという人は便をしないロボット犬を買って楽しめばいいだろうが、豪華な夕食を飾るビーフやチキン等は食卓に供するまでには大量の餌を食べ、大量の便をして成長した動物達なのだ。食べては美味なそれらの動物を手塩にかけながら、大量の便を処理してきた飼育家がいることを忘れてはならない。

 いうならば終末処分場は、人類が排出した人類の便所だと考えるべきが妥当だと考えたい。処理場を床の間に隣接して建設するのは馴染まない。したがって、人里遠く離れた場所につくることになるのは必然性からだ。反対運動は不幸にしてそれらに暮らしする人たちの中から起こる。問題は処分場建設用地に土地を売った人と売買に関係のない住民たちとの間にコンセンサスがあってのことかどうかだ。この種の問題の底流にあるのは例外なしに金銭に絡む扇動者の存在があることだ。この場合はどうだろうか。

 安部市長に提出した要望書の中身は見てないからわからないが、読売の報道では、その要望書の中身は企業形態と不純さをあげつらっての反対のようである。が、その問題は行政と企業間で解決すべきことである。たしかに当該処分場建設再開にあたって風聞が流れている。荘内銀行の不良貸付解消の迂回融資だとか、タクマ進出の黒い影など、高橋院政によって大久保市長実現の必要性などなど。問題にそれらを加えてはスジが通らない。

 住民反対運動は純粋な住民の視点で起こすべきことだし、因果関係をキチンと証明する準備を完壁にそろえなければ訴訟には勝ち目はない。

 昭和42年の奥羽災害で小国町が完全に孤立して陸の孤島化した時を思い出してみたい。

 ご存じのように小国町には東に通じる一本道しか通っていない。災害を期に小国町政はもう一本の道路の建設をという悲願から朝日大林道の計画を立てた工事ながら「いぬ鷲の生息地」だとして工事が断念された。動物愛護団体の強い要望から出たものだったと記憶している。たしかに「いぬ鷲」も「ホタル」も「カジカ」の生息も大切なことかと思われるが、地域住民の生活を比較した時に「住民の生活環境」を優先させるべきが素直な感慨だと思われる。最終処分場の排水がそれら動物の棲息地を汚染させる怖れがあるとするならば、処分場の排水基準の管理に監視の眼を注げばよいだけのことだ。

 あくまでも住民エゴから発生した反対運動は社会性に欠けるものだ。

小国のマタギ部落で笑ったはなし

kage

2003/12/25 (Thu)

稽古の合間にマタギ部落を取材に訪れた。マタギの長老に会って話を聞いている時に動物愛護協会のメンバーが長老に会いにきた。「なぜ熊を殺すのですか?」などの質問ぜめで不機嫌になっていた長老に向かって、帰りぎわに「熊が現われたら、どうすればいいでしょうか?」と問う愛護メンバーに、長老が答えた「おまえさん達の名刺を熊に見せたらええべな」「?」わからなくて怪訝そうな顔をしているメンバーの顔をみながら、私は長老のジョークの確かさに声をあげて笑ったものだ。長老のいう名刺とは動物愛護協会会員のロゴ入り名刺のことだった。いつか戯曲で便わせていただくつもりだ。

「源流を守る会」の反対運動に異論あり

kage

2003/12/25 (Thu)

 産業廃棄物最終処分場に反対する8団体が、登庁2日目の安部新市長を訪ねて設置反対の要望書を提出したと新聞が報道している。まだ、米沢市の全容も理解していない市長にこのように難解な要望書を提出するにしては余りにも早すぎるという感慨を覚えた。

 「産廃から最上川源流を守る会」今洋一会長に一言申しあげたい。理由として貴会があげている三項目はいずれも企業の在り方に問題がある趣旨のもので、それを理由にした反対運動を起こすには運動の理念にそぐわないと思われる。

 数多くの産廃処分場の建設運動の主体は「水」の汚染と地下浸透問題である。社会に利便性をこよなく求め、その便利さだけを享受するという人間のエゴイズムがもたらし易い反対運動のひとつだ。原子力発電所の建設運動にも似て、反対するなら国民は申し合わせて電気の使用量を減らす運動に切り替えるのがスジではないだろうか。同じく産廃処分場 の建設反対からゴミを減らす運動に頭を使うべきがスジだと思われるのだ。

 生ゴミなど昔はどこの家庭からも出なかったものだし、各家庭の有効処理によって処 分されていたものだ。戦後、化学肥料に毒された結果、土は痩せ細り有機栽培などおよそ覚束ない土壌に落ちぶれてしまったという悪癖が生まれた。生ゴミと称される家庭から排出される生ゴミは例外なく肥沃土壌にする材料となっていた。理想的には生ゴミは焼却法をとらず土壌改良材として土壌資源とすべきなのだ。が、行政がその発想に至らなかっただけのことだ。私の知るかぎり、宮城県にはハザカプラントを活用して生ゴミから良質の堆肥を製造している施設がある。ゴミは燃やして目の前から消えてしまえばそれで済むという単純な行政の処理方策が最終処分場などの反対運動を醸し出すという結果になる。ひ弱な行政感覚からすれば焼却によって発生するダイオキシン等に慌てふためき、改善のため に大切な税金を投入せざるをえない結果となっている。しかも処分場建設反対などの住民運動も出なくなる。すべての責任は行政感覚の貧しさから発生したものだ。

 生ゴミの処理に焼却法を続けていくかぎり焼却灰が出る。その焼却灰の処分のために最終処分場の施設が必要になるという具合だ。解決の最短距離は発生源を減らすことにある。

「チリ紙換さん、いらっしゃい」

kage

2003/12/25 (Thu)

 ある主婦からメールが届いた。「毎日楽しみに見ているのに、どうしたの3日もサボッちゃって」と前置きしたメールには主婦らしい古紙回収の活用方法が述べられている。「古紙がお金に代わるなら」と私たち主婦仲間で話し合いました。最初は仲良し同士のホームパーティを楽しむことにしました。月に一度としたのは新聞紙1カ月分を単位にしたことと、それにあわせて日を決め、家庭の古紙を整理する。それを古新聞紙と一緒に持ち寄って集荷していただき、そのお金で親睦ホームパーティを楽しむ」というわけです。そのパーティの中から発展的な主婦型活動方針が生まれてきそうな気配がします」としめくくられてあった。

「毎度おなじみチリ紙交換車」がご家庭にまいります。

kage

2003/12/24 (Wed)

 不況にあえぐ各業界の中で、大車輪で活躍しているのが古紙回収業者だ。この業界、庶民の目が届かない世界だけに意外と知られていないのが業界の裏側のようだ。

 最近、米沢市中田デーラーJA街に新規開店した古紙回収業者は北関東一円に100カ所の古紙回収センターを持つ「小野寺グループ北関東通商株式会社」だ。東北地方では当市と山形市の2カ所にオープンさせた大きな理由には、両市ともに古紙回収業者が市民から買い上げどころか逆に客から回収料を徴収して、莫大な利益をあげていることが判明したことが一つ。昔から古紙回収業はキチンとした買い上げ金を渡した職業で庶民にとって重宝された業務であった。職業として成立しなくなったわけは、国内の製紙会社が談合して安値安定策をコントロールしてきたからだ。だが本来、古紙相場は国際相場が優先するものだ。したがって、ここにきて古紙相場が急上昇したわけは、中国全体にパルプ材が不足し、特に北京オリンピックや上海で開催される万国博覧会などで古紙が求められているからだ。中国だけでなく東南アジアの古紙不足は年々増加傾向にあることなどだが、それに比して日本は世界一の出版数と新聞の普及率の高さがあるにもかかわらず、リサイクル的観念に乏しく世界的古紙不足から相場が上昇しているのに庶民は古紙が金銭に代えられるという意識に欠けている。ゴミ集積場所に出しさえすれば行政が処理してくれるものとして便利さだけを重宝し古紙を邪魔物扱いをしてきた。

 そこで米沢市の古紙回収業者の実態はというと、協同組合方式を採用して回収費用は行政が支払いタダで集まった古紙を圧縮・発送だけの単純な仕事で売り上げている。仮に多量の古紙・ダンボールを集積場に運んだとしても台計りで計量するどころか、処理費用が免除になるだけが現状だ。正直、今まではそれでも厄介な始末が出来て便利だった。しかし、古紙が金に代えられるとなると条件が違う。古紙を運びこむ費用やガソリン計算もしたく成ってくるものだ。古新聞紙がキ口当たり10円、雑誌8円、ダンボールに至ってはキロ12円の高値で引き取ってくれるというわけだ。慌てた既存の業者は小野寺グループの進出に「関東から右翼が乗り込んできた。古紙を運ばないように」と宣伝して回るが時間とともに縛りから離脱する回収業者が増えてくるのは当然の理だ。同じ業務内容で無料のままでユーザーが承知するのか、有料で買い上げてくれるかで庶民のとるべき判別がつくはずだ。ようするに業界の内情に無知な行政の甘さ加減が、回収費用だとして税金を支出してきた不勉強さがある一方、地元古紙業界は小野寺グループの進出まで、市民の無知に付け込んで暴利を貧りつづけてきた責任はある。米沢市の担当職員に電話で尋ねた「市の条令をつくって地元の既存業者を守る必要があるかと考えています」とこれまた時代錯誤する係員のセリフだった。一般排収集業を希望する者に行政は「間にあっているから」と行政は許可を出そうとしないのが現状だ。希望する市民に許可を出せない理由に市民は既存の業者に毒饅頭を食わされているからだと疑惑を感じている始末だ。ある業界通は「高橋前市長、武田誠県議 厚生社、環境課との癒着以外に考えられない」という。他市から参入するにはそれぞれ市場調査なりを十分になした上でのことだろうと、本社のある水戸市に派遣して調査させた。報告書によると本社自社ビル5階が総本部、卜レ-ラー100台にトラックが200台を所有、扱い量じつに月10万トン日本一の古紙回収会社だった。創始者小野寺会長に直撃した「古紙に新たな生命を吹き込む仕事が私の天命。チリ紙交換を原出発点として市民とともに栄える産業だと信じて、今日までの人生を夢中で駆け抜けてきたと感慨無量ですね。人生どうせ古紙回収一途に賭けるなら、今太閤と呼ばれる人間になってみたい。私が描いたたったひとつの夢でした」と、創業時の苦しかった頃を振り返り懐かしんでほほえむ小野寺会長だった。

拝啓 安部新市長殿

kage

2003/12/24 (Wed)

 自由の風のもと颯爽と初登庁されたこと大慶に存じます。

 鬼の会はヒョッとするとヒョッとするかも知れないと書き、だれが当選しても米沢市の不幸だと論説しました。市民のだれしもが市政を担当する安心な資格者として議員経験者を念頭におくものです。その点では市民は貴殿に不安感を抱きながらの選出でありました。小生も市民同様、不安感を隠すことができないでおりました。が、それよりも高橋の院政を断つべきだという信念に変わりはなかったような気がいたします。

 昨日、雲井龍雄の墓詣りに来たついでだと、小生の事務所に鳥海議員の案内で東京の知人、渡部裕人氏が訪ねてきました。彼は米沢人で激しい論客として、政界に知られた人物であり、故木村武雄のもとで活躍し、常に米沢市の主な選挙に影響を与えてきた人物で、怖れられてきたことは衆知の事実であります。特に高橋前市長などはその付き合いの度合いから畏怖感をもっている代表的な人だと思われます。

 裕人氏が私とあって開口一番「米沢もいい人材を選んだな。彼が雲井龍雄の顕彰者だと聞いてぜひ会ってみたいものだ」互いにそんな挨拶からはじまって延々5時間に及ぶ二人の会話が始まったものでした。一度、私も雲井の会に座して貴殿やお仲間と有意義な冬の夜を語り過ごしたことがありました。雪の墓前で朗詠された詩吟がいまでも脳裏深く残っており、事務所に顔を出してくれた吉村啓先輩が今年の雲井会に出席してきた感動を伝えてくれたものです。雲井を戯曲に書いた私を紹介しようと鳥海議員が渡部をつれてきたのだと思いますが、裕人氏とは知己の間でありながら、互いに文学というジャンルをもった関係から一歩間をおいた関係にあったような気がするのですが、お互いに強い意識を感じていた二人であったと今になって思われるのです。その毒舌さわやかな男が「いい人材を選んだ」という言葉を聞いて、市民の選択に間違いがなかったと安堵しているところです

 雲井の顕彰や自由の風の標傍など前任者には到底及びもつかない発想であり、いかにも清廉さを感じた次第。時が経つにつれて、擦り寄ってくる茶坊主どもに警戒することを進言するものです。人間というものの中でもホンマもんは揉み手をして権威者に擦り寄らないものです。それが人間のプライドというものです。私は鬼の会の代表者として貴殿との対決もありましょう。しかしながら、故郷を同じくする人間として故郷のつつがなさを願う同士でいたいものです。「みんなのためになるか」を市政の基本とした態度を崩さない新市長でありたいものです。市民は最も賢明な選択をしたと信じておりますが、市長の値打ちは職責を去る時に評価されるものだと考えます。勇気をもって市政の建直しに臨まれんことを希望しております。

ある料亭のはなし

kage

2003/12/20 (Sat)

 師走18日といえば忘年会などで料亭のかきいれ時だ。宴会場所も限定されているから予約されていれば当然、部屋が塞がっている理由で客の注文を受けない。

 ところが市長選挙の開票前に市役所から18日の宴会予約が入っていた。その数30席分、料亭は宴会場をあけて待っていた。二日前になっても連絡がないので確かめたところキャンセルしてくれという。材料も仕入、仲居さん数名の手配もすでに済んでいたところでのキャンセルである。顔には出さないまでも困惑している様子が伺える。予約の電話を受けた従業員がまず困った。

 開票前からの予約だというからには、高橋市長の退任と大久保新市長の歓送迎の宴席ということであったろう。新市長に擦り寄らんとした茶坊主職員の限定28人の衆が企画した宴会なのであろう。が、大久保落選、高橋院政の瓦解によってゴマスリ宴会を開く理由がなくなってしまった。そこで料亭に連絡さえすれば、別の宴会に部屋が使えて料亭に損害を与えずに済んだであろう。ここに公務員の奢りが見え隠れする。宴会の予約を女性職員に命じながら後は知らぬ顔、いったい責任者は誰だったのだ。万事がこんな無責任態勢の世界で息しているから、児童扶養手当の過払いを起こしても責任を感じないのだ。

児童扶養手当過払いに多数のメール

kage

2003/12/18 (Thu)

 各報道機関の既報、米沢市役所福祉課が五年間にわたって児童扶養手当が過払いされていた問題について市民から数多くのメールが届いている。直接の関係者の声もある。本年2月頃から問題が起こっていたようだが、再発防止の是正にはダブルチェックで対応しているから問題は起こらないと時の三宮課長が自信をもって言い切っていたという。が、再発した。過払いの1250万円については最高責任者をはじめとする関係職員の責任として支払うべきだとする意見が圧倒的である。昨年度も介護保険の使込み事故がありその処分については明らかにされていないが、六中の体育館入札間違い、はたまた今回の過払い事故の発覚である。問題は公務員の仕事に対する緊張感にほころびが出はじめてきたという意見が圧倒的なことである。通常の職場ではミスに対して処分は厳しいものである。たとえ1円の使込が露見した場合でも、即刻クビが飛ぶ。その点では銀行がことさらに厳しいものだ。過払い事故については受け取った家庭に返還を求めず市費を補填して済まそうとしているキライが見えるが、市費は私費ではない。不況の風に流されながら市民が必死で収めた税金である。簡単に市費を拠出して市職員の怠慢が発生させた事故に蓋をすべきではない。 1,250万円といえば市内従業員六人分の年収に匹敵する金額だ。

 公務員とはミスに関してかくも寛大な処置に恵まれるものであるか。この甘えが次の怠慢と事故に結びついていくものだということが市長には思い至らぬものであるか。

 今朝の新聞は、小国町町立病院が滞納していた消費税の支払いを関係者個人の責任として支払うべきだとして町議員が議会で発言したと報道している。

 ただでさえ公務員との待遇の格差是正が求められている現在、公務員の責任を明確に市民に示すべきである。自己の責任を認識し、市民が納得できるようなキチンとした後始末が出来なげれば公務員を批判する声が増大するであろうことが予想されるからだ。

世界の青年との比較から (歴史教育の過ち)

kage

2003/12/18 (Thu)

 ワープロで二宮尊徳を出そうとキーを叩くと「二宮損得」と表示されてくる。またどこにいても見られた二宮尊徳像は戦後わけなく消えてしまった。理由を探ったことはないが「労働と勤勉」の両立化を捨てさせる風潮が日本の教育界を駄目にしてしまったと思う。

 その結果、日本人は物質的幸福を追い求め過ぎ、金銭のみを追い掛ける拝金国家に成り下がってしまった。結果オウム事件に示唆されるように考えない人間ばかりになってしまったようにみえる。そんな日本国の教育をうけて育った青年たちと世界の青年たちとの考え方を比較してみると「自分の国の役に立ちたい」という項目では韓国が87.4%・アメリカが81.1%・フランスは54.8%・イギリスが46.5%・日本が41%と愛国心において他国の青年たちと比べてかなり低い意識下にある。

 「そのために自分の利益を犠牲にしてもよい」との意識については韓国54.4%アメリカは56.9%・フランスは11.5%・イギリスが22.5%・日本は5.5%である。「年老いた親はどんなことをしても養う」の項にいたっては、韓国が69.4%アメリカは52.0%・フランス55.5%・イギリス44.6%・日本は25.4%とかなりの低さだ。4人に3人は親を養うことを拒否しているのだ。この数字は総務庁青少年対策本部が発表した世界青年意識調査の結果である。この数字をみて日本人はいったいどんな考えをもつのだろうか。日本人として言いようのない恥ずかしさと、薄ら寒さを感じない人はいないと思う。しかし、現実の調査であり現実の青年意識調査の結果である。

 古いようだが、日本人特有の美徳が親孝行や勤勉、我慢、兄弟愛、郷土愛、愛国心、師の恩、質素倹約といった、人間が本来どんな勉強や仕事よりも大切にしなければならない徳目のようなものが、みごとに消えてしまったのではないか。

 宮沢賢治は「世界に不幸があるかぎり我に幸いなし」という。利他性なきところに人間の幸福はないというのが彼の人生観だ。人生の目的とはある意味で幸福の追求であろうが自らの幸福追求とは他者・共同体への貢献意識なくしてはもたらされないと発想することは人類史からの最大教訓なのであろう。しかし、この調査をみると愕然とする。日本の青少年達は、世界の中でもっとも利他性や犠牲心に欠落する存在になりはてている。毎日のニュース報道では政治家や官僚の腐敗・汚職の多さ。世界は日本人の自浄力の弱さに呆れている。福祉はバラまき、教育は大混乱、既得権に執着する人間はその社会的責任を果たさない。子どものいじめや自殺の蔓延。若者の遊民化。こうなると、戦後五十年経済復興を遂げたとはいえ、国家としての足腰はフラフラの状態だ。その構造の制度疲労は極限状態にあると認識しなければならない。

 調査項目はつづく。「外国から日本が侵略されたら」の問いに、「守る」が10%、「守らない」「逃げる」と答えたのが90%だった。世界にこういう国はない。

 人間の基本的資質において。世界が驚愕するほどの非良識・非常識を演じてしまっている。世界が相当の評価をする「教育勅語」がなくなり、その後それに替わる道徳教育も満足に行なえないまま今日まできてしまった。その他、あまりに重要な作文教育の軽視など原因は多々あろうが、その中でもっとも根本的原因になった存在が戦後歴史教科書ではあるまいか。小・中・高の歴史の授業をのぞいてみるとよくわかる。その大半は暗記教育だ。

 「関が原の合戦はいつ?」「頼朝が鎌倉幕府を開いたのは?」とにかく年号その他の暗記で授業のほとんどが費やされる。自らが生い育つ自分の国について考えることをほとんどさせない。世界のほとんどの国は神話的要素で子どもの心に歴史学習への興味・関心への火をつける。子どもは自国創造の始まりに胸をときめかせる。それをこの国の歴史教科書はすべて削除する。子どもの心から古代へのロマンも夢もすべて奪う。そこに加えて自虐、自虐、自虐のオンパレードとくる。「この国は他国へ出掛けて殺人しつづけた」「掠奪放火を重ねた」「レイプばかり」とくる。子どもの気持ちは氷のように凍てつく。「恐ろしい国」「悪い国」「ひどい国」「日本人に生まれてきた自分がいやになる」子どもはそう反応して大人になる。ドイツをみればいい。隣国のポーランドやフランスの教科書でその犯罪性が指弾され、その原因がドイツの歴史にあるとされる。ドイツは片面ではナチスの蛮行を徹底的に追求・断罪しながら、片面においてポーランドやフランスに執拗に抗議を繰り返している。「あれはナチスという鬼っ子が悪いので、ドイツ史の継続ではない」と、それも激しくだ。それをなぜ日本の国だけが、世界でたった一国「悪いのはすべて日本」式発想の歴史教育を行い、歴史教科書をつくるのか。

ナント古新聞紙が金になる

kage

2003/12/17 (Wed)

 今朝のチラシを見て驚いた。いままで金を払って処分していた古紙が売れるというチラシだ。ダンボールが一番値がよくて1キロ当たりの買取り価格は10円也。次いで古新聞紙が8円の買取り、通常1社あたり1カ月分の新聞誌は10キロ程度だから80円になる勘定だ。豆腐1丁・油揚3枚ぐらいにはなる。

 家庭で居住分の一部を占有して困っていた古新聞紙やダンボール類などは、年に一度は千代田クリーンセンターに「運んで」「待たされ」「金を払って」処分してきたものだ。

 業者に処理を委託すればバカにならない料金を要求される。古新聞紙・ダンボール・雑誌類を買い取るという業者は水戸市に本社のある北関東通商株式会社だ。家庭の主婦に向けてチリ紙交換方式で定期的に地域を回るという。また、各町内の要請があれば現地に出向いて回収された古紙を買い取るサービスも行なう。だから、町内単位の育成部などの作業もやりやすくなり、おまけにまとまった資金が還元され。一石二鳥というわけだ。

 ところで米沢市はチリ紙交換車の存在もなく、町単位で定めた所定の場所に所定のビニール袋を買って、所定の袋に詰めてゴミ集荷場所に出すことになっている。それを市が認定した業者が運んで行って処理してくれる。便利なシステムだと感じてきた。考えてみると所定の袋に入れて出さないと運んで行ってくれないのだ。市が定めたビニールの袋は市民が買い求める必要がある。だから市民は有料でゴミの処分を市に依頼していることになる。古新聞紙にしても同じ事だ。

 今朝のチラシを見て最初にオドロイタのは、古紙が金になるという現実だ。米沢市では今まで知らされていなかったことが、他市の業界参入によって広く市民の知ることになったわけだ。いってみれば米沢の古紙回収業者が黙って利益を得ていたということになる。

 加えて市役所の環境課の係員は新参入業者の実現に迷惑顔で対処していることから、悪く勘繰れば業者との癒着があるのではないかという疑惑さえも浮かんでくる。

 係員は答える「古紙が高い時は良いでしょうが、営業が成り立たないような相場になった時、参入業者は引き上げてゆくのではないかとの懸念はあります。市の条令で決めてもらわないと」市の条令を改正してまでも既成業者だけでやるという裏には何かがあるような気がしないでもない。市民の目の届きにくい業界だけにドロドロする何かが噴き出しそうな業界でもある。

 ともあれ、他市からの参入業者が米沢市内に集荷場を新設し、古紙の買取り価格を明示したことから古紙が金に代えられるというニュースは市民として歓迎すべきことだ。

 市内の当該業者を訪ねてみた。事情を聞くと「米沢市や山形市の古紙の買取り価格はあまりにも安過ぎる。これなら競争が出来る」と計算づくで進出してきたという答えだった。

 古紙の価格は国際相場で決まるんで、日本の相場ではない。特に中国、東南アジアなどに輸出しても見合う相場だという。チラシで流した価格は国際相場からの価格だという。意地悪くいえば、米沢の古紙業者は市民の知らぬところで暴利を貧っていたということにもなる。不況の米沢港に黒船が入り、古紙業界に喝を入れた勘定だと思えばよい。

励ましに感謝

kage

2003/12/17 (Wed)

 連日、アクセス数がマサカの数を示している。9月16日に立ち上げたネットだが次第にアクセス数が増えて、静岡や東京からの電話もくる。ここのところ300を切るアクセスはない。最高が584、連日物凄い数だ。想像もしていない数にまずは感謝したい。

 無論、個人的なメールも入ってくる。なかなか文章がまとまっていて相手の顔が見えるようなメールばかりだ。ちょっと困るメールもある。鬼の会首謀者殿にはいささかたじろいた。「初めて知った、事実」氏に返信。あなたの要請に応えます。年末でもあり小生も忙しい身の上で、20日は東京築地での劇作家の忘年勉強会で上京。そのうち日を定めて一献傾けたいと考えます。あなたの連絡場所が不明です。小生の事務所に連絡ください。

 電話は0238-21-8686です。
 デスク直通電話は0238-21-2144です。

 現在のアクセス数は5426です。心から感謝いたします。

安部新市長を待ち構える18の市議たち

kage

2003/12/16 (Tue)

 安部新市長は当選して間もなくインタビューに答えて市長の報酬を200万円割愛すると話した。市長の報酬を減額するということは他の助役・収入役・教育長らの特別公務員の報酬にも影響してくる。無論、市会議員の報酬にも陰りがでるのは必死だ。そのせいかどうか小島卓二議員が吠えた。「安部三十郎が市民受けするためのパーマンスでしかない。議会が承認しなければ新市長が何を言おうと実現しないのだ。われら大久保候補を擁立応援した議員は18人、数の論理で議案通過を阻止してやる」と気炎をあげているようだ。一方、小島議員は議員報酬を減額すべきだとして否決され自分の主張分を現在銀行に預金してあり、議員の任期が切れると同時に米沢市に寄付する運動を継続中だ。だとすると小島議員の発言に矛盾が起きないだろうか。

 新市長にも小島議員にも一様に言えることは、米沢市の財政面から勘案して近い将来、米沢市が人権費だけで破綻するのではないかと懸念してのことだろうと推察する。政府は地方交付税を減額するという方針を決めた。したがって米沢市の人件費が歳入の比率にそぐわないパーセントを占めてくると、米沢市は何もできない町になってしまう。市民の付託にこたえるには財源を探してくるより他はない。だからといって今までのように補助金にすがるような仕事を運んできたのでは米沢市の借金が増えるだけの話だ。補助金つきの仕事は補助金に見合う借金を米沢市が都合するというご都合主義なのだ。補助金はあくまでも補助するという意味の資金で、地元は応分の負担を余儀なくさせられるということだ。

 米沢市が市民の付託に答えて何かをやろうとしても財政が許さない格好になっている。だとすれば、市職員・市関連の人件費の割愛に求めるしかなくなってきた現実がある。

 なるほど公務員の俸給は都会の一流企業との比較から決められている。米沢市は一流企業が乱立する都会ではないのだ。米沢市は米沢の平均額を参考にして決めるべきが筋であろう。その論理の実行で不服のある市職員ならば、いさぎよく退職すべきだろう。米沢市が困窮し、市民へのサービスもさえもおぼつかない財政であれば、市民一様に耐えるべきであり、市職の組合があるからといって甘え、ぬくぬくとオラが天下を貧っているようではもはや米沢市民とは呼びにくい。安部新市長、勇気をもって英断をもって実行してもらいたい。

 小島議員が吠えた理由の裏には、負けた選挙の恨みつらみが介在しているのだろう。18の議員たちは最初だけ抵抗のパホーマンスは示すだろう。が、もともと気骨のあるスジを通せる議員が枯渇している米沢市議会だ。多数の意見に耳を傾け、やるべき時は断固としてやり通す市長であってほしい。市民の願いはそこにある。

児童扶養手当て支給ミス・12,526,920円 (米沢市役所福祉課)

kage

2003/12/16 (Tue)

 不況の最中、庶民には縁遠い多額なボーナスを受けとった市職員たちだ。が、ここにきて福祉課の業務怠慢から5年間にわたって上記過払いが県の監査によって発覚した。

 児童扶養手当ての支給は母子家庭を対象にして支払われるものだが、それには審査手順がある。まず「必要書類」を提出させ、福祉課職員が調査し県が認定し、一定基準によって支払われるものだ。昨年8月からは県の委任を受けた市が認定を任されたが、それまでは県の認定が必要だった。審査は市職員の手にわたったものの「支給すべきでない家庭」に支払った合計額が千二百五二万六千九百二十円他というわけだ。市職員の調査に手抜きがあったか、調査能力に欠けていたかのどちちかだ。

 安部誠也福祉部長に尋ねてみた。

Q-調査および審査のミスだと認めておられるが、過払いしたのは税金ですね。すみませんで済ませる問題ではないと考えます。あなたを含めた福祉課全員で弁償する意志はありませんか?

 A安部部長-議会からの質問もあるでしょうから、今は対応を考えておりません。

Q-それは市民感情として承知できるものではない。農協の不祥事がつづいているが、後始末は農協役員の自腹を切って処理しなければならない。民間企業なら即刻弁済の上に懲戒解雇ですよ。あなたは責任者として腹を切るおつもりはないのですか。問題は税金の扱い方に重い認識が欠けていませんか。丁度、ボーナスも支給されたことですから責任をとられたらどうですか。

 A 安部部長-それの対応は考えていません。

Q-おかしい。あなたは過払いした家庭には市のミスだから返還をもとめない。と公表しておられる。あなたの金ならそれだけで済むでしょう。問題は公金の過払いです。返還を求めないというなら過払い分の金額は一体どうなるんですか。米沢市の欠損金として処理されるつもりですか。公務員という職業は、仕事のミスから起きた税金の無駄使いでも欠損という形で処理されるものなんですか。

 A 安部部長-すみませんが、本会議がはじまるので

 安部福祉部長は真面目な人物だとの評価が高い。だからといって審査に過ちがあったからといって許されるものでもあるまい。とかく公務員問題が騒がれているご時勢だ。怠慢以外のなにものでもない。統括責任者として何んらかの方策で全額弁済すべきだと考えられるがどうだろうか。

起きて半畳、寝て一畳

kage

2003/12/15 (Mon)

 12月14日深夜、ご存じ赤穂浪士46名の同志が本所松阪の吉良邸に討ち入りしたのが午前4時。戦闘わずか1時間にして炭小屋に隠れていた上野介の首をはねた。元禄の世に思いをはせながら、何の気なしにテレビのスイッチを押したらアダム・フセイン逮捕のニュースが入ってきた。8ケ月の逃亡の末に捕らえられた場所が泥小屋の狭い穴の中だった。トルストイの短篇小説の中に「人にはどれだけの土地がいるか」がある。広大なシベリヤを舞台にした逸話だ。著者は終焉をむかえた人間の墓穴こそ人が必要とする士地の広さだと揶揄している。いわく日本の古諺「起きて半畳、寝て一畳」がそれである。

 バブル期に土地が高騰し猫も杓子も土地という土地を買い漁って狂乱した。その結果が日本の現況にあらわれている。無いよりは有ったほうがいいに決まっている土地だが、金銀宝石とおなじように墓中まで持っていける代物ではない。独り占めして土地の境界を争って生きてみたところで所詮むなしいことだ。上野介は炭小屋の半畳間にも満たない片隅に息をひそめ、フセインは寝て一畳の穴ん中に逃亡先を求めていた。麻原の隠れ部屋すらも一畳足らずほどであったことに思いいたると、人間の隠れ家も墓穴の広さと同じようなものだということがわかる。24年間のフセイン政権崩壊後の逃亡8ケ月、幾つの穴を放浪しどんな夢を見続けていたのだろうか。日本円にして約8千万円が彼の傍らにあったという。さて、この裁きはどうなるのだろうか。まちがっても日本を裁いた東京裁判の如き「戦勝国が敗戦国を裁く」というような国際法違反は繰り返すべきではないだろう。

公務員のボーナス論争がカシマシイ

kage

2003/12/15 (Mon)

 本会を立ちあげてから、本日までのアクセス数は4843。掲示板の書込み数11は最高値を示している。これからもますます掲示板が活躍しますように。

 相変わらず公務員に対する風あたりが強いようだ。ボーナス時期を向かえてその格差が身にしみるだけに市民感覚が鋭敏になってくるのだろう。昔から悪代官の例もある。まず、自分たちの実入りを計算して足らない時は課税すればよい。これが今昔を問わず役人たちの考える起点なのだ。 一般商店経営者にすれば、売り上げが足らないからといって従業員の給料にマッタをかけるわけにもゆかず、足らない部分は自分の取り分を減らすしか方法はないのだ。

したがって、取り分がゼロという商店が幾つあるだろうか。商売が成り立とうと立つまいと毎日が自転車操業という悲惨な現実だ。買物をスーパーに集中するあまり、近所にあった八百屋や魚屋などの影が消えている不便をいまさらのように嘆くのはあたらないだろう。「買物はなるべく米沢の店でしている」というご婦人、みどりやの店じまいを残念がり、キムラの継続を心配しながら食料を買に出掛けている。キムラにはそんな市民もいるのだと知って継続に力を入れていただきたいものだ。

 さて公務員諸君、不況で目立つ職業だけに気を引き締めて役務に精を出してもらいたいものだ。投書氏のいうように「3分の1で間に合うような役所」ではあるまいが、常の動作が緩慢であることが市民の目に不快となって映るのは当然だ。自重こそが急務。

 公務員といえば教職員。昔の教員は己れの仕事を聖職だとして貧しい生活を当たり前として人前で酔態など決して見せなかったものだ。いまではスナックのカウンターを独占して気炎をあげている始末だ。挙げくのはてに街のフラワーポットを蹴飛ばし破壊するなど聖職とははるかに遠い振る舞いをする。

「教師といえども労働者だ」とのたまう教師もいてしつこく絡んでくるので「お前が労働者だとゥ、ふざけんな、スコップ持って土木作業を手伝ってみろ。労働の意味がわかるよ」と切り返したことがある。また、PTAの懇親のために「放課後にソフトボールでもやろうか」と父兄の意見。間髪を入れずある教師の発言「残業手当てはだれが出すんだ」怒った父兄は「お前だけはソフトボールに入れないようにするから」これが父兄と教師の会話なのだ。

ある女生徒は「先生がトイレにまで追いかけて来てトイレの戸を開けるんだよ」「体操部の恐怖は先生が身体のアチコチを触ることだ」とかetc。昔といっても戦前の教育を受けた者はこう述懐する「毎日が教師によるビンタだ。心身鍛練棒だと称して男の教師は例外なく頭を叩いて回って授業をしたな」米中の故千喜良校長なんかは授業中に教室に入ってきて、野球で使うノックバットで生徒の頭を直撃してた。

いまなら教育委員会ものだ。オレたちはそれが当たり前だとの感覚で勉強をし日本という国を考えてきたものだ」これも教師に信頼感があったからで今になってそんな教育を受けてきた満足感が育っているのだ。立場の違う同士が反目する不幸はやめよう。お互いの信頼が大切なことだ。

公務員も一般市民に理解と信頼が生まれてくるような努力をすることだ。公務員の保証能力の高さからしても、一般市民よりは格段の社会的地位の高さがあるだけにだ。傲ることはなんとしても避けたいものだ。

ゴミ収集異聞・地元は市の衛生組合長にカンカン

kage

2003/12/13 (Sat)

 本年の市功労賞受賞者の一人に米沢市衛生組合長の舟山文司氏がいる。そのお膝元の町内会が功労賞受賞祝賀会出席をめぐって話題がしきり。結局、地元町内からの出席者はゼロ人。

 住民の声「一年にたった一度の地元川掃除に顔も出さない人がなんで市の功労者なんだや?」「米沢市の衛生組合長をやっていながらよ。自分の家が垂れ流している生活雑排水もあるべな、どう考えているんだべ」住民の不満はカシマシイ。

 米沢市でゴミ袋の施行が始まった時早速市役所環境課の職員にお願いして「燃えるゴミの分別の仕方」の勉強会を開いたことがある。住民の勉強会だということでNCVテレビ取材も加わっての勉強会だった。 その日のゴミ収集は「燃えるゴミ」の日だった。ところ指定時間外に「燃えないゴミ袋」が出されてある。町内会として赤っ恥を掻くことになった。怒った人たちが袋を開封してみて驚いた。舟山家の奥さんが出したゴミだった。それで町内の一人が「ゴミ袋に記名する欄が有るからゴミを出した人の記名をすること」を申し出たら「プライバシーの侵害だ」と舟山氏自らが反対したという。それやこれやで功労賞受賞祝賀会に町内からは一人の出席者もなく、町内とのミゾは深まるばかりだという。

 ちなみに舟山文司氏は元市職員で課長職を勤めた人物だ。

院政瓦解後の新市長の英断

kage

2003/12/12 (Fri)

 高橋院政を嫌い安部三十郎氏を新市長に信任した米沢市の有権者たちに-言。

 選挙は済んだからといって米沢市のおかれた現況から目をそらしてはならない。まず、なぜ高橋市政から大久保市政に伝承しなければならなかった理由を掘り下げてみなければなるまい。今の時点で公表するのは適当でないが、院政瓦解によって新市長の評価が試される。いうまでもなく行政の裏側で画策されていた重大な出来事が表面化してくる。某銀行が絡んだ高橋市政の疑獄?に発展する気配が濃厚のようだ。はたして新市長、解明のために政治生命を賭けることができるか。また、その勇気と公平さを備えているか。流れるべき水が澱んだ時何が起こるか院政の崩落によって一挙に悪臭を放ちはじめている。事情通は「ハハーン」と頷けるだろうが、根が深いだけに慎重な調査がなされているようだ。

 安部三十郎新市長と選挙後会談した人物の評価「市民が心配するような人物じゃない。素直に人の意見に耳を傾けるし、芯はなかなかの強さだ。自分の任期を短くするような愚かさはしない新市長だと見た。公平を第一義とした市政をするのだと誓ってくれた」つづけて「新市長は市役所までの通勤は自分の車でくる。が、市長専用車の色が黒色であるのが気になっている。黒色は大名が使った漆塗りの駕篭と同色で、権威の象徴のような色で賛成できない」と意外なこだわりをみせていた。車の色を何色にするのか市民にとって興味がつきない。

 22日が新市長の初登庁。職員はどのような迎え方をするのだろうか。巷では初議会を楽しみにしているが、はたして傍聴席に入場できるかどうかを今から案じている始末だ。高橋市長の初登庁の時は、支援者のご婦人たちが大挙して新市長を囲んで一緒に登庁すると息まいて集まっていたが、婦人らを宥め、市長単独で登庁させて事なきをえたが、嬉しさのあまり同行したがる支持者がいるものだ。くれぐれも常識をわきまえた初登庁であってほしい。あえて望むならば晴れてほしいものだ。

 安部新市長に一言。「政治家は公約をまもってこそデモクラシーが確立されるものだ」

先進的な医療でしても、ガンは確実に生命を奪う

kage

2003/12/11 (Thu)

 日本国国家予算の3分の1を越した医療費予算。先進医療機器の発達と医療技術が進んでいる日本だが、患者は一向に減らない不思議。米沢市の場合、市立病院は赤字つづきの状態で改善される気配もない。日夜あれだけの患者が殺到しながら病院の会計は相変わらずの赤字経営。赤字になっている最大のネックは医師の報酬の高さだといわれている。

 一昔を考えると大抵の家庭は「越中富山の置薬」で凌いできた。足の捻挫には、親は畠からニラを採ってきて塩をまぶして石で叩き露と一緒に患部に貼ってくれた。匂いはきつかったが効果はテキメンだった。風邪で熱が出ると親は裸の背中に裸の子供をおんぶして熱をさげてくれたものだ。医学でいう手当てとは母親のエネルギーをもらって治癒力を高める行為をいう。

 人類が誕生して何万年になるか定かでないが、人類の生命は永々とつながれてきた。一般的に医師が庶民に介在するようになったのは昭和も戦後のことでしかない。国民皆保健制度が敷かれ喧嘩太郎こと武見太郎医師会長によって医療費の高騰と医師の待遇が異常なほど改善されていった。

 武見の喧嘩の切札は保健診療辞退戦術だった。困るのは国民で「健康保健料を収めながら、その保健の効力がなくなる」このように理屈の通らない戦術で国民を困らせながら現在のような医師の地位を高めた。かくして日本はとどまることを知らない医療天国となってしまった。一昔の医師は往診が主な仕事だったが、いまは病める人が病院に出向く主客転倒の時代だ。

 外来患者が多く対応が出来なくなっているのは了解するとしても、3時間待って3分医療の現実を了とするわけには行かない。治療の前に検査づけ、検査のデーターを見て治療を開始するという具合だ。ならば、コンピューターの世の中だ。デスクの中に先進的治療法をインプットしておいて、検査のデーターと照らし合わせたら先進的な治療が即座に可能になるではないか。どんなヤブ医者といえどもコンピューターが示した治療法によって誤診率が下がるのではあるまいか。ある病院関係の関係者はいう。「医師はそうなることが怖いのです。いずれはそうなるでしょうね」。内科医の誤診率は予想以上に高く、初代ガンセンターの黒川院長にして終身誤診率は五割だと聞いた。「二人に一人が誤診されている勘定になる。医者の診断も怖いものだな」と慨嘆する私に医師の義父は「誤診率五割。さすが黒川先生だ」と言って感心するばかり。黒川院長も武見医師会長もガンでなくなってしまった。したがって、五十年もの間、医師の診断を拒否して過ぎた。「わが主治医は自分なりき」をモットーにして、五十年間、風邪ひとつ引いたことはない。友はいう「バカは風邪を引かないからな」「バカで結構だ」と言い返す。

 近年、ガンで亡くなる人が多い。ガン保険で儲かったという青年もいるが、あまりにも多いガンの死者たちである。防げば防げる病気であるのに、ガン被患者たちは自分の肉体の維持に心を配らなさ過ぎる。私はカリフォルニア大学を二度訪れ、マンドーゴーナム博士の研究室でガンと免疫との関係を実際に学んできて今日がある。だからガンに被患しない方策を続けている。そうまでするわけは病気が嫌いだからで、なかんずく確実に生命を奪い取るガンが怖いからだ。簡単な理由だがガンほか病気とは疎遠を続けるつもりでいる。(私の健康学から)転載

ある元市職員の言動から

kage

2003/12/10 (Wed)

 怨念とは意外な発展をするものだ。高橋市長夫人の妹といえば元水道課にいた職員だ。義兄の後釜とされた大久保元助役の惨敗が余程悔しかったに違いない。山形銀行の職員に電話して「他の銀行は大久保候補の推薦依頼に応じてくれたが、山形銀行は推薦状をくれなかった。そんな銀行に預金しておく義理はないから預金全額解約する」と言ってきた。銀行職員はすぐに解約の手続きを済ませたが、女は「米沢市の指定銀行を米沢信用金庫に切り替える」と捨てセリフを残していったという。

 全米沢市民を対象にしている銀行とすれば一方の候補者側に肩入れするような推薦状に判を押すことは出来なかったはずである。山形銀行の処置はどう考えても正しい。銀行は常に公平な立場でほしいものだ。悔しまぎれの捨てセリフではあろうが指定銀行を代えるにしても市長の任期は残りわずかだ。女の思い上りから吐き出された言葉だろうが、それにしても大それたことをいうものだ。女の言動に常に惑わされていたのが市職員たちであったことは知られた事実だ。

 故我妻圭介元市議が生存中のことである。高橋幸翁の市長選対を組む条件として高橋夫人が事務所に顔を出さないことが鉄則とされていた。理由は事務所の誰かれを問わずアゴで指図するという不快さが組織に蔓延していたからだ。姉が出られないのでは戦況がわからない。そこで上記の妹が連日事務所に出入りする。たまりかねた我妻圭介氏は「お前は公務員だベ。違反行為で迷惑だから一切事務所への出入りは禁止するッ」と断った。

 少しは効き目はあったのかと安堵してたところに「ご苦労さまッ!」と声高らかにご出馬。さすがの圭介氏もこの晴れやかな笑顔にゲンナリ。

「優柔不断」は成功の秘策か?

kage

2003/12/10 (Wed)

 100年前の著作「悪魔の辞典」の中に著述されている。著者は皮肉屋で知られる米国人A・ピアス。

 「何もしない方法」には選択はない。が、「何かする方法」には選択が幾通りもある。その中からたったひとつの正しい方法を選んで行動しなければならない。こう考えてくると「何もしない」のが得策だろうという思いに至る。

 「沈黙は果たして金か?」か、喧々顎々、議論百中の場に座して黙して語らず悠然と紫煙を燻らしているような人物は知恵者に見え、秘策がありそうな期待をさせるものだ。ただ仲間はずれになるのが怖くてその場に列ねているだけなのだが、世間の風あたりは弱い。また有言不実行という人物がいる。優柔不断の典型的な人物だが特に嫌われることも少ない。嫌われる典型的な人物とは有言実行を己れの責任として猪突猛進する人たちのようだ。「過ぎたるは及ばざるが如し」で実行の手段として多少はみ出しがあるかも知れない。世間ははみ出しの部分を針小棒大に捉え「成したこと」ことをうわまわる評価で包み隠そうとする嫌いがある。また有言実行型にはともすると失敗もある。そんな時、優柔不断型はここぞとばかりに非難する。

 封建が見え隠れする歴史をいつまで引きずって行く米沢市であるか。米沢市は優柔不断な人物に大儀を任せてはならない。多少のはみ出しは笑いとばしても有言実行・猪突猛進型の人物を活用することだ。米沢の活力のためにもだ。

 己れの立身出世のため上司にキン抜きされたような優柔不断型の公務員はいらない。

柳や小さんの落語から

kage

2003/12/09 (Tue)

 寝る前のひとときは落語のCDを耳にするのが日課だ。

 小さんの語り口が好きで寝物語にはちょうどいい。話の中に狸の化けばなしがある。 山から下りてきた狸が、里の一軒家に集ってご馳走ならべて酒宴を張っている村の悪ガキどもを見た。「ああ、オラも食いたいなア、誰かひとり帰ってくれると化けて仲間に入れるんだがな」と、ボヤいているうちに仲間の一人が帰っていった。狸はさっそく酒宴の中に入っていき「帰ろうと思ったが、もう少しいよう」とドッカと腰をおろしてご馳走に噛りついた。すると「ウワァ!狸だッ!」と、みんなの袋叩きにあってあえなく殺されてしまった。狸はあまりの嬉しさに肝心の化けることを忘れてしまっていたのだった。

 ある欲望に取りつかれていると本筋を失ってしまうという教訓を落語を通して教えられたように思っている。

 ともすると人は有頂天になり、己れを見失うことがある。

 町田総務部長の場合は入札の順番を間違えながら「私に落ち度はない」と言い張って悪怯れるそぶりも見せなかった。市長には当然報告しただろうから市長は失態を諫めるどころか、落札社が金子建設・後藤組だったから「言いたい奴らに勝手に言わせておけッ」ぐらいの励ましはしたのだろう。でなければ町田総務部長の傲慢な態度には理解できないものがある。

 狸は化けてこそ狸の本領発揮だが、狸が願った通りの筋書きに有頂夫になって化けるという手順を怠ってしまった。高橋市長も20年間の市政を担当して公務員特別職という立場を忘れ奢りから手順を省略させたものであろう。結果は市民の袋叩きにあって有終の美は切腹ものにされてしまった。町田総務部長も市長にならって切腹を覚悟するぐらいの男気があって然るべきなのだ。安部新市長に提言する。公務員の奉仕の精神に欠けた町田総務部長を更迭せよ。後進の見せしめのためにだ。ここで手心を加えるならば、市民の刃は安部新市長に向けられるであろう。手順を間違えないことがなによりも肝要。

 掲示板に「勝ち組」氏からの投稿があった。おそらく安部陣営に投票された方のようだ。文面の中で「私の地区は隠れキリシタンだった」と、地域を牛耳る人たちの圧力に言いたいことも言えず、表面上は黙って従うふりするより仕方がなかったのであろう。が、キリストを信仰する心にいささかの揺るぎもなかったということであろう。社会の矛盾や不条理に余技なく抑制されつづけた市民の一大噴火が、この度の米沢市長選挙の結果だったのだろう。「市民も捨てたもんじゃない。バランス感覚があるよ」という老人の重みのある声が耳に残っている。

 狸じゃないが順序を間違えない市政を期待したいものだ。